不安定な奇跡
他人とは思えなかった。
地獄の門を叩く者は――地獄の門を潜る者は――希望を、欠片として抱いてはいけない。地獄の門を容易に、説明も受けずに潜る者とは、つまり、希望を欠片として有していなかったと、そう、証明出来るのではないだろうか。迷える仔羊の群れに一滴の歓喜を、喜悦を落としてやったなら如何なるのか。絡みつくように、蠢動するように、羊毛とやらが混沌として騒々しくなるに違いない。チクタク、チクタク、ハラハラとさせてくれる腹腹時計の怪異性については、最早、説明する必要などないだろう。今にも産声を上げそうな、悲鳴を上げそうな、面構え――ラインナップ――あらゆるものが理性を、ヴェールを、纏う事に必死なのであれば、必至に、解けてしまうのは仕方のない沙汰とも謂えよう。要するには、人間様の世界などと謂う代物は|偽りの神《デミウルゴス》にとっての食餌でしかない。これは蜘蛛の糸だ。何もかもを、悉くを、冒涜するが為の蜘蛛の糸だ。たとえ、如何様な意図を孕んでいようとも――破裂しそうな心臓を、膨張していく脳味噌を、糺す事など出来る筈がない。誰かの祈りが届かない、なんてのは、それこそ日常の一幕なのだ。追われている。追われている。追われている。ザクロ・ソースとケチャップでオーロラなど作れないと知っての悪戯。はじめましての挨拶からしてダメだったのだ。這入り混んでしまった時点で気付くべきだったのだ。ああ、目を回している。己自身もそうだが、それよりも、目を回している誰かさん。揺れている、揺れている、揺れている。水面、今にもこぼれそうな|理性《ジュース》が謝罪の言の葉を描いてみせた。ごめんなさい、ああ、ごめんなさい。如何やら、僕は、僕の事を、如何しても認める事が出来そうにないのです。切羽詰まった血の瘤がサラサラと、ザラザラと、|……《空白》を埋め尽くさんと――|正直病《やまい》を運ぶか。
ご指名だ。誰からのご指名かは不明だが、兎にも角にもご指名だ。名を指されたのだから、名で刺されたのだから、応えなければ勿体ない。されど、このご指名とやらは『おのれ』がやった『こと』である。観察しなければならない。観察をして、何が欲しいのかを、何を求めているのかを、手繰り寄せなければならない。これは人間災厄「黙示録」の意識か、無意識かが残している『軌跡』とも考えられた。呵々大笑だ。いつもの通りの「アッハッハ」だ。|魔導書《あたま》から放たれているのか、|掌《くち》から放たれているのか、何方にしても――人を造るのに最も適している、この堕落の受け入れは如何にも甘ったるい。琥珀色だ。琥珀色なのだ。琥珀色の香りこそふたつに決まっている。アルコールが齎す酩酊か、或いは……べっこうが齎す焦がれか。そうかい! そういうものを望むと謂うのかい! 我輩に縋ると謂う事は――我が身に縋ると謂う事は――堕落したいと、盲目にされたいと、そう、願うに等しいのだが。宜しい。我輩が蒔いた種なのだ。相応の『もの』を用意しておくとも。ああ、お客さんは不要だ。お客さんは不要で、この果肉は、果汁は、|我輩《これ》がちょうだいするのだ。榴くん。此処にはあらゆる『背徳』が溜まっている。此処にはあらゆる『情念』が蔓延っている。好きに使うと良い。好きに貪ると良い。玩具も薬も狂気も冒涜も、何もかも、君のものだ。重要なのは――「自分から動くこと」――だぜ? アッハッハッハッ! 眼球だ。眼球に光など要らない。眼球とは光を失くして、虚ろに、莫迦みたいに振盪する事で、その可愛らしさを全面に発揮出来るのだと……邪は宣って魅せたのだ。
酒気を取り扱う事は出来ない。それを赦してはならない。それを禁忌とされたならば、嗚呼、別の禁忌に触れる以外に道はない。脳内にこびりついた嗤い声、偽物に粘りついた偽物の讃美。双眸をゆっくりと、ゆっくりと、閉ざしていくサマは……無様さは、盲目の二文字を比喩していた。……はい、っ……。救いがある。救いがあった。たとえ『それ』が自称|旧支配者《デミウルゴス》だとしても、まったく、問題のない話だ。ぱちりと、地獄の門を――説明書きを――見ないふりして手を伸ばす。握り締めた。掻っ攫った。|夜鷹《ウィップアーウィル》の警告を、警鐘を無視してオマエは|情人《いろ》のように夢を選んだ。アッハッハ! アッハッハッハッハッ! アッハッハッハッハッ!!! 宜しい! 榴くん、君の望むが儘に、君は君を駒としたのだ。榴くん、君は君を擁する事に成功したのだ。君には名乗っておくとしよう。我輩こそが――! モノクロだった世界が七色に輝きだす。その所以はきっと首筋への針だ。首筋から這入りこんだ、滑り込んだ、お薬の所為だ。ビクビクと、ヒクヒクと、小さく小さく、痙攣する。喘ぐような声が、闇へと囁くような音が、泡か涎かと共に、漏れてこぼれる……。……僕に、生きてる価値が、あるの、かな……? 生きている価値が『ない』事だって価値なのだと、希少な思いなのだと、肯定感が染み渡った。
素晴らしい! 素晴らしいではないか、榴くん! 君はようやく、自分の価値と謂うものにありつけたのではないのかね? たとえ、君が君自身を嫌っていたとしても、其処に、底に救いはある筈なのだよ。重要なのは己の事を赦してやる勇気だ。いいや、勇気ではないねぇ。それこそ、投身するかの如くに――ひとつだけ謂っておこう。
我慢は身体に毒だぜ? アッハッハ!
めまいがする。でも、このめまいは嫌いではない。脳裡に焼き付いて離れない言の葉の数々。僕を……四之宮・榴を|奈落《天獄》へと誘う|使者《デミウルゴス》は、嗤いながら表に消えて行った。これで、何拾本目だろうか。試して、試して、試して試して試して……思考する事すらも、ままならない。ままならない、そう、整理したくない。……赦されたい。赦されたくない。この底に――救いは……ある、の? わからない。理解できない。理解したくもない。薬の色なんて、いちいち、気にしていられない。毒を反芻した。食い物にされても良い。だから、せめて、食い物にだけは……。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴 成功