鳥は死を告げ、男は闇へと踏み出した
「っ……!」
重々しい音とともに、網膜が白く灼ける。目を閉じていてなお耐え難い閃光に、風見・正人の意識は強制的に覚醒させられた。
「……どこだ、ここは」
周りを見渡す。だが、スポットライトのように己を照らす灯り以外、周囲は完全な闇だ。まるで正人が座らされた場所を円く切り取り、それ以外の全てを黒で塗り潰したかのように、目を凝らすことが出来ない。
遅れて正人は、自分が拘束されていることに気付いた。椅子に座らされた状態で両手の親指をケーブルタイで固定され、さらに鎖で雁字搦めにされているのだ。椅子は床にボルトで深く打ち込まれていて、立ち上がることは出来なかった。
「クソッ、どうなってやがる……! 解放しろ!」
暗闇に投げかけた叫びは、奇妙にも反響することなく消え去る。どうやらただの廃墟とは違う建物の中にいるらしい。
「これはこれは、風見刑事。もうお目覚めだったとは」
女の声。そしてヒールの音。それらも同様に、闇に消えていく。
だが女の姿は、闇から滲み出るように現れ、消えることはない。正人を驚かせたのは出現したことよりも、女の外見年齢だ。
「驚いたかい? しかし生憎、私は君より年上なんだ」
黒いパンツスーツの上から白衣を羽織った女――という少女――の目元は、ゴシックなアイシャドウのように黒く縁取られている。皮肉にもそれは、憔悴した正人と同じ深い隈だった。
「自己紹介しておこう。私の名前は釘・葵。君のことはどう呼べばいいかな? 親しみを籠めて"正人くん"とでも――」
「ふざけるな!」
叫びが言葉を遮り、鎖がジャラジャラと音を立てた。
「てめぇ、さては例の研究機関のエージェントだな……日本政府の裏で暗躍する謎めいた組織があるって噂は、マジだったのか」
「ほう。そこまで辿り着いていたとは、大したものだね。普通なら陰謀論と一蹴してしまうだろうに」
「何を面白がってやがる。|拘束《これ》をさっさと解け!」
外見年齢と大人びた振る舞いのチグハグさへの違和感は、怒りと焦燥に塗り潰されていた。
「そう慌てなくていいよ。正人くん」
女はどこ吹く風で言った。
「君のことは、"我々"が認知してからずっと調べてきたからなんでも知ってるんだ」
「……」
「風見・正人、26歳。数ヶ月前、██県警刑事部捜査一課に配属。その直後、██市に住んでいた両親および、当時14歳だった妹を――」
「やめろ」
葵は不健康な笑みめいた表情を崩さず、しかし黙る。俯いたまま睨みつける正人の表情は、鬼気迫るものだった。
「……君自らもも加わった捜査は、しかしすぐに打ち切られた」
やや間を置いて、葵は再び口を開いた。
「凶暴化した野犬の群れがベランダから侵入、パニックに陥った君のご両親と妹さんの行動は逆に群れを興奮させ、不幸な事故が起きた」
「"ということにされた"、だ」
正人は睨みつけたまま付け加える。葵は隈の酷い目を細めた。
「親父もお袋も、そんな間抜けじゃねぇ。それにあの|瑞季《みずき》が、野良犬を煽るみたいな真似をするわけがないだろうが」
「君の主張は不自然なほどに相手にされなかった。そして君は独自の捜査を開始した」
正人は沈黙した。それは肯定を意味する。
「真実を見せてあげよう」
パチン。葵が指を鳴らすと、先程と同じ照明の点灯音が段階的に響く。俯いていた正人は顔を上げ、暗闇が晴れゆくにつれ表情を驚愕に歪めた。
「……なん、だ――こりゃ」
そこは研究所だった。病院のような潔癖じみた白い部屋の中、得体の知れない機械が所狭しと並んでいる。
それらと巨大なパイプ、あるいはケーブルで接続されているのは、大の大人が入っても余裕がありそうな、巨大な円柱のカプセルだった。
問題は、その中で碧色の液体に漬けられた|もの《・・》である。
「告死鳥。我々はそう呼んでいるんだ」
葵はガラスに指を触れた。胎児めいて翼腕を丸め浮かぶ怪物を見る眼差しは、不気味なほど穏やか。
「まさか、こいつが……」
「そう。君のご両親と妹さんを殺した仇、ということになるね」
鎖が激しく鳴り、床に打ち込まれたボルトがミシミシと軋む。葵は興味深げに、暴れようとする正人を一瞥した。
「ふざ……けるな!! こんな、安っぽいSF映画みたいな化け物が……!!」
「君もこれまでの調査で薄々気付いていたはずだろう? この世界の正体に」
正人の常識が、今日まで築き上げてきた世界が、音を立てて崩れていく。正視せざる怪異の死骸を前に、彼の正気は容易く砕け散る――はず、だった。
正人は、耐えた。義憤。それだけとは言い難い、世界そのものへの苛立ちを奥歯に籠め、目を見開いて正気を保つ。
「やはり期待通りだね。そんな君に朗報だ」
葵は初めて笑った。正人は戦慄を覚えた。
「|告死鳥《これ》を君の肉体に移植する。そうすれば、今君が抱いている願いは達成出来るようになるはずだ」
「――は?」
「殺したいんだろう? |怪異《かれら》を」
呆然とする正人に、葵はなおも語りかける。
「その力が欲しいなら、移植手術が最適だ。さもなければ君は怪異を倒すどころか、目視することも難しいのだからね」
「……じょ」
「"冗談じゃない。人間をやめろと言ってるようなもんだ"かな?」
吐こうとした台詞を先んじられ、正人は鼻白んだ。
「勿論、選択権はあるとも。君は全てを忘れて元の日常へ戻ることも出来る」
「……こいつは、俺の家族を喰ったんだぞ」
「だからこそ、だよ」
葵は目を細めた。
「完全な√能力者でもないのに関わらず、クヴァリフ器官の忘却作用を半ば克服したその執念と憎悪。それが私の考案した、怪異移植術式の成功率を飛躍的に高めるんだ」
「何を言ってやがる――」
葵はおもむろにブラウスのボタンに手をかけた。
正人はまず突然の行動に驚愕した。そこに"ある"ものを見た瞬間、彼の表情は恐怖に歪んだ。
「私は私自身を被験体にしたが、失敗した。献体との適合率を左右する因子が足りなかったんだ」
葵はボタンを閉じた。
「他に埋め込める怪異はない。告死鳥以外では君は犬死にするだけだろうね」
顔面蒼白でうなだれる正人を残し、葵は扉へ向かう。
「こういうのは自分で決めるのが重要だ。無断で改造なんかしたら、上に怒られてしまうしね」
「おい、待て……!」
扉が開く。葵は肩越しに振り返り、へらりと笑った。
「我々、汎神解剖機関はどちらの選択も尊重するよ。では、ごゆっくり――」
入れ替わりに入った黒服たちが拘束を解く。長い時間が始まった。
●
「彼の様子はどうかな?」
葵は監視カメラ映像を覗き込む。正人は彼女が部屋を去る前と同じように椅子に座ったまま、微動だにしない。足元には冷めた食事が乗ったままのトレー。
「ご覧の通りです。このままだと脱水症状で死にますよ」
「それはないよ」
葵は確信を込めて言った。
「彼は優秀な刑事だ。何もかもを忘れて仮初の平和へ、なんて出来るはずがない。
むしろ嬉しいじゃないか。こんなに術式に協力的なんてねぇ――うふふ」
カメラの角度から、正人の表情は見えない。だが葵には、告死鳥の死骸を睨む憎悪に染まった表情がありありと想像できた。
「――本当に、|怪異《こいつら》をぶちのめすことが出来るんだな」
再び姿を現した時、そこには思った通りの眼差し。葵は計算が正しかったことに、満足げに微笑む。
それから10年。彼の踏み入れた地獄は、まだ終わる気配がない。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功