そこに花があった
私はじきに死ぬ。
生まれ落ちた時から(ひょっとしたら、母の胎内で微睡んでいた時から?)この身を蝕み続けてきた業病に殺される。
なにも残せず、何者にもなれず、皆に忘れ去られ、泡のように消え果てる。
両親が分限者だったことは、私にとって幸運だったのだろうか? 貧しい家に生まれていたら、赤子のうちに力尽きていたに違いない。しかし、それは病苦に喘ぐ期間が短くて済むということでもある。なまじ金の力で病に抗えたからこそ、私は二十余年も生き長らえてしまった。
二十余年! その短さだけに着目して同情する者は幸せな愚か者だ。きっと、咳をしたはずみで骨が折れたことも、寝返りしただけで皮膚が剥けたことも、眠っている間に歯が抜け落ちて喉に詰まったこともないのだろう。生きたまま体が腐れ落ちていくおぞましい感覚も想像できまい。
絶望と激痛を抱えての二十余年は百年にも等しい。体感的な時間で考えるなら、私はかなりの長命者だ。得をした気分にはなれないが。
とはいえ、百年に渡る地獄の日々にも潤いがあったことは認めねばなるまい。
『|春夏秋冬《ひととせ》』という名の潤いが……。
十歳になった時、母が扇子を贈ってくれた。
それが『春夏秋冬』だ。
その扇面に描かれているのは四季折々の花々。|現世《うつしよ》では決して同時に咲くことのない色とりどりの乙女たちが肩を並べ、我こそはとばかりに美しさを誇示しつつ、互いを引き立て合っている。一目で一年を感じることができる夢幻の花園。
どれだけ眺めていても飽きることはなかった。仲骨を一本一本数えるようにしてゆっくりと開き、花々が順番に顔を出す様を見るのも楽しかった。開き切る前にあえて閉じることもあったし、顔を出しかけた花をじらすかのように半開きで留めることもあった。その度に自然の|理《ことわり》を支配しているかのような万能感に浸ることができた。
しかし、それも昔の話。今はもう『春夏秋冬』を開くどころか持ち上げる力さえ残っていない。たとえ開くことができたとしても、右目の視力は完全に失われているし、左目の視界はぼやけているので、花々を見ることはできない。
私はじきに死ぬ。
生まれ落ちた時から(ひょっとしたら、母の胎内で微睡んでいた時から?)この身を蝕み続けてきた業病に殺される。
なにも残せず、何者にもなれず、皆に忘れ去られ、泡のように消え果てる。
そう思っていた。
だが、今は違う。
私にも残せるものがある。
呪いだ。
二十余年/百年の間に澱のように溜まったどす黒い思いを……そう、絶望感を、孤独感を、虚無感を、かつて抱いた万能感を以てして『春夏秋冬』に託し、枯れることなき花々に宿らせよう。
この扇子を手にする者よ。汝に禍いあれ! 禍いあれ! 禍いあれ! 汝の味わう苦しみが私のそれの千分の一だとしても構わない。万分の一でも筆舌に尽くし難いものなのだから。
私はじきに死ぬ。
だが、消え果てることはない。
美しき『春夏秋冬』に恐るべき呪いをかけた者として、我が名は永遠に語り継がれるだろう。
◆
「……という曰くつきの代物だ。まあ、じっくりと見てくんな」
烏天狗の行商人が一本の扇子を差し出した。
それを受け取ったのは、女性的な容貌をした白髪の青年。
この万屋『よすか』の店主の|白《つくも》・|琥珀《こはく》である。
「最初の持ち主が死んだ後、こいつは人の手から手へと渡ったんだが、誰かが人間界からこっち側へと持ち込んだもんだから、今度は妖怪の手から手へと渡った。呪いのせいかどうかは判らねえが、歴代の所有者たちは軒並み不幸な目に遭ってるんだとよ。俺も例外じゃねえぜ。こいつを仕入れた直後、女房に逃げられちまったい」
「お気の毒に……」
烏天狗の話に適当な相槌を打ちながら、琥珀は慎重な手つきで扇子を開き、矯めつ眇めつ眺めた。四季の花々が描かれた地紙は経年で変色しているが、それによって渋い味わいが醸し出されている。
(美しいですね)
素直にそう思えた。呪いへの恐れなど湧かなかった。長い年月の間に多くの呪物と接してきた琥珀にとって、呪いというのは忌むべきものではない。
長い年月? そう、外見は二十歳前後といったところだが、琥珀の実年齢は四桁に達している。彼の正体は、先史時代に作られた勾玉の付喪神なのだ。
数千歳の青年は扇子を静かに閉じた。
「気に入りました。買い取らせていただきましょう」
「ありがてえ!」
喜色満面の烏天狗。いや、喜びよりも安堵の色のほうが濃い。呪われた品を早急に手放したかったのだろう(手放したからといって、妻が戻ってくるとは限らないが)。
彼に渡す代金を数えながら、琥珀は尋ねた。
「ところで、この扇子の最初の所有者――呪いをかけた人物の名前はなんと言うのですか?」
「さてね」
烏天狗は肩をすくめた。
「名前までは伝わってねえんだよ」
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功