命為す縁
●幸福の形
小さな偶然が積み重なって、日々に軌跡を描く。
何気ない繰り返しばかりに見えても、絶えず変化は誰しも経験するだろう。一晩経てば忘れてしまうほどささやかに、日常に溶けゆくものだとしても。
幼い妖怪たちの小さな背中が見えた。振り返らないでと言った通りに駆けていく姿を、|翊・千羽《あくるひ・ちはね》(コントレイル・h00734)の瞳は凪いだまま見送る。
(良かった)
偽りない本心は、安堵を連れて体の力が抜けるようだった。事実、掴んでいた|怪物《インビジブル》の腕から手が離れれば、ずるりと脇腹から鋭い爪が引き抜かれる。痛みは既に遠い。命が失われる寒気だけが駆けて、鈍く全身を包むよう。
何か言葉を発する間もなく、あふれた血が鮮やかに地面に落ちた。続くようにして千羽の体も崩れ落ちる。もはや助からないだろうとは彼自身が一番よく知れて、それを見下ろす怪物とて同じことを思ったのだろう。
興味を無くしたかのように、さきほどソイツが出てきた路地裏の奥――歪んだ道の別世界へと帰っていった。
良かった。
安堵の息は震えて吐き出される。それは、ただ肉体が役目を終えようとしているだけ。広がる血だまりのが、真白の髪を赤く染めようと、千羽自身が抱く感情はひどく平坦だった。
いつだってそうだ。肉体は死に向かっているのにもかかわらず、おそろしさは一つも感じることができない。
でも、これでいい。
誰かの為に喪われるなら自分の命であるべきだ。たとえ何度やり直したって、その運命は変わらない。そう望む意思も、感情も。なにひとつ変わらない。
生き物としては随分歪だろうそれを、おかしいと思うことすらなかった。重い頭を上へ向ければ、視界に飛び込む空の青に千羽は目を細める。地上の惨劇など知らぬとばかりに、眩しい陽のひかり。
「良かった」
浅い呼吸とともに吐き出された呟きは誰にも拾われない。
自身が能力者であるなら完全な死はありえない。ならば何度だって、誰かの為に命を投げ出すことは可能だろう。
千羽にとってそれは幸運で、幸福のかたちをしていた。
(ねむいな)
ぼやける視界がゆるやかに光を失っていく。暗闇に塗りつぶされてしまえば、ただ瞼を閉じたのとさして変わらない。
死んでもその続きがある死にどれほどの意味があるのだろうか。
薄い青の中に飛行機雲の白い線が走っていく。現実か、夢かの判断はつかない。だからそれに手を伸ばしたことも半ば無意識で、為せているのかは分からないままだ。
ただ、空に届かない指先が震える。
死ぬことよりもひどく漠然とした寂しさが、胸中で満ちていった。
空が暮れて色を鮮やかに変えていく。命が灯が沈む太陽と同じ速度で眠りにつく。
「……かえりたいな」
――かえらなきゃ。
今はまだ、己の帰りを待っている人たちの顔が、ちゃんと浮かぶのだから。
●帰る場所
「ただいま」
遅くなった千羽の言葉に、家族のおかえりの声はすっかり勢ぞろいだ。
心配したのだと小言を並べる彼らの声にも、表情にも、愛情ばかりが浮かんでいる。何かあったのかと問う言葉にだって、咎めるよりも労わりを感じてしまうな。
やわらかで、やさしくて、あたたかい。
「雲を追いかけてたら、道に迷ってた」
だから千羽差し出すのだってやわらかな微笑みと、嘘だった。
だから彼らは何も知らぬまま。悲しみは遠ざけられたと知らずに、安堵のまま訪ねる。
「楽しかったか?」
「うん」
じゃあ良かった。でも連絡はしろよ。迷子になったら呼んでね!
口々に浴びせられる言葉はやっぱり愛に満ちて。
ありがとうと千羽は微笑んだ。
人は縁を重ねて――日々奇跡を為している。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功