デザイア
「行ってきます」
玄関の戸を開けながら振り返るとき、彼はいつも心のどこかで期待していた。
室内は昏い。その向こうからは幽かな呻き声が聞こえるだけで、望む台詞は聞こえそうになかった。数秒だけ待ってから扉の向こうに身を滑り込ませた少年の顔は暗い。
茶治・レモン(魔女代行・h00071)の父は、もはや彼を認識すらしていない。死に肉薄する戦場に長らく駆り出されていた彼は、ようやく長期任務を終えて帰った家で、最愛の妻が死んだことを知った瞬間に心を壊した。
彼女が守り抜いた息子のことも既に理解は出来ていない。碌な葬儀も上げられずに瓦礫の下敷きになった妻の、煤けた唯一の写真に縋って泣くばかりだ。
だから今日も死地へ向かうレモンを見送ってくれる人は誰もいない。同年代としても小柄な身を真黒の制服に包み、帽子を目深に被った年端もいかぬ少年は、引き摺るような足取りで俯いた。
昔のことを――。
よく思い出せなくなったのがいつからなのかも、レモンにはよく分からない。暖かかった記憶を思い出そうとすると悲鳴と断末魔が脳裏をよぎる。そこでいつも考えるのを止めてしまうから、彼の中に残っているのは一抹の虚しさと、自らの無力を呪う罪悪感だけだ。
年少でありながら幾多の戦場を経験して来た少年は、もうじき最短ルートで小隊長の任を担うと期待されていた。最前線からの生還には運と実力が必要だ。ある種の卓越した|生存の才能《・・・・・》に恵まれた彼は、しかし己の身がその勲功に見合うとはとても思えなかった。
学校で初めて武器を握ったときには確かに希望を抱いていた。終末を前にした人類の歴史の中でも誰かの役に立ちたいと思ったし、彼がこの戦局を照らす光の一端になれれば良いと心底から思っていた。だからこそ過酷な戦地に積極的に赴いたのだ。
レモンが戦場の残酷さを知るまでに、時間はかからなかった。
同じ小隊に編成された仲間は次々と命を落とした。閃光に焼かれ、銃弾に貫かれ、巨大な武器に両断される仲間の血と断末魔を浴びながら、レモンは幾度も五体満足のまま帰還した。数人の生き残りに混ざって学校に戻り、また武器を携えて最前線に向かう。見知った顔が命を散らし、また別の数人と共に帰投する――繰り返すたびに、彼の心に戦友たちの命の終わりが深く刻まれていく。
激戦区にあればあるほど隊員たちの結束が強かったことも悪く作用したといえよう。いつ死ぬとも分からぬ幼い彼らは、それだけに互いの存在を拠り所とした。皆で生きて帰ろうと、果たせるはずのない約束をよすがにして、仲間のために過酷な戦いに次々と身を投じたのだ。
いつしか少年の心には生還の安堵よりも罪悪感が根を下ろした。
生き残ってしまう。生き残ってしまった。生き残ってしまってごめんなさい。自分が盾になれば良かった。目の前で消えていく命を成すすべなく見ている己が、ひどく臆病な腰抜けのようにさえ思えた。
戻ってくるたびに讃えられることが重荷になる。まるで自分が死神になったような気分がした。それでも戦場に出れば同じ部隊の少年少女とは言葉を交わすし、深入りしないとどれほど心に誓ったところで、極限状況での唯一の暖かさに縋ってしまうのはやめられなかった。
そうしてレモンは生き残る。最前線におけるよすがは次々と顔を変えていくのに、彼だけがただ一人、四肢を失うことすらなく帰投して、数え切れぬ戦没者の名が刻まれた銘碑を茫然と見上げることになる。
こんな思いをするくらいならば、いっそ死んでしまいたい――。
いつしかそれだけが唯一の逃げ道のように思えるようになる。永劫繰り返す悪夢と、いつからか鏡の前でさえ感情を表現することの出来なくなった顔は、絶対の解放を求めていた。
安寧を得るためには、もはやレモン自身の命が絶たれるほかないのだ。
それでも、自らの首にナイフを当てることは出来なかった。
せめてその死に際には誰かの役に立ちたい。戦友を庇って死ぬのでも、部隊を逃がすために砲火に晒されて命を奪われるのでも良い。己が全てを使い果たして死を迎えるために、彼は自らの武器の柄を握り締めた。
◆
轟音が響く。
既に耳は慣れ切っていた。絶えず響く爆雷の音が耳朶を反響する。また一人戦友が血煙に変わって、倒れ伏すと同時に痙攣して動かなくなるのから目を逸らす。
最前線は苛烈だ。降り注ぐ銃弾の雨は既に部隊の幾人かの命を不毛の土へ還し、レモンの耳許を掠めて土煙を巻き上げる。火薬と鉄錆のにおいに満ちた戦場の空気を極力肺に溜め込まぬようにしながらも、真黒の学生服に身を包んだ少年は自らの手元を見下ろした。
あらかたの戦闘訓練は受けて来た。全ての授業を真面目に聞いていたし、自ら対策を応用したこともある。大抵の状況に対応出来るからこそ今まで五体満足で帰還しえたのだ。それだけの知識も技量も、彼が意識することはなくとも、レモンの中にはあるはずだった。
しかし――。
今しがた彼らを追い詰めている機械群は、レモンの知る全ての方策を真っ向から捻り潰している。
一様に真黒に塗り潰された機体を見るのは初めてだった。斥候部隊がそれらを指して|鴉《・》と言っていたのも頷ける。
ウォーマシンにも複雑な衝突があると授業で教わってはいるが、無数に勃興するそれらの内情を人間側が詳しく知っているわけではない。どの派閥に属していようと、自律機械がどのような立場を取ろうと、白兵にとってはなべて|人類の敵《・・・・》でしかないのだ。
それでも、鴉がどこかの一派の精鋭部隊であるのだろうとはすぐに想像がついた。
何しろどの装備も今まで接敵してきたものとは比べ物にならない。最前線に送られる兵士はそれだけ経験を積んだ者たちだ。レモンにしろ、戦友たちにしろ、そう簡単に遅れを取ったりはしない。
それでも全くといっていいほど歯が立たないのだ。既に人数を減らした部隊は撤退を余儀なくされているが、無尽蔵の砲撃の嵐は背を向けることすら容易に許してはくれぬだろう。
散り散りになってしまった小隊との連絡もつかない。役に立たなくなった以上、無線機の電源は落とすべきだろう。機械群は様々な方法で人間の居場所を特定する。現在交戦中のものたちは少なくとも生体感知を行っているわけではないようだが、電磁波を拾われればおめおめと場所を知らせることになる。ならばリスクは少ない方が良い。
最後の生命線の電源を切って、レモンは一度目を伏せた。
じきに身を隠した瓦礫が崩れる。彼の存在が相手に露わになったその瞬間を狙うほかない。実力差を埋めるためのあらゆる手段を、易々と真っ向捻り潰すような精鋭部隊に一撃を喰らわせるならば、隙を突く以外に方策は残されていないのだ。
武器を握り締める。銃撃の音に高まる鼓動を押し殺す。大きく息を吸って、吐いて――。
耳元で着弾音がする。
一息に地を蹴る。
叫んでいたかもしれない。それも戦場の轟音に遮られて聞こえなかった。鼓膜を劈く爆音を意に介さず、レモンは眼前に迫る黒い金属めがけて己の武器を振り下ろした。
手応えはあった。しかし両断するには至らなかった。痺れるような衝撃が両腕に走り、直後に彼の軽い体は吹き飛ばされた。
鋭い熱が脳漿を焼く。地面を跳ねるたびに耐え難い痛みが身を襲い、呻き声を上げて転がった少年は、荒い呼吸のまま無意識に立ち上がろうとした。
――うつ伏せに潰れる。
鉄の香りを孕む土に顔面を叩き付け、そこでようやく、レモンは目を開けた。
ぼやける視界を持ち上げる。腕がひどく痛む。全身に走る鈍痛を集約したかのように熱を持つそれを視界に入れて、彼は凍り付いた。
あるはずの両腕は、二の腕から絶えず零れる血に変わっていた。
短く浅い呼吸を繰り返しながら、それでも身を跳ねさせて、彼は辛うじて自らの体を持ち上げることに成功する。瓦礫に身を預けるようにして見遣った両腕の先は幾度瞬いても現れない。代わりに、確かな激痛に変わっていく熱の向こうに、真黒の機体が向かい来るのが見えた。
死ぬのだ――と思った。
「い」
いやだ。
レモンの脳裡に刹那にあらゆる記憶が駆け巡った。断末魔。悲鳴。命乞い。父の顔、昏い部屋、呻き声。
母を喪った父の慟哭。己を抱き締めた腕。燃えたはずの穏やかな家族写真。戦友との冗談。授業を教える教師の声。初めて戦場から生還した日の安堵、褒められた喜び、武器を初めて握った日の希望――。
夢中で体を庇おうとして、そう出来る腕がないことに気付いた。己を守る武器がない。構えられる掌もない。熱い。痛い。絶え間なく零れる血の噎せ返るにおいが鼻腔を埋める。強烈な眩暈と頭痛が何から齎されるのかも分からない。心音が頭の中で空転する。
――死にたくない。
己を狙う銃口を前に、レモンは身を翻した。驚くほどの力で地を駆ける。自らに向けて放たれる銃弾の雨さえも、彼の知覚には捉えられていなかった。
怖い。痛い。辛い。苦しい。逃げてしまった。戦わなくてはいけない。戦えない。悔しい。死にたかった。死んでしまいたい。死にたくない。
動かぬ表情のまま呻き声を上げて、彼はあらゆる感情に歯を食い縛った。まるであの昏い部屋に横たわって、母の写真を抱きしめる父のような声だった。爆撃の予感を覚えて、最も大きな瓦礫――元は建物だったはずのそれを曲がったとき、ふいにレモンは全ての音を失った。
戦場の音が遠のく。今にも少年を殺そうとしていた銃砲は彼方へと消え、代わりに見たこともない舗装された道に放り出される。
力なく倒れ伏した耳に人々の喧騒が遠く聞こえる。|天蓋大聖堂《カテドラル》でさえ見たことのない人波が、遠くに行き交っているのが見える。静かな路地裏に倒れ伏した少年は、ごみ箱の上で鳴く猫の声を最後に、失血で遠のく意識に任せて目を閉じた。
◆
手袋をしかと引き直し、少年は街へと繰り出した。
この辺りのめぼしい料理店はリサーチ済みだ。後は歩いている間に絶品スイーツの店と巡り会えれば尚のこと良い。無表情のまま、レモンはすっかりと慣れ親しんだ家を後にする。
目が覚めたときには傷も塞がっていた。両腕を補う贈り物をくれたその人は、己を魔女と名乗った。
最初のうちは√ウォーゾーンと呼ばれるらしい故郷に戻っていたこともあった。招聘されれば両腕を代価にして手に入れた力を振るうこともあったが、それも師が本格的に姿を消すまでの話だ。命の恩人であり、魔術の師でもあるその人が長らく不在となったのである。とまれ現在のレモンは、その人の戻る日まで店番をしていたり、合間を縫って世界を歩いて回っている。
ここでの生活は――というよりも、故郷の他の世界における生活は、彼に深い喜びと解放感を与えた。何よりも空腹に身を苛まれずに済む。幾ら食べても食べきれぬほどの数多の料理がある。空襲警報に怯える必要もないし、無力化されたといえど閉塞感を齎す無数の機械も存在しない。
毎日のように新作の食べ物が発売されている。甘いものも幾らでも食べて良い。美味しい飲食店は生存をかけて日夜しのぎを削り合う。何よりもレーションのように片手で食べられて、かつカロリーと濃い味を楽しめるファストフードはお気に入りだ。
今日も無表情の裡に幸福を秘めて、レモンは浮かれた調子で街を歩く。今日はどこで何を食べるべきか。気に入った店は師が戻って来たときに共に行くためにもメモに印をつけておかなくてはなるまい。小柄な身を人ごみに紛れさせる彼の袖口が僅かな風に揺れる。
何を食しても埋まらぬ心の飢えを、|生存者の罪悪感《サバイバーズ・ギルト》を、間近に迫る死を、両腕を斬り落とされる刹那の苦痛を――。
――見ぬように入念に隠した義肢だけが、まざまざと覚えている。
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