或る教師の選択~彼がペンから剣に持ち替えた理由
●通り過ぎた季節の影
それは、校庭の桜の木が青々と葉を茂らせている頃のことだった。
傾きかけた日差しが淡橙色に彩る廊下を、|花園・樹《はなぞの・たつき》はひとり歩いている。
数ヵ月前この小学校に着任した彼にとっての|定例業務《にちじょう》。放課後校舎を巡って施錠を確認していく。
長い夏休みを経ても疲れ知らずの――むしろ元気を増した子供達の喧騒が満ちていた教室も、この時間となればすっかり静まり返っている。けれど、校庭にはまだ何人かが残っていて、はしゃぐ声が遠く聞こえていた。
終わったら、あの子達にも帰るよう言いにいかないとな。
そんなことを考えながら、窓と扉に鍵をかけていく。じゃらじゃらと鳴る束の中から目当ての鍵を探し当てることにも慣れた。春にはそれだけでずいぶんと迷ってしまったものだけれど。
ふいに、廊下の床に落ちた影が目に入る。薄暗いのっぺらぼうの影。長身の男の影。樹自身の影。それが|ちゃんとヒトの形をしている《・・・・・・・・・・・・・》ことに、密かな安堵の息を吐く。
影の傍らを朧げな存在が通り過ぎていった。隙間風のような囁きを置いて。
構わず視線を上げて、足を進める。普通の人間は、幽霊の声に耳を傾けたりしないものだから。
さあ、残りは三階だけだ。
階段の上から湿気をはらんだ空気が降りてきて、首筋を掠めていく。毛がわずかに逆立つ。
夏休みの間に流行ったのか、子供達が密かに口にしている噂を思い出す。稚気と想像力で組み上げられた「学校の怪談」。そのひとつ。
――三階の男子トイレの一番奥は呪いのトイレ。
そのフレーズにうそ寒いものを感じているのは樹だけだ。だが彼も、その胸騒ぎを口にすることはない。
例えそれが、限りなく真実に近い虚構だったとして、私に何ができるのか。
階段の半ばで湿度はますます増して、澱んだ水の臭いが混じる。
踊り場を過ぎて折り返し、三階へ。並んでいるのはほとんど特別教室で、二学期が始まって幾らもしない今日はほぼ使われていない。だが、手抜きなどせずに確認しなければ。
音楽室の扉の前で鍵束を手繰っていると、静寂を突き破って叫び声がした。
うわあ、とか、来るな、とかいう類の。反射的に鍵を手放して床を蹴る。全力で廊下を駆け抜けて、声の出処に辿り着く。
三階の男子トイレ。座りこんだ少年。樹にも気づかず、トイレの奥に固定された視線。それを追って目を転じると、そこに。
蜥蜴と山椒魚を混ぜ合わせたような姿の怪物がいた。三対の脚がタイルを踏んで濡れた音を立てる。
そいつは大きく裂けた口を歪めて、にたり、と捕食者の笑みを浮かべてみせた。
●アウトサイダー
「樹、僕達は人間じゃないんだ」
院長先生にそう言われたのも、九月のことだった。高校三年の九月。夏休み明け。志望校を決めるための面談があって。推薦を得られたと知らされて。身寄りのない自分を育ててくれた師父に報告して。「立派になったね」と褒めてくれたその口から、そんな言葉が飛び出した。
思考を空転させたまま、樹は彼の話を聞いていた。インビジブル、√能力と能力者、そして、|この世界《√EDEN》に平行する|異世界《√》。
「僕はこの楽園の護り手として、君のように他の世界から迷い込んでしまった子供を保護してきた。それが真実だ」
彼は立ち上がると、執務室の隅にある古めかしい大きな金庫を開けて、中から一振りの刀を取り出した。下緒に結びつけられた金の鈴が涼し気な音を立てる。
「これはね、樹。君がこの世界にやって来た時に持っていたものだ」
差し出されたそれを反射的に受け取った瞬間、樹は院長が偽りを口にしていないことを悟った。剣が秘めていた神秘の霊力が掌を伝わって流れこみ、断絶した記憶を蘇らせたのだ。
泣き叫ぶ幼い樹が、小さな手で必死にこの太刀を握り締めている。その身体にはイヌ科の獣のものに似た耳と尻尾が生えていた。
物心もつかない頃の幻は姿を変えて、十八歳の少年に重なる。ずっと離れていた半身を手にして、ヒトならざる本来の形を取り戻した花園・樹がそこにいた。
「樹、君は自分の進路を自分で選び、勝ち取れるほど大人になった。だから僕も、伝えられずにいた真実を伝えられる」
滔々と語る院長を樹は見返した。自身とそう変わらない年頃に見える彼を。それが不自然とは思ってこなかった。あるいは、思わないようにしていた。
「君にも力がある。この世界と人々を守るために戦える力が。でもね、樹。√能力者だとしても……君の人生は君のものだ。戦うのも戦わないのも、君の自由だよ」
提示された選択肢に、十八歳の樹は――。
「僕は、教師になります。だから、これはいりません」
握り締めていた太刀を、手放した。
●ほんとうにやるべきこと
あの時、あの剣と力を手放したことは正しかったのだろうか。
にじり寄ってくる怪物と、気を失った少年を交互に見やりつつ、樹は自問する。
平穏な暮らしを、戦いなどというものと無縁な日々を私は確かに求めた。普通の人間として生き、学び、歩いて念願の教師という居場所を手に入れた。
だがそれは、師父が伝えてくれた真実から――簒奪者は私達の願いを顧みることなどないという事実から目を逸らしていただけではないか。
そんな風に見て見ぬふりを続けていたせいで、自分の正体に背を向けて歩き続けてきたせいで、侵されるべきではないこの場所への侵入を許してしまったのではないか。
答えの出ない問いかけを繰り返した末に辿り着いたのは、あの日告げられた言葉だった。
――君にも力がある。
残響に、あの時は心に浮かぶことさえなかった答えを返す。
力があれば戦えますか。戦えば守れますか。先生――。
孤児院を巣立って以来会っていないけれど。頷いて古い金庫を開ける師父の姿がまざまざと思い描かれた。
あの日と同じように差し出される剣。再び提示される選択肢。二十三歳になった樹は――。
「私は、旧き|真神《マカミ》の裔。悪に牙剥く楽園の護り手……!」
手を伸ばして剣を掴んだ。
●普通なようで普通でない日々
あれから時は過ぎ。桜の葉は散り、いつしか蕾になって。
力を揮う決意を固めた樹の体には、半人半妖の証たる狼の耳と尾が生えている。けれど、それを気にする人はいない。真の姿を隠さなくなっても「先生、それってハロウィンの仮装? すごーい!」と言われてしまい、「今まで必死で隠そうとしてきたのは何だったんだろう」と拍子抜けしてしまう程だった。
そういうわけで、今日も樹は普通の人間達に混じって暮らしている。
「みんな、おはよう」
出くわした児童に声をかければ、返ってくるのは明るい挨拶。上背があって厳めしい造作をしているが、子供達は樹に畏怖よりも親しみを感じているようだ。
――と。
「……あ」
小さな声がした。目を向ければ見慣れぬ児童の姿。足を止めて、樹の姿を上から下まで眺め回している。試しに尻尾を動かしてみると、それを追って視線が動いた。
「おはよう。どうかしたかい?」
我ながら白々しいかと思いつつも声をかけると、その子は首をぶんぶん振って身を翻し、駆け去っていく。
(あの子も能力者か……)
いいや、花園・樹のやるべきことは変わらない。偽りない自分のままでこれからも子供達と向き合っていこう。教師として、護り手として。
教師生活の一年目が、終わろうとしていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功