黒犬と牛鬼
始まりが何だったのか、とっくのとうに忘れてしまった。
「世の中には言って面白いことと、物凄くつまらないことがあると思うのですが!」
「弱いイヌ……違った、動物ほどよく吠えるって本当かなァ?」
売り言葉に買い言葉。口先で終わればまだ良かったものの、導火線の短さと気紛れさがヒートアップした火を消す筈もない。
「むしゃくしゃするので、生きてる方が正論にしません?」
「生きてる方が正論なのは同意しよう。ガンバレ~」
後は、純粋な興味。野分・時雨(初嵐・h00536)の悪癖と、緇・カナト(hellhound・h02325)の執着が産んだ必然の結末だ。
超至近距離から繰り出された牛鬼の蹴りは何時の間に持ち主の手に収まったのか手斧が防いだ。硬い牛の蹄が斧の側面を俄かに削り火花を立てるが、減衰させられた威力で危害を加える事も武器を破壊する事も成し得ない。勢いが完全に死ぬ前に背中から突き出した四本の蜘蛛の足が鋭くカナトに狙いを付けるが、直後に時雨の背を嫌な予感が駆け抜けた。斧を抑える力を跳躍の為の力に変換して人間一人分後退した瞬間に、真上から光を吸い込む程漆黒のギロチンが降ってくる。二本飛んだ。
「貰い損ねた」
「小賢しいな~戦い方って性格出るよね」
地面に刃を突き立てたギロチンはその場に残るでもなく黒い水飛沫をあげて地面に落ちた。影業だ。変幻自在の凶器が何時でも四肢を刈り取る為に狙いを定めている。そこはカナトにとっての武器庫でもあり、武器そのものでもあった。チェーンソーを吐き出した影業は再び影に戻り鳴りを潜め、今か今かと機を待っている。切り落とした脚は影に呑まれた。
「賢しいって褒め言葉だなぁ。戦術は経験から学ぶモノだよ」
「じゃあ先生ィ、容赦して」
三日月を手にした時雨が冗談に嗤う。このまま距離を取られて不利になるのは時雨だ。相性的にもさっさと四肢を制圧するべく地面を蹴る。精霊銃に手を伸ばしたカナトも彼の戦ずる処を理解した。この精霊銃に頼る戦い方は今回出来そうにない。
秒以下の判断が生死を分ける世界だ。爛々と輝く時雨の目は先ず一つ目の獲物として腕を選んだ。カナトと違い、物量を隠す"小賢しい"やり方は時雨には無い。代わりに脅威の脚力を誇る牛鬼の脚と鋭い蜘蛛の脚がある。接近戦からの即時力だけで言えば勝ると言えるだろう。影から表出する一瞬のラグを利用し何らかの形を取る前に曲刀がカナトの腕を捉えた。脂肪と繊維を引き裂いていく抵抗感。鋭い刃だからこそ滑らかに肉を断つ事が出来る。月が空に登る様に振り上げられた刀が黒い血飛沫に塗れてらてらと光った。体から分たれた塊が遥か上方を浮いている。
激痛は判断を鈍らせる。落ちる二つの影を確認したカナトの視界が急速に広がった。一つ目の脚だ。
「あは、見えた」
狐面が割られたと認識した瞬間、世界が光を失った。二つ目の脚だ。
「目ください」
「悪趣味」
視神経の千切れる音がした。本来は音などない。錯覚だ。貫通力が有るからこそ出来る横凪ぎの脚が両の目をまとめて奪う。強烈な痛みが感覚を狂わせるが、タダで済ませる程カナトも優しくはない。
目玉を貫いた蜘蛛の脚は戦利品を主に届ける前にチェーンソーを捨てた手に捕まれた。カナトに視力は無関係だ。直前まで見えていた光景から演算した凡その位置と補完する為の聴覚が空気を動かした音を把握し細い蜘蛛の脚すら捉える。圧し折るのと切り落とすのでは、何方がより激痛を齎すのだろうか。眼窩から不可抗力に黒い涙を溢れさせたカナトが微笑む。
「どっちが痛かったか、後で教えてね」
軋む骨が発した惨い音が言葉尻を遮った。日常生活で聞く事のない音だ。その音を聞いていたのはカナトだけである。音が脳に届くよりも先に激痛を感知して全ての感覚を閉ざした。時雨に残ったのは激痛から来る体の危機警告だけだ。目の前がチカチカと光る。苦痛を噛み殺した。
躊躇いなく時雨へ足裏を添えたカナトがする事は一つ。足で体を抑え付け、蜘蛛の脚を引き抜いた。簡単に取れる様な代物ではない。激しい抵抗感をカナトの掌に訴えるが、本人は顔色一つ変えずに力を入れ続けた。伸縮性のある筋肉が限界まで延ばされ千切れていく。
激痛の最中で振り被った絹索は空を切った。一仕事終えたカナトが避けれるだけの距離を開け蜘蛛の脚を片手で弄ぶ。捨てた。
「こんな小さい可愛い子ボコボコにして心が痛まないんですか。良心は産道に置いてきたの?」
既に半数の手足を失いつつある時雨が喋る。状態に反して段々調子が上がって来たのか、終始こんな感じだ。口からは言葉が溢れ息が上がる様子もない。口の端が釣り上がって死合いだというのに楽しそうな気配すらある。
一方のカナトも似たようなもので、方向性は違えど目の前の獲物の一挙手一投足に強い興味がある。見えないのが非常に残念ではあるが、漂う空気感は嗅覚を通して伝わって来た。
「……そろそろ」
「ん?」
空気の裂ける音がする。上だ。影二つ。飛ばされた腕と同じく打ち上がった影業の一部が黒い大鎌に変じ時雨の直上で孤を描いている。切断された腕はすでに落下していたものの、武器は未だ宙に存在していたのだ。影業が黒い体液に紛れて融合していたのはとうに昔。腕を飛ばされながらも付随させた影が妙な黒い物質へと変化し大鎌の形を取っていた。変化の途中は空気抵抗を強め落下速度を低減し、いざと云うタイミングで変異する。能力ならではの使い方だ。
気付いて時雨が回避行動を取るも遅く、空間を捻じ曲げて引き寄せる力は既に発動していた。微妙なズレ。片腕を喪ったままのカナトが残った腕で時雨の脚に爪を立て位置を調整した。より正確に牛の脚を切り落とす為、引き寄せた鎌で残った片手諸共落とす。自在に空間を操れる程の自由さはないが故の犠牲だが、この程度は肉を切らせて骨を切るのと同等だ。互いの血が混じり合って地面を穢す。
一呼吸の間。
「痛すぎて気絶もできない。ぼく五体満足にある?」
「口減らないね。首落としに切り替えよっカナ」
一本ずつ残った蜘蛛と牛の脚で器用に立つ時雨はまだやる気に満ちている。霊力の防護が多少は傷口をカバーしているらしい。先ほどの不意打ちにも恩恵があった。無痛になる訳ではないので、痛いものは痛いのだが。
カナトの両腕からは朱色を喪った血が垂れ落ち止まらない。出血量で言えばまだ時雨の方が優勢か。しかし次の予測がつかないという点でかなり厄介な敵である事に変わりはないだろう。
一瞬のふらつきを見逃してあげる程、互いに戦いを忘れてはいなかった。エネルギーを体に巡らせる為の潤滑油を喪えば、その分体の自由度も下がり隙も出やすくなる。カナトの足が半歩分ズレた。
体勢を崩しながらも片足で地を蹴った時雨が側転の要領で手を脚代わりにして体を浮かせる。不格好ながらもリーチが伸びた蜘蛛の脚が、十分に後退出来なかったカナトの胴を貫いた。衣類の皺が渦巻き状を描いているのは、蜘蛛の脚が螺旋を描く動きで確実に肉を貫く様に伸ばされたからだ。皮を破り肉を食い、内臓を貫き、背面まで到達する。血に紛れて溢れた固形物が僅かに地面を汚した。
戦意を削ぐ戦法は大抵の相手には有効だったが、今回は相手が悪かった。戦闘狂にも負けないレベルで興奮している男には徹底的に叩き潰す方が合っていたのかもしれない。いや、そもそもこの展開になった時点でという話でもある。カナトにもある種収穫はあったのでお互い様なのだが。
「人肌恋しい寂しがり屋さんなもので。くっつきたくなっちゃいました」
「この……」
気道を逆流した黒血が言葉を遮る。呑み込めなかった空気が血潮と共に口腔から吐き出された。粘着いたインクの様な液体が点々と軌跡を描く。勢いそのまま地面に投げ出された二人は錐揉みになりながら減速し、泥まみれになりながらやがて停止する。
身体を起こしたのは時雨だった。カナトは停止した体勢のまま微動だにしない。
「はあー……楽しかった、」
ですね、という声は途中で消えた。
瞬きの間の出来事だった。もしカナトに目が残っていたなら、視線の動きで予測出来たのかもしれない。予備動作なしに既に仕込んでいたカナトの蘇生が発動し、怪人のエネルギーが体中を巡回し始めて直ぐに宣言通り首を狙った。立ち上がれないままでいた時雨の首は通常時よりも地面に近く、影業が到達する距離は近い。変に武器の形を取るのではなく、人体を傷付けるには充分な尤も純粋で最適化された薄い紙状の刃が時雨の首を切断する。
切れたのは、狙いの半分だけだった。代わりにインビジブルが弾ける音を立てて元々時雨がいた場所に漂っている。薄い形状の影業は霊力弾によって破壊されたが、触れたものという制約のお陰かカナトに被害はない。目の前にいた筈の気配が消えた事で混乱が起こるが、嗅覚は直ぐに時雨の居場所を知らせた。
時雨はと言えば、私雨を使ってカナトの後方へと転移していた。窮地に陥るまではと温存していた力が此処に来て役立った。完全に分断されていなければ猶予がある。切られた喉からは血が溢れ、見るからに命を消耗していく。同時に声帯も機能を破壊され、お喋りの口が強制的に閉ざされた。文句の一つも届かない。
影とも血液とも取れない黒い塊がカナトの腕を再構築し蘇生を完了させた。
「……!……!」
凡そ狡いだとかボケナスだとか吐く時雨の声はひゅうひゅうと空気の出入りに取って代わる。
「ねぇねぇ妖怪クン。人間じゃない生きものって此の程度なの?」
そう煽ったカナトに反論すべくふらつき立ち上がった時雨の耳に、場に似つかわしくない音が響いた。
ぐう。
「……」
「……」
そういえば何を食べるかみたいな話をしていた気がするし、怪人の燃費の悪さが此処に来て存在を主張している。こめかみに指先を当てたカナトはひらりと両手を挙げた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功