シナリオ

孤独のスペクトログラム

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 防音の接見室に入る時にまず一つ、ストップウォッチを開始する。
「やぁ。久しぶり」
 そうして私のかける声に、伊沙奈・空音は人懐っこい笑みを浮かべる。
 机の横のスピーカーがサウンドマスキングの為のノイズを垂れ流している。人の声から合成した、意味を持たずにざわつく特殊音声。その不快感を和らげるかの様に波の音が重ねられていた。これには万が一の音漏れ防止に加え、気休め程度の抑止効果があると言う。
「相変わらず五月蝿くしてすまないな」
『良いよ。必要なことだもんね』
 机の上のノートにさらさらと綺麗な筆跡がそう告げる。
 もう一つ、ストップウォッチのボタンを押した。
「もう喋っても大丈夫だよ」
「喋って良いんだね、嬉しいな」
 やや機械的な声、微かにノイズが混じるのはそれが人工声帯によるものである為だ。
 『52Hz』、それが人間災厄としての彼の個体名。彼本来の声は聴く者に幻覚と幻聴を齎す。内容は多々あれど、何れも強い孤独を連れて来る点が共通だ。故にその名はこの世で最も孤独な鯨に肖り付けられた。真偽の程はいざ知らず、収容された時に空音が「僕は元々は鯨だった」と口にしたことも由来だと言う。
「もうすぐ4月だね。外の様子はどう?」
「そろそろ桜が咲くらしい。……そんな話で良いのか?」
「前に話してた√能力者のことをもっと教えて欲しいな」
 彼との会話はいつも駆け足だ。
「何が気になる?」
「僕もそんな風になれたら、友達の為に何か出来るかも」
「嗚呼、成る程」
 話すのはいつも他愛のないことだ。何を話したかも覚えぬ程度に取り留めもなく、それでも彼はいつも楽しげだ。
――……けて……よ。
 直近出会った能力者の話をしていたところで、彼方から響く声。ストップウォッチ二つを止める。
「入室から15分32秒。喋り始めて14分44秒だ」
『今までで一番長いね。嬉しいな』
「もっと研究が進めば、もっと話せるようになるさ」
 筆談に切り替えた空音の前で記録をつける。
『何分お喋り出来るようになったら、』
 インクが切れて途切れた言葉。私のペンを貸してやる。
『友達が出来るかな?』
「さぁ、な」
 友達という存在に彼は並ならぬ執着を示す。だが、私の立場を理解するが故、友達になって欲しいとは決して言わない。その優しさに胸が痛んだ。彼の声の持つ力の一番の被害者は彼なのだ。
――…つけて、ここ……る……
 幻聴が近づいて来る。早く部屋を出なければいけないのに、まだ告げられていないことがある。言葉を選んで、心を決めた。
「なぁ、空音——」
――見つけて、ここに居るよ。
 刹那、耳元で鮮明な声。その幻聴と同時に、世界から音が消えた。世界から切り離されたかの様な孤独。泣けど叫べどこの世の誰にも声が届かない確信だけがある。こんな孤独の内に生きるならいっそ——。
 肩を揺さぶられた。同時、人々の喧噪が静寂を破り、孤独を払う端緒をくれた。嗚呼、空音がスピーカーの音量を最大にしてくれている。
 我知らず涙を流していた私に空音は心配そうな顔をして、手早くノートに文字を書く。
『早く出た方が良いよ』
 頷くことしか出来ない。幻聴だけではない。今や視界が、殺風景な白い部屋が、水中の様に青く揺らぐ。見上げれば遥かに煌めく水面を見てしまいそうで、それを見たら戻って来られなくなりそうで——。
『またね』
 水底のノートに空音が綴った。頷くことも出来ないで転がる様に部屋を出た。
 防音扉に背を預け、床にへたり込む。
 どれだけそうした後だったか。ペンを忘れたことに気付いた。来月の異動を、もう会えないと伝えられなかったことに気が付いた。
 彼と友達になりたかったのは私の方だったと、気が付いた。
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​ 成功

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