√嵐影湖光は月影の派を『梶の葉姫』
●√
それは何気ない一言だったのかもしれない。
少なくとも野分・時雨(初嵐・h00536)は、そう思ったかもしれない。忘れた。思ってなかったかもしんない。
いや、どちらでもいい。
これは恐らく縁というやつなのだろうと思う。
「欲しい」
「へえ。それまたどうして」
「だって時雨君は、先輩だからだ。地這い獣を飼う先輩」
時雨は、 ルイ・ミサ(天秤・h02050)の言葉に、よくわからんことをまた言い出したな、この娘は、と思った。
地這い獣。
それは怪異である。
√汎神解剖機関においては、制式装備の一つである。
使役者を乗せて無数の手足で這いずり回る怪異。そうライブラリには表記されている。
時雨が己の配下とした地這い獣『水姫』もライブラリに照らし合わせれば、そのように分類される怪異の一種である。
「だから、一緒に来て欲しい」
「そんなペットショップ感覚で――」
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「きちゃった」
時雨は己が実は押しに弱いのではないかと訝しむ。
今、彼はルイミサに連れられて某研究施設へとやってきていた。
此処は彼女が語るところによれば、彼女を監視している組織に通じる場所であるのだという。
彼女は禁忌の果てに生まれた半神半魔であるという。
人ではない。
美しい娘のように見えるが、真っ当に人ではないが、真っ当な存在でもない。
時雨をして、彼女の力のあり方というものは測れぬものである。
揺らめいている。
まるで天秤だと思えたかも知れない。しかし、今回のこともそうであったように、天秤は釣り合うように揺れても、その支柱は決して揺らぐことはない。
「本当にこんなに簡単にきちゃっていいんですかねぃ。ここ、一応、組織? とやらの施設なんでしょう? 部外者ですよ、ぼく」
時雨もなまじ、組織というものに属していた身である。
情報というものに対する重要性は理解している。
そんな懸念にルイミサは、ふ、と吐き出す。
笑ったのか?
「心配しすぎだ、時雨君」
どこか誂うような仕草が見え隠れしたように思えてならない。
してやったり、と思っているのかもしれないが、時雨からすれば、ところどころ彼女は抜けているように面ならなかった。
こういうのを後方先輩面とでも言うのだろうか。
通された施設というのは、どうにもきな臭い。
そういう雰囲気があるのは仕方ないのかも知れない。そもそも、怪異を人間が御して使おうというのだ。
加えて言うのならば、√汎神解剖機関は、斜陽を迎えている。
言いようのない薄暮のような空気感というものは人の感情に陰鬱なる影をまとわせてしまうものだ。
そんな空気の中であるというのにルイミサは、その髪を揺らして振り返った。
「職員が言うには、お試しでお触りOKらしいぞ」
「マジでペットショップじゃないですかい」
正直なところを言うと、全然そんな感じがしない。
どうにもこの√は己に馴染めないような気がしてならないのだ。
吸った息が肺の中で積もっていくようでもあり、水を飲みすぎた時のような臓腑が重たくなるような感覚があるように思えてならない。
「ぼく、この世界ジメジメしていて苦手なんですよね」
「そうなのか?『水姫』の方がジメジメしてるのに……何で?」
「ええ、『水姫』は濡れ女だから濡れてて当然です」
だから別に不快ではない。
「そういうものなのか?」
そういうもんです、と時雨は謎の理屈に頷いた。ルイミサは意外そうな顔をしていた。
もともと、彼女が『水姫』を連れている時雨を見て欲しいと願ったことが事の発端だ。けれど、自分が『水姫』を乗り回すようになったのは、この√ではない。
経緯もこんなよりどりみどりなペットショップを眺めて、『この子に決めた!』という穏やかなものではなかった。
こう、殴り合いと相互理解がセットになっている邂逅だったのだ。
まあ、穏やかではない。
「しかしですね。なんですか、これ」
時雨は透明なショーケースを思わせるような壁面に広がる飼育槽の列に目を覆う。
確かに地這い獣というのは、怪異の一例であり分類である。
彼の友人には犬型の地這い獣を連れている者だっている。個体ごとに種類が存在しているといっても過言ではないことも理解している。
「こんな種類いるんんだ。気持ち悪~!」
思わず時雨は汎神解剖機関という√の業の深さというか、底しれない闇めいたものを実感させられて呻いた。
が、ルイミサは平気へっちゃらというような顔をして飼育槽の中を見つめていた。
どう見ても犬猫ではない四足の獣めいたもの。
うねるような触手が合わさったようなもの。
明らかに異形の嬰児めいたもの。
多くが理解の外にあるものばかりであった。
「犬や猫も可愛いな。ちょっと欲しくなる」
「これ見て、犬猫って認識できます? あ、いや、それよかですよ。ホントにほしいの? お散歩とかできる? 最後まで面倒見れるの?」
もう先輩というよりは、父母のそれである。
「お散歩? 最後まで面倒は……見れ……ない……」
ルイミサは間髪入れずに答えたが、歯切れの悪い答えしか出せなかった。
それもそのはずである。組織から逃げる目論見を立てているわけであるから。
「全世界地這い獣愛護団体に怒られますよ」
「そんな団体が……」
あるのか?
時雨は暫くルイミサが飼育槽を覗き込んでいるのを後方から見ていた。
まあ、こういうのは本人の意志が大切なのだ。
うんうん、良い先輩である。
そうこうしているとルイミサが時雨に駆け寄ってきた。
「これならお世話要らないって。気に入った」
「いや、気に入る点そこなんですかい」
お世話フリー。ストレスフリー。そういう問題だろうか。問題なのかも。
ルイミサの手には黒い布に単眼が付いた不定形な陰獣が載せられていた。ただの布ではないことを示すようにのたうつようにわずかに動いている。
「なんです、これ」
「陰に落とすだけでいいらしい。簡単。お得。最高。そういう感じ」
「選ぶ理由、不純すぎ。なら、名前をつけないとですね」
「名前は――布みたいだし、『織姫』にしよう。『水姫』も姫がつくし」
なんの対抗心か。
「いや、『水姫』は」
自分が付けた名前ではない。
己が師が付けた名前だ。本当はもっとこうセンス爆発した名前をつけようとしていたのだが、『水姫』に落ち着いたという経緯がある。
でもまあ、そういうことならばルイミサのセンスは師に似ているのかもしれない。
「粋なお名前ですねぃ……機織り上手の名を冠する獣。その身に纏うように主人を守るんですよ」
そう言って、触れた瞬間、のたうつ『織姫』がルイミサの影に落ちる。
瞬間、『織姫』は足元から幾条にも影を伸ばしルイミサの体に巻き付き、それこそ緊縛という言葉に相応しく彼女を捕縛したのだ。
ぎっちぎちのぎちであった。
「……ッ!?」
それはとんでもない光景であった。
「は、離せ~、私は主になるんだぞ!?」
なんとか拘束を振りほどこうともだもだとしているが、一向にルイミサは捕縛から逃れられないようだった。
どれだけ飼育されているのだとしても怪異なのだ。それを失念すれば痛い目を見るのは明らかだっただろうに。
こういう所が抜けているのだ、彼女は。
「助けて?」
ややあって、ルイミサは諦念したように呟いた。
時雨は、そんな彼女の姿を見上げて息を吐き出す。
「帰っていい?」
ダメに決まってんでしょうが――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功