脳圧
退屈。無聊。彼に逢うまでの時間は何処までもありきたりだった。無機質。滂沱。彼女に逢うまでの時間は何処までもつまらなかった。彼に逢ってからは退屈しない。面白い沙汰ばかりだ。彼女に逢ってからは滂沱もしない。楽しい事ばかりだ。似たような思いでも、似たような想いでも、そう、行き着く先だけは違っていた。これは契約である。これは約束である。風に晒されているのか、風に乗っているのか、そのような『差』だけが、爛々と丸っこさを保とうとしていく。
言葉を交わす事こそがはじまりで在れ。
月の裏側、隠れるようにして、潜むようにして、皺くちゃな蟾蜍がゲロリと跳ねた。跳ねるようにして、弄ぶかのようにして、右往左往としているのは災厄の指先か。何かを絡め執るかの如くに、何かへと積極性を魅せつけるかの如くに。まさか、そんなにも『これ』が欲しかったのか。まさか、こんなにも『それ』を悦んでいるのか。歓喜するのは仕方のない事であり、この沙汰はあらゆる地獄を天国へと引きずり込む、正気へのサヨウナラに違いない。玉蓮! ねえ、玉蓮! みてみて! ぼく、こんなにも玉蓮に近づけた! 近づいてきたのは其方ではないか、と、いつかの『すき』を思い出す。玉蓮に髪の毛弄ってもらったの、久々だったなぁ。髪の毛を弄ってから、その続きを『してもらえる』なんて夢にも思っていなかったよ! そのおかげで、ほら――! こんなにも指の動きがなめらか! 滑らかなだけだ。滑らかなだけで、まだ、マトモな『おと』を孕みそうにない。CC、次は『ミ』を鳴らすの。本当に、見事に、外さなかったなら……アタシが、容赦なくお前のことを褒めてあげる。美しい花が啜っている養分、其処にスポットライトを当てない演奏こそが唯一求められている努力であった。任せて! そうだ。玉蓮はどんな曲が好き? ぼくは、そういうのに触れてこなかったから、あんまりわからないんだ。フルートなら、ちょっとは齧ってるけど。フルート……お前、数日前はヴィオラと謂ってなかったかしら。え、そうだったっけ。ぼくの頭の中は玉蓮でいっぱいだからなぁ。いっぱい、いっぱい、気持ちを込めて遊びを試みる。まるで追いかけるように、チェイスを仕掛けたかのように、ケチャップの跳ねにやられたシャツみたいに……。CC、なんだかこそばゆいの。もしかして、何かを試しているのかしら。玉蓮の脳みそを優しく包みたいんだ。ぼくとは違って、玉蓮のは貴重だからね。わかっているではないか聖なる光、濯ぐかのような仕草については無邪気の証としておく。
CCの――ケオ・キャンベルの――人間災厄「聖なる光」のヴェールを剥ぐ行為は本来自殺を意味していた。だが、それでも『手術』に成功したのはオマエの巧妙さによるものだ。人間災厄に脳髄を移植する事には成功した。光を漏らす事もなく、何もかもはお上手に出来た。されど、此処からが真の実験である。知的生命体の、知的存在の『それ』を人間災厄自身が『うまく』扱えるのか、否か。現状、急にピアノに興味を持ったこと以外は影響なし。いや、もしかしたらこの先、新たな√能力として芽生える可能性も考えられよう。経過観察を止めてはいけない。違う。たとえ、中止と謂われようとも止めるつもりはない。何故ならば連中は……機関の人間は……これを押し付けてきたのだ。だったら『アタシ』の自由に、アタシの『もの』として、如何様に扱ったって文句など言わせない。それに連中も理解しているだろう。そう、|死体《おまえ》を糧にして咲いてるの、アタシ……。覗き込んだ際の伽藍洞と謂ったら、もう、たまらなく、深い、深い……複雑なカタチ。
音っていいな。言葉と似ているのに、もっとあやふやで、もっとシンプル。俺もけっこうシンプルな|光《もの》かもしれないけれど、音ほどわかりやすいものはない。だって、盲目だろうと白痴だろうと、泡立っていたなら聞くことはできる。思いを直接、想いを直接、脳に伝えるこのカタチこそが――子守唄を上等なものとする。閃いたのだ。閃いたからこそ、閉じ込めたのだ。雁字搦めに、厳重に、人間の心のように、強く強く縫い留めたのだ。渾身の勇気を以て――身近な無謀を以て――瞳の輝きだけを意識しながら。そうだ。俺はこの為にしまい込んだんだ。俺はこの為に自我を得たんだ。聖なる光でありながらケオ・キャンベルとして――静謐さを演ずる。
玉蓮、ねえ、玉蓮。
もうピアノは良いの? お前。
あのさ、ぼく、もっと上手に弾けるようになる。
そうしたらさ、玉蓮と結婚するとき、もっと良いものになる筈だよね。
面白いことを謂うわね、CC……。
すれ違うかの如くに――重なるかの如くに――ふたりの世界に――新たな『音』が生じた。静かに、厳かに、されど柔軟に――光が別の光を吸い寄せる。まん丸だったものが十字に裂け、最奥からゆっくりと鍵盤がこぼれ落ちた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功