うつくしき黒
一目見た時、それが僕のよく知る人だって直ぐには気付けなかったよ。
僕の知るヴォルン・フェアウェルはいつも柔らかく微笑んで居て、怒った顔は勿論のこと、強い感情を見せたことがない。例えば卸したての白いカシミヤの柔らかさ、石鹸の香りのトップノート、そう言う万人受けする心地よい如才のなさを彼は纏っていて、その基礎を成しているのはあの穏やかさだと思う。
ただ、この点に関してあまり手放しに称賛をしても良いのかは解らない。僕はあの穏やかさを他で知っている。遠からぬ己の死を理解し受け入れている人たちの諦念ありきの感情の波のなさ。即ち世界への執着を手放し、何かを期待することを辞めた人たちの至る境地に、彼のあの感じは、少し似ている。もしもそうだとした場合、彼らは心に漣を立てることなく居る方が精神的にも負担が少ないし、人の世で生きるに於いては好意的に迎えられることを知っている。ヴォルンは聡い人だから、後者の利点を思えば益々感情を剥き出しにすることはしないとも、思う。
それだけに、僕には目の前の肖像がその彼と同一人物だと言うことを今もまだ咀嚼出来ない。骨格から美しいものを神に与えられた体躯と顔の造形、刃を入れたばかりの林檎の果肉の様に白い肌。確かに僕のよく知るヴォルンの造形をしているのに、彼とはまるでかけ離れた印象を受けるのは、色と表情のせいなのかな。ヴォルンと言えば白絹の様な髪にカジュアルな白い服だと思うのに、この絵の彼は黒髪でブラックフォーマルだ。√能力者の姿形が変わると言うインビジブル形態と呼ばれるものだと解るのだけれど、ここまで真逆になるんだね。
さて、礼服はシックなダブルボタンのジャケットに、パンツは細身のテーパード。上から眺めて、外羽根のプレーントゥの足元に、おや、と思う。日頃からクワイエットラグジュアリーな装いで、必然、靴にも拘るイメージのある彼だ。心から悼んで愛惜を示す場でならば内羽根を履く様な気がした。だから、これはただの勘だけれども、この喪服はもしかして愛する誰かの為のものではないのかも。そう考えると一見折り目正しく身に着けている白手袋も、敬意を表する為のものではないんだろうね。
上質な喪服よりも尚昏く、光を吸い込む様な黒髪が軽やかに靡くのが、風が吹いている為なのか、溢れ出る魔力によるものなのかは解らない。ただ、兎に角美しい黒だ。軽やかに流れる一筋の先までも誇る漆黒、波打つ癖の加減すら測った様に端正だ。でもこの感想はあくまでも、絵で見るからこそ言えるのも解る。長い前髪の間から睨めつける鬱金色の瞳は、吽形像もかくやの憤怒の表情は、もし本当に目の前にしたなら絶対に身が竦む。よく、怯える様を示すのに蛇に睨まれた蛙だなんて言葉を使うよね? まるで足りない。だって蛇はただの捕食者で、獲物に対して何も感慨はないだろう。それに引き換え、この黒いヴォルンの瞳は、表情は、あまりにも雄弁に敵意や憎悪を物語る。
嗚呼、でも、だからこそ、この憎悪を燃やした瞳が睨み据えるのは、僕ではないかもしれないとも思う。或いは特定の誰かでもない。そうして、全てであるのかも。この憎しみは、特定の誰か、或いは集団を斃せば晴れる程度のものではないんじゃないかな。だって、それを為すことで何かの解決や仇討ちを成せるなら、ヴォルンはそれをしてると思う。そうすれば彼は日頃をあんなに穏やかに過ごしていない様な気がした。
そこまで考えてふと、息を詰めて居た自分に気付く。絵の中の瞳に結局身を竦めていたみたい。
無責任だよね。深呼吸をして再度眺めた黒を——彼の憎悪の訳をよそにして、僕は、美しいと感じた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功