櫻舞ウ、硝子ノ一筆
それは明治時代後期のこと。うつくしいガラスペンが、最初の主と邂逅を果たした時のお話。
まだ、玉梓・言葉という名前を持たぬ彼が、真面目で実直な主に愛されていくまでのみじかい物語。
文具店を営む家に生まれた口数の少ない青年は、十代も半ばを過ぎた年映え。ある日、満開の桜の下で彼に声をかけたのは、彼の落とし物を拾ってくれた同じ年頃の少女だった。
「これ、落とされましたよ」
やわらかく微笑む彼女の笑顔に、ひとめぼれしたのかもしれない。それ以来、時折顔を合わせる度。少女のこんにちは、というごく当たり前の挨拶に、帽子を目深にかぶって頭を下げてかえすことしかできなかった。
桜の花がわずかに散り始めて数日。相変わらずうまく話すことができない彼は、彼女との交流に|手紙《恋文》を書くことを選ぶ。
――それは彼の祖父から勧められた一言が、ことの発端。
「大切な手紙を書くなら、まずは筆からじゃ」
孫の想いをそれとなく感じ取った祖父は、文具店の主人としてひとつも妥協を許さない。店内に並べられたありとあらゆる筆記用具は、改めて見ると膨大な数に思えた。
「いいか、自分の手に馴染むものは自分で選ぶんじゃ」
ひとつひとつ書くための道具を見てまわれば、それぞれに長所と短所がある。人間のようだ、と思った青年の目に留まったのは、入荷したての真新しいガラスペン。
「……これにする」
そうして青年が書いた初めての手紙は、落とし物を拾ってくれたことへのお礼だった。
すこしペンを強く握りすぎたせいか、文字が太くなってしまったように思う。それでも重い口よりは、容易に言葉を綴ることができていた。
彼女を想って書く言の葉は、無口な彼なりの気持ちがつよくこもったものだった。きっとこれなら、と頷いて、便箋を封筒へと仕舞っていく。
さてしかし、いざ書いてみたものの、彼女が必ず受け取ってくれるとは限らない。あれほど達成感を覚えていた心も、結局じんわり鈍っていく。
「……いや、」
青年は首を横にふる。はじめから諦めているようでは、彼女のやさしさへ感謝すら告げられない。己を奮い立たせ、彼は手紙を握りしめる。お守り代わりに胸に潜ませたのは、やはり相棒のようにきらめくガラスペンだった。
桜の下、薄紅の花弁が舞い散る。ふたりの男女の髪に降るそれらも、ことの行く末を見守っているようだった。
「これ、を」
青年によってぐっと手渡される手紙を前に、少女は驚いた様子で目を瞠る。それから、はにかむ彼女は唇をひらく。
「お友達からなら……」
「……!」
先ほどの自分よりも驚く表情を見せた彼に、少女はふにゃりと笑みをこぼす。相変わらず言葉少なな青年に、なんとまぁ、と誰かが目を細める。
手紙はあんなに雄弁であったのに――くふり。そんな笑いがもれて。
『よかったのう主、一歩前進じゃ』
その音を、青年が聞いたことはない。まだ姿はなく、言葉も伝えられないまま。
けれど青年の胸元に仕舞われたガラスペンには、その時、確かな自我が生まれていた。
くふり、くふふ。それから主の傍でいつも二人を見守っていたガラスペンは、うれしそうに彼へと呼びかけた。
『あれはなんじゃ、主』
『今日は風が気持ちいいのう』
『主の書く文字は武骨だが、溢れだしてくる気持ちが美しいな』
たとえ主の目にも耳にも届かなくとも、彼の言葉を綴ることが心の底からうれしく思えて、純真無垢ないのちが宿っていった。
まだまだおさないいのちは長い時間をかけ、修繕を施されながら大切に使われていく。今日も桜の風と共に、ガラスペンはふたりの行く末を見守っている。
幾度となく手紙を交わしたふたりが、薄紅の下で結ばれるのは、また別のお話。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功