あこがれ
柔らかい声色はどこまでも響く。
「あなた。『怖くない』わ」
インビジブルに語りかける少女。息をするように貼られる『定義付け』。事件の被害者、怯えた目をしていたそれに一言。それだけで『彼』は、落ち着いた様子でここ数日の事を語り始めた。
電柱の下に添えられた花は萎れ始めている。雨粒に濡れ汚れたそれを見て、橘・明留(青天を乞う・h01198)は唇を噛む。紳士用の傘が隣に添えられていたが、閉じられたそれが花束を雨から守ってくれることは金輪際無いだろう。きっと花が枯れた頃。これを供えたものが、花束と共に持って帰る。
雨の日のことだった。傘をさす明留と異なり、目の前の『少女』、イリス・フラックス(ペルセポネのくちづけ・h01095)は濡れるのを楽しむかのように、水たまりを踏んで歩いてきた。
「お天気、悪いわね。晴れたらいいのに」
本当に。頷くことしかできない。余計なことを言うと面倒なことになる。前もってそう聞いていた明留は、楽しげにインビジブルと会話する『それ』を見る。
どうやって死んだのか。自動車事故。加害者は。普通の人に見えた。心残りはないか。家族を置いてきた。テンプレートのように淡々聞く彼女。
ああ『配慮の欠如』だ。人間的な感性。それがあればあんなにもずけずけと人の心や情報に踏み入ることなんてしないだろう。
己にも突き刺さる言葉の数々。だが彼女はそれを知る由なく。だって明留とはこれが初対面。互いの情報など多少しか知りはしないのだから。
だがそんな偶像も、明留の顔色の悪さくらいは察せるらしい。
「暗い顔ね。気になることがあるの?」
定義のない心配が出来る。それだけで多少はマシ。
「え、えっと……まあ、そんなとこ、です」
視線のやりどころがない。まず偶像の外見。次に、生前の姿とはいえ死した『彼』をどのような目で見ればいいのか。ようやく顔を上げ、ゆらり揺れるインビジブルに視線を向けた。質問はないかと待っているのを見て、明留は「もう大丈夫」と声をかける。
すう、と。曖昧なすがたへ戻っていく彼を見て、明留は何故だか――深く安心してしまった。
なのに。
「彼。ただのお出かけだったのに。災難ね」
悪気のない。知りもしない一言が、ぞわりと背筋を撫でた。
拉げたガードレール。傷の残る電柱。植え込みの中には、ほんとうは、ちいさなちいさな――。
口をおさえる。思い出しては、いけない。そうして耐えているというのに、災厄というものは余計な言葉を投げかけてくれる。
「――あなたも、『そう』なの?」
心からの興味と、善意のある『ふり』で。
視界に映る光景が赤く染まる。それも雨粒が洗い流していく。
そこに車なんてないよ。そこに血溜まりなんてないよ。そこに肉片なんて。五指のどれだかわからないものなんて。折れた骨が飛び出した腕だってないんだよ。
――定義付けられたた。理解しようとも視界が許さない。目を閉じようと聴覚が許さない。
唸り声だって聞こえない。呼ぶ声だって。誰かの悲鳴も、雨の音も、サイレンも。
ブレーキ音が響く、水の音、ああそうだ。そうだよ、覚えてる。
覚えてしまっている。
「どうしたの? こわいこと、思い出した?」
頬へと伸ばされる手。体が硬直して動かない。これには定義なんてつけられていない。レッテルなんて貼られていない、それでも。
……指先が触れた。やわらかい少女の指。雨で冷えたそれに、肩が跳ねた。ようやく身動きが取れるようになった体、一歩二歩と下がって、『少女』を見る。
「大丈夫よ、怖がっても。どれだけ怖くてもね、死んだら、みんな同じよ」
くるりと回る少女。同じではない。皆それぞれ理由があり、死してそこにいる。だが言い返すことなどできなかった。
彼女が使役する悪霊、青年の姿をしたそれだって、何かが理由となり死んで、彼女のためにと側にいる。……その手を取って、彼女は楽しげに踊る、踊る。
――あのように、死霊と踊れたなら。少しは、ましだったかな。
「あなたもどう? 楽しいわ。踏むとね、ぱしゃりって音がして」
血液もそうだ。
「時々、滑っちゃうの」
血液は、そうだ。未だ赤い視界の中。無邪気に。傘から伝う雨粒、ぽたりと落ちて。
伸ばされた手を取らない明留。ならば踊らないのだと理解したか、少女は水たまりを蹴って、つまらなそうに唇を尖らせた。
自分が見ている幻覚は、彼女には見えていない。彼女とはどこまでも、何もかも、共有できない。
異なる生き物だから、それ以上の隔たりが……そこにある。
……ねえ、この悪夢に終わりはくるのですか。
この欲求は、死へのあこがれは、いつか晴れるのですか。
晴れたとして、『青天の霹靂』として、また訪うのではありませんか。
終わりがくるとするならば。
次の『悪夢』が始まらないことを、願わずにはいられない。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功