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白紙と加筆

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 チャイムが鳴っている。
 グラウンドから聞こえる運動部の声を尻目に、教室棟の窓から暮れる夕陽を見詰めて、少女は頬を膨らませていた。
 彼女の背後に広がる廊下は勿論のことながら教室にも誰も残ってはいない。忙しそうな教師はホームルームが終わるや職員室に取って返したし、部活のある生徒たちは早々に部室へ向かった。この頃は少し日が伸びたといえど未だ日が暮れるのは早い。帰宅部とてそう長く残っていたくはないだろう。
「だって、阿迦奢。あんなに小さいことで困ってしまうんですよ。可愛い|生き物《にんげん》のことは守ってあげたいと思いませんか?」
 ――そういう状況であるから、皙楮・戻(曖昧メモリア・h05187)が頬杖をついて膨れながら、常人には見えぬ者に声を掛けている姿を不審がる者もない。
 人と価値観が異なりすぎるが故に纏う、日頃の淑やかで儚い少女の仮面は必要ない。兄の如く気の置けぬ見えない保護者――護霊である阿迦奢の𠮟責は、殊に彼女が|人間らしく《・・・・・》暮らすことを始めてからは増えているといえよう。
 人間災厄『白紙』の持つ世界を滅ぼしうる力は、その名の示す通り全てを|白紙《・・》に返すことである。
 記憶の改竄に留まらず、現実にまで及ぶ改変能力だ。彼女がひとたび力を振るえばありとあらゆる物事は|なかったこと《・・・・・・》になる。人類史さえも消し得る少女が人間の中で安穏と暮らしているように見えるのは、ひとえに戻の人に対する感情ゆえといえよう。
 戻は人間が好きだ。
 関心であり愛玩である。彼女が指先一つで消去しうるほんの些細な現実に傷付き、まるで世界の終わりかの如く項垂れるか弱き生命体に、少女はこのうえなく惹かれていた。元より人間の存在や情緒を改竄しようとは思っていなかったし、政府の管理下に置かれることにも何らの否やもない。こうして人間の一部のような生活を送れる望外の収穫に喜びこそすれ、現状に不満を抱く理由は一つもなかった。
 政府の要人に曰く、学生生活は戻と人間の共生の練習であるそうだ。その意義にも反対する道理はない。練習の甲斐あって友人も幾らか出来たところだ。
 だが、どうしても可愛らしい細やかな悩みに躓いている人間に手を差し伸べたくなってしまう。何しろ戻は、彼女たちを簡単に助けてやれる。
 今日の友人は随分と落ち込んでいた。思いの丈を今年で卒業の先輩に打ち明けたところ、真っ向から断られてしまったらしい。身も世もないとばかりに嘆く彼女の涙を|なかったこと《・・・・・・》にしてやろうとして、案の定ながら阿迦奢に止められた。
「戻なら泣かなくてすむようにしてあげられたんですよ」
 ――人と異なるが故に起きる問題は多岐にわたるが、そのうちの一つが|消し癖《・・・》とでもいうべき悪癖だ。
 彼女は権能と不可分にあるゆえか、軽々に全てを白紙に戻しすぎる。この世に起きた全ての事象を、規模の大小を問わず全て記憶している阿迦奢がいなければ、彼女の周囲では記憶の齟齬が無数に発生していたことだろう。
 転んで泣いている子供が転んだ事実に始まり、友人が教師に叱責されたことも、クラスメイトが嘆く点数の悪かったテストがあったという過去さえも、まずは消すことで解決しようとする。一つ一つの事象は小さくとも積み重なれば異常を引き起こすのは自明だ。その規模が拡大していくのではないかと懸念する機関の思慮も、護霊からしてみれば尤もである。
 戻に悪意はない。些細なことに苦しみ悩む人間の繊細さを静かな微笑で聞き遂げ、愛らしさを堪能させてくれた礼とばかりに権能の一部を振るう。しかし未だ人間社会の倫理と善悪に疎い彼女は、良かれと思って振るった力が不幸を呼ぶことを本質的に理解しているとは言い難い。
 先輩という青年には恋人がいたのである。
 何度|なかったこと《・・・・・・》にしたところで変わらぬのだ。叶わぬ恋路に淡い期待を残す残酷さに比べれば、真っ向から拒絶されて涙してでも諦めの付く方が良い――白紙に戻されかけた記憶を自らの裡から復元したのは、間違いなく阿迦奢の手心である。
 しかし戻にしてみれば、可愛い人間に触れるのを防がれたようなものである。中々戻らぬ機嫌のままに目を伏せて、歳より幼く見える仕草で、彼女は納得のいかぬ叱責に終止符を打った。
「分かりました。阿迦奢の言う通り、あまり消しすぎないようにします」
 後方の護霊の溜息じみた揺らぎも知らぬふりだ。
 暮れ行く陽に背を向けて、人間災厄は帰途を辿ることにした。
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​ 成功

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