玻璃十二支ノ序
●熙
「――ほら、|笑壺《えつぼ》。はやく来いよ!」
優美な衣擦れの音がしたと思った直後、ぱたぱたと元気な足音が板張りの廊下に木霊した。その後に続くのはどこかのんびりした足音で、さらにそこへ小さな、猫を思わせる静かな足音が続く。
「らんくん……そんな風に走ると、また行儀が悪いって言われるよ」
足音の主は三人の少年だった。それぞれ雰囲気は異なるが兄弟らしく、|百鬼夜行《デモクラシィ》の世界にあっても些か時代がかった装束を着ていた。とは言え、彼らも着慣れている訳ではないようで、先頭を行く少年は衣の裾が鬱陶しいと文句を零している。
「と、えっちゃんの方は……帯とかきつくない? 直そうか?」
「ううん、大丈夫」
彼らは上から順に|爛漫《らんまん》、|日和《ひより》、笑壺という。えっちゃん――年の離れた末の弟である笑壺が十歳の誕生日を迎えた今日、屋敷は朝から慌ただしい雰囲気に包まれていた。古い家である|熙《よろこび》家には、十の時に行われるという「儀式」があるのだ。
「……なぁ、儀式ってどんなの?」
「なんだよ笑壺、こわいのかー?」
まっすぐな目を向けて問う弟に、すかさず爛漫が茶化した声を上げる。
そんなことはないけど――と、笑壺が年相応の強がりを見せたところで、蔵のほうから支度を終えた長兄が姿を見せた。
「あっ、|海神《わだつみ》兄さん」
「皆、着付けは終えたようだな。……うん、よく似合っている」
人間である爛漫と日和や半人半妖の笑壺と違って、長兄――熙家の跡取りである海神は、純粋な人妖だ。その名は、海が割れるほどの妖力を持って生まれてきたことに由来するという。
「何だ、儀式の話をしていたのか? 笑壺は、熙の成り立ちは覚えているか」
「うん、十二支の物の怪の話……だよね」
蔵にある古い覚書を見ながら、彼が説明してくれたことがあった。
遠い昔、物の怪に憑かれた家系――それが熙の家である、と。
「そうだ。熙家の血が流れる者は、十の時に物の怪と血を結ぶ。物の怪達が、自ら|人柱《やど》を選ぶ……それが、今回の儀式という訳だ」
|百鬼夜行《デモクラシィ》よりはるか昔の、人と妖の契りである。書にはそのことを裏付けるように『約束を違えれば、熙家は悲惨な運命を辿る』と言う、呪いめいた記述があった。
(うーん……)
それだけを聞くとやはり恐ろしいもののように思えて、笑壺はごくりと息を呑む。
「ふふ。でもさ、何も起こらない可能性の方は高いんだよね、海神くん」
そこで緊迫した空気を和らげるように、日和の穏やかな声が挟まれた。そうだな、と三男の言葉に頷いた海神も、可愛い末の弟を安心させるように微笑んでみせる。
「今、熙家に宿主はいない。……私達の時には、物の怪が憑くことがなかったからな」
「そっか、海神兄さんでも……」
すでに儀式を終えた兄たちの頼もしい言葉に、笑壺の緊張も少し解けた――ように思えた。
●憑
普段は立ち入ることの許されない本殿の奥で、熙家の儀式は厳かに執り行われた。
親戚一同が立ち会うなか、海神の読み上げる祭文が朗々と響く。その声に合わせるように燭台の蝋燭たちが、濃い闇を祓おうと必死に身を捩らせていた。ゆらゆらと不思議な香りを漂わせるのは、海の向こうから取り寄せたという香木だろう。
――遠い昔から、幾度となく繰り返されてきた光景。
熙家に憑くという物の怪たちは、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥、十二の獣だ。古くは暦や方位にも用いられた「時空」を司るもの。その為か、祭壇には熙家に伝わる品らしい、天文図の刻まれた鏡も置かれている。
「――結びの血を」
祭文が終わったところで、傍に控えていた笑壺が祭壇の前へ進み出た。
供物台の上に置かれた檀紙と儀礼用の短刀を見て、深呼吸をする。最後に指先からの血を一滴、檀紙に染み込ませることで、物の怪達の|人柱《やど》となる契約が交わされるという。
(……おれだって十歳になったんだ)
思い切って短刀を手に取り、ひんやりとした刃の感触を味わう。直後、指先がじわりと熱を持ったかと思えば、純白の和紙にぽたりと朱が落ちた。
これで儀式は完了だ。己の役目を果たした笑壺はほっと息を吐こうとしたが、そこで奇妙な感覚を覚えてずるずると床に倒れ込んだ。
「……あ、れ?」
――今、誰かに名前を呼ばれた、ような。
酷い耳鳴りと、眩暈がする。
そうしているうちに身体の自由が効かなくなって、どんどん鼓動が速くなっていった。
「ぁ、ぁ……なに、これ、」
そこで――辺りの蝋燭の灯が慄くように震えて、ふっと一斉に掻き消えた。
たちまち儀式の間に満ちる、濃密な闇。
その奥で蠢く“何か”の存在を感じ取った海神が、急いで周りの者たちに声を掛ける。
「っ、爛漫、日和、他の者も……すぐ部屋から出ろ!」
応えはない。恐らく皆、妖気に中てられて気を失ってしまったのだろう。
異変に気づいた屋敷の者が駆けつけてくる気配はするものの、扉はまるで施錠されているかのようにぴくりとも動かない。険しい顏で空を睨む海神の周りで、凄まじい妖気がどんどん膨れ上がっていく。
「ぁ、ああぁああーー……たすけ、だずげてにいさ」
末の弟の悲痛な叫び声が聞こえてきたのは、その時だった。
濃密な闇が渦を巻く、その中心にいたのは笑壺だった。異形のように蠢めく彼の姿を見て、海神は“何か”が憑こうとしているとすぐに悟った。
物の怪だ――それも、《《十二の物の怪すべて》》が笑壺に憑こうとしている!
「あ゛ぁああ、うぁあ、」
無理やり入り込もうとする物の怪たちによって、笑壺の姿が目まぐるしく変わる。
振り回した腕が、猛獣のそれと化す。背中に広がるのは鳥の翼。柔い肌を覆い尽くしていく鱗の近くでは、幾つもの蹄が生まれて出鱈目に床を蹴りつける。
「笑壺! ……笑壺!」
もはや人としての容も留められずに、ひたすら叫び、喘ぐことしか出来ない笑壺を、誰も――強大な妖力を持つ海神でさえ、助けられずにいた。
「ああああ!!!」
辺りに渦巻く妖気が、次第に収束していく。それとともに黄昏のような赤が少年の右眼を染め、その身体がびくびくと、打ち上げられた魚のように痙攣した。
「…………!」
近寄ることすら出来ぬまま、海神が息を呑む。笑壺の赤い目玉がぐるりと、周囲を確認するように異質な動きを見せたのだ。
(《《弟ではない》》)
彼に憑いた十二の物の怪たちが、何者も寄せ付けぬ妖気を放ちながら、陶然とした様子で何かを告げようとしていた。
『この|契り《あい》の』『邪魔を、するな』
そうして――物の怪たちが落ち着いたのか、それとも笑壺が限界を迎えたのか。
辺りに渦巻く妖気が掻き消えると同時、少年の意識はふっつり途絶えた。
●契
ゆらゆらと何処かを漂っているようだった。ひどい熱を出した時の、寝ているのか起きているのか曖昧な、あの感じに少し似ていた。
今がいつで、自分がどこにいるのかもはっきりしない。切れ切れに浮かぶ記憶は、夢なのか現実のものであったのか――けれどそれも、覚醒とともに急速に色褪せていく。
「……あ」
瞼を射す光は、逢魔が時の赤い夕陽。
その眩しさに目を瞬かせようとしたところで、少年は右眼の違和感に気づいた。
(何も、見えない)
――いや、それだけではない。身体もうまく動かないし、何だか自分のものではないような違和感があった。
そうしているうちに、笑壺が目を覚ましたことに気づいた海神が飛んできて、これまでのことを説明してくれた。
儀式の際、十二の物の怪すべてが自分に憑いてしまったこと。
その所為で丸一年くらい眠っていたこと。
先日ようやく、海神の力によって、笑壺の身体から一時的に物の怪を引き剥がすことが出来た、ということ。
「……今はこれに、十二の獣たちが一つひとつ宿っている」
そう言って兄が見せてくれたのは、小さなラムネ玉だった。笑壺が集めていた小さな宝物のことを知っていたのだろう。瓶の中から一つずつ取り出してくれるのを見ているうちに、少年の心にじんわりと現実が染みてくる。
「……ほんとに、ずっと眠ってたんだ」
今日の日付を目にしてぽつりと呟けば、長兄は思いつめた顔で「助けられなくてすまなかった」と頭を下げた。今まで熙家に人柱はひとりもいなかったのだ。笑壺の負担がどれほどのものだったのかと、この一年ずっと己を責め続けていたのだろう。
「いいよ、海神兄さんのせいじゃないし」
その時、片方の眼だけで自分の部屋を見回す笑壺の前を、透明な魚がすいと横切っていった。しかしどうやら、兄にはその魚が見えていないらしい。
「でも、眼……身体も、まだ変な感じする」
「一年も眠っていたんだ。暫くは安静にしていろ」
水差しの乗った盆を置き、布団を掛け直してくれる海神に、ついぽろりと本音が出た。
「……つまんない」
「……」
直後、無言の重圧が笑壺に迫る。
こういう時の兄は厳しいので、慌てて首を振って言うことをきくと誓う。
「してる、してるけど。……兄さんあのさ」
「なんだ」
瓶の中に戻されたラムネ玉にちらりと目を向けながら、少年は真剣な声で言った。
「それの使い方、教えて」
――赤い夕陽を弾いてきらきら輝く、十二の硝子玉。
それを青の瞳に映しながら、海神は“彼ら”とのやり取りを思い返していた。
(弟を気に入ったのなら、このままというのは本意ではないだろう)
|人柱《やど》は、宿主が息絶えるまで変える事が出来ない――そのことを盾にして、どうにか物の怪たちと新たな契約を交わすことが出来たが、笑壺はその力に押し潰されないよう、これから強くならなければいけない。
「これは――笑壺。御前がちゃんと元気になってからだ」
末の弟が背負うことになった一族のさだめを思いながら、海神は彼の赤い髪をくしゃっと撫でて、力強くそう答えたのだった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功