イチゴを摘む
クリームがたっぷり塗りたくられた、途轍もなく甘ったるいショートケーキ。フォークの先端でつついたイチゴの行方はお皿の端っこ、刺し込むつもりは皆無であった。甘ったるいショートケーキを食べた後にお口をサッパリとさせてくれる、甘酸っぱいイチゴ。真っ赤で、粒々とした果実は……果肉と果汁は……愛おしい最後の一口と思えたのだ。ご馳走さまと謂うつもりはない、おかわりなんて出来やしない。そんな入社祝い。
汎神解剖機関――業務内容は複雑怪奇であった。入社して半年が経った現在、可愛らしい新人さんのお耳に『新たな怪異の情報』が齎された。如何やら怪異は数日前に捕縛され、収容室に運ばれたばかりのようだ。他の職員があまり話題にしていない事から危険性は其処まで高くないのかもしれない。……どんな怪異さんかな。仲良くなれると良いな。話題にならないという事は、言い換えると『仲良くなれる可能性だって高い』だろうか。人類に友好的な怪異は人類が思っている以上に多いのかもしれない。楽しみだな。あの時の怪異さんみたいに、一緒に、かくれんぼとか出来たら嬉しいな。ぴたりと、歩みを止める。収容室に到着したのだ。いや、収容室と謂うよりかはホテルの一室の方が近い。がちゃりと、扉を開けようとしたところで不意に襲ってくる嫌な予感。頭の中を掻き混ぜてくる不安感。幾らおとなしい怪異さんでも、機関が、このような『普通の部屋』を用意するなんて――? ぎぃ、と、扉が嗤った。
濡れた烏を彷彿とさせる――大きな鴉を彷彿とさせる―――黒い髪の女性が座っていた。ぬるりと、まるで、最初から其処に存在しているのが『当たり前』な雰囲気でゆらゆらと揺れている。軽度の立ち眩みにでもやられたかのような感覚を如何にか鎮め、オマエはお隣の同期の様子を見る事にした。……梶原君……? 彼は硬直していた。硬直の所以は、成程、怪異に対しての一目惚れであろうか。ごくりと、喉を鳴らした彼。オマエは視線をもう一度、怪異の方に向ける。……あ。濡れた烏のような女が、にっこりと微笑んでいる。あの笑みはきっと『エミ』に対してのものだろう。だけれども、オマエは初めて『怪異』に微笑みを返す事ができなかった。ダメだ。あの怪異さんは……あの女性は。理由はわからないけれども、わからないからこそ、おそろしい。怪異を刺激しないようにゆっくりと扉を閉め、オマエは先輩への報告を急ぐ事にした。井上先輩……井上先輩……! その……あの女性は……あの怪異は、理由はわかりませんが、危険だと思います。いえ、怪異さんが危険なのは知っています。ですが、あの怪異は……もっと、セキュリティが強固なところで観測……閉じ込めた方がいいです……! 鏡があったならば、姿見があったならば、オマエは、オマエの恐怖している顔に驚いた筈である。何せ、先輩の驚きようといったら、まさしく、怪異が超常現象阻害弾丸を食らったかのようで。大丈夫か? あの怪異は見ての通り、危険度の低い……皆無と謂ってもいいものだ。早めに帰って、ゆっくり休んだって良いんだぞ……? 井上先輩が優しい人だって事はわかっている。わかっているから、頷いて、早退する事になった。先輩が車を運転してくれている。あっと言う間に自宅の玄関。……先輩の謂う通りだったのかもしれない。きっと、私は疲れていて、変な気になっていたのかもしれない。でも……それでも……。恐怖は嘘を吐かない。身体が震えて、頭がズキズキして、なんだか、中を覗き込まれたかのような……朝を迎えていた。
身体が鉛のように重たい。寝不足の所為だと、自分に言い聞かせて収容施設へ。やっぱり、もう一度、あの怪異の事を相談しなければ……。そんな事を考えながら職員の休憩室へと向かっていると――日常を破砕するかのような、凄まじい、悲鳴のようなものが耳朶を打つ。いや、悲鳴だ。悲鳴そのものだ。なあ……一ノ瀬、聞いたか? この悲鳴、どうやらお前が言っていた事は正しかったらしいな。側にいた井上先輩の声色はひどく暗かった。そして、もう一人、同期のお友達であるユリカちゃんも咽喉を鳴らした。エミちゃん、武装は大丈夫だよね? 確認している余裕すらもなかった。三人同時に駆け出して例の|収容室《おへや》に……行く必要もなかった。廊下、その真ん中で例の女性が――怪異が、職員の山本さんを抱えている。オマエの不安は的中した。オマエの恐怖は莫迦みたいに正しかったのだ。女性は職員に口づけをして……其処から……何かを啜り取っている。……舌を、喰っているのか。先輩の口からこぼれた言の葉。今にも意識が遠退きそうだったが、必死に食らいつく。廊下の隅で倒れているのは梶原君だろう。ずるりと、開いた腹部から口からも、伽藍洞をこぼしている。守ろうとしたのであろうか。二つ上の辻先輩と今野先輩も武器を構えた儘……。すっと、身体が動いた。運命、濡れた烏と、怪異と、目の玉が、遭う。人がたくさん死んでいる、絨毯の中で、彼女はとても嬉しそうに手を伸ばした。くうくうと鳴いている、泣いている、雛鳥のように。
オマエを庇うようにして刀を滑らせたのは先輩であった。怪異の腕を切断しようと動いたのだけれども、呆気なく見切られた先輩の肩には、深い深い怪異の爪の痕。そのまま怪異が向かったのはオマエのお友達の方だ。ユリカちゃんは銃を構えて、撃ってくれたけれども、怪異に押し倒されて舌の根元への熱烈な口づけ。……いやだ。いやだよ、私……助けなきゃ。助けないと……。涙が世界を曇らせている。ぐい、と、身体が動いたのは先輩の所為だろうか。君だけでも逃げろ。逃げてくれ。だったら、先輩も……。必死さは伝わった。伝わったのだが、何もかもは手遅れだ。先輩は首を横に振って……。一ノ瀬、いや、エミ。君に何かがあったらあいつに顔向けできない。戦って、戦って、死力を尽くした先輩は――友達と同じように。
彼女がやってくる。
口元を拭って、やってくる。
涙を流して、絶望をしているオマエに。
微笑みがやってくる。
ああ、よかった。また、会えた。すぐ、いなくなってしまったから、寂しかったのよ。やっと……やっと……あなたを食べることができる。翼をもいで、羽をもいで、逃げられないようにして。一番、あなたが食べたくて仕方なかったのよ。
怒りだろうか。哀しみだろうか。内側に溜まっていた感情が引き金となって、只、叫ぶ。私だけを食べればよかったのに。どうして? なんで、みんなに酷いことをしたの? 答えて……! 理解していないのはお互い様だ。怪異は首を傾げ、その手を伸ばそうとした。だが、濡れた烏のような女は、何かしらに拒まれたのかと思うほど、怯えの感情に支配された。微笑みは困惑にやられ、怪異の身体が震える。怪異の顔に――メスが突き刺さった。エミ……! エミ! 声が解けた。溶けて、糸は切れた。
後日、意識を取り戻したオマエは暫くの療養を得て、事件の被害者を調べる事とした。他にも、収容室の中で三名が死亡していたようだ。決着をつけなくてはならない。今も思い続けている事だ。……殺そうと考えているのだ。
シュウ兄は、私が、天使になるかもって心配しているようだけど。
こんな私が、天使なわけがない。
なるはずがないよ、なれるはずが、ないよ。
イチゴを大切にしてはいけない。最初に食べよう。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功