すべて、正しくめぐっている
階段に座り、脂汗の浮かぶ額へ手を当て。すべてが終わった|演奏会《コンサート》、その会場から少し離れ。静かに思考を巡らせる。
もはや見知った姿、覚えた曲、囁く言葉。破滅への道を丁寧に舗装する女の事。否。『それ』が思い出させるあれこれ。
辛くはない悲しくもない。ただ思い出せば息が詰まる。それだけだというのに、身動きが取れなくなる。
こんな所で留まっている場合ではないのに。休息を取って、次の戦場へと向かわなければならないのに。
巡る思考に抵抗する体。立ち上がれない自分がもどかしい。床を見つめたままで何分、何時間経った? ただ瞬きを繰り返していた。
「――おしごと、おつかれさま」
そこにふ、と声が降りてきた。ようやく上げることができた頭と首。視線の先にうつるは、星詠み。イリス・フラックス(ペルセポネのくちづけ・h01095)の姿だ。
「中々戻らないから。死んじゃって迷子なのかなって、見にきたんだけど。ちがったのね?」
ああ、そうだ。既に空は暗く、星々がきらめいている。無邪気な瞳が物騒な語りと共に瞬きをしている。
「せんちめんたるとみました。おとなり失礼します」
許可を待たずに隣へ座り。彼女は無遠慮に、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)の顔を覗き込んでくる。
「何をみたの? きいたの?」
……星詠みはゾディアック・サインを詠み、未来に起こりうる悲劇を知るだけだ。彼女も、ここで何が起きたかを知らない。今現在は、対処した自分たちだけが知っている。
クラウスはただ頭を振る。後に何があったか報告書が上がるのだ、今ここで教えてやる必要はない。だが星詠みは興味津々な様子で、諦めるつもりはないようだった。
「ねえわたし、早く見たいし、聞きたいな」
嫌な予感がする。耳を塞げ。本能が告げた。だがそれは、耳を塞ごうとも聞こえるもの。
「『聞かせて』。あなたのお話」
――広義。あまりに、広義だ。定義を狭めれば、正しく機能したであろう『|定義付け《レッテル》』が暴走する。
あなたの。自分の話。そう、自分の――。
――故郷は『まとも』に人が生きていけるような√ではない。
まともなふりをした人々がまともなつもりでまともな生活を送ろうとして、ようやく成り立つ世界。
きっと自分もまともに笑えていた。笑えていたとも。彼もそうだったのだから。
明るく誰にでも好かれるような屈託のない笑顔を見せる前向きな男、誰かに疎まれるようなこともなく。彼が自分に笑いかけてくる、肩に手を置いて。
「なあ、食堂の新メニュー見た? 皿うどん!」
他愛もない話。出撃前だというのにその赤い瞳を輝かせて、未来の話をするのだ。
「カマボコの培養魚肉、美味いか不味いか今のうちに賭けとこーぜ!」
本当に、ただの雑談で。ただ先のことばかりを、希望に満ちた「この先」の話をしていて。後でと、笑って返した。笑えた。
彼はいつだって前を向き自分の一歩、二歩先を歩いているのに。自分に寄り添うために立ち止まり振り返る。
そう、立ち止まる。一歩前で。自分に手を伸ばして。
自分を、突き飛ばした。
――瞳の赤色、血肉の赤色。ぐしゃり潰れて拉げたそれが、何だったのか。
這い蹲り顔を上げた先に見えたもの。視界と脳にこびりつく赤。
太陽の赤だった。
ああそうだ、赤かった。自分の視界はいつでもそうだ。覚えている。太陽、夕暮れ、紅葉、瞳、血、肉、焔。それ以外となれば焼け焦げ汚れた布切れ、破片。手のひらの中におさまってしまう僅かな色、それが、それらが、『彼ら』は、自分の視界を正しく彩ってくれる。自分というかたちがこの手の中におさまっているのだと思えば、自分の足はきちんと動く。
はじまりは誰だったか。
おわりは見えない。
繰り返される音のように、波のように。寄せては引いて、血潮の波打ち際、波が引く瞬間を駆け、寄せる赤に立ち止まり、また波が引けば走り出す。
波が止まることはない。太陽が沈まぬことはない。月が昇らぬこともない。
すべてが正しくて。変わらず。めぐっている。
己の中にも巡っている。赤色が、血液が、陽の赤が、だというのに。
――この波に、のまれて、しずんでしまいたくなるのは、どうして?
水底で手を引いているものは、何だ。
……呼吸が乱れる。自分は今、何をみている? 何を、話している。
「大切だったのね」
声が聞こえ、顔を上げる。込み上げてきた吐き気を抑えるために手で口を塞ぎ、また俯いた。
……星詠みの少女が立ち上がり、数歩先で『立ち止まる』。
「あなたは愛されてきたのね。わかるわ、わたしもそう」
その場でくるり、両腕を広げて、踊るように。愛され生まれ生きて、「与えられてきた愛が途絶えること」を知っていながら、「そう」と流すような、偽物の『少女』。
よく知りはしない、それでも少しは知っている。星読みたる彼女、ゾディアック・サインが示した予知を語る場はさながら『牢獄』のような場所。収容所の、屋敷を模した一角にある。
ゆえに危険なのだ、収容対象だ、ああそうだ、なのに彼女は何故ここにいる?
先に深入りするなと忠告された理由を確と理解した。『これ』もあの音楽の災厄と同じように、ひとを狂わせる。
狂わせてくれる。
――『くれる』?
自分の思考に首を傾げたが思考を切り替える。きっとまだあの音楽が脳を揺らしているから。この災厄が自分に妙な『|定義付け《レッテル》』をぺたりと貼ったから。
「……帰るよ」
「そう。ついていこっか?」
「いや。一人で大丈夫」
ようやく、立ち上がれた。長く座っていたからか固まった足腰を軽く手で叩いてから、歩き出す。
目の前をゆくものは、もうどこにもいないけれど。
明日というものがどこにあるのか知らないけれど。
ひとはどうして過去には向かえないのだろう。未来にしか進めないのだろう。
ああでも明日も普通に太陽は昇って沈んで夜が来る。明後日も。昨日だって、そうだったから。
覚えたメロディーを口遊む。
頭を開く必要はまだない。
ひとつの賭け事を思い出した。
不味いに賭けていれば、自分の勝ちだった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴 成功