無闇
忘れようとする力を慈悲としたならば、これは神による無慈悲であった。
粘つくかのように、こびりついた、消失すらも赦されない。
――現実に向けての布告であった。
あらゆる地球の神が――庇護されている彼等彼女等が――覚醒の世界について、完全に把握する事など難しい。いや、おそらくだが、難しいのではなく、不可能と言の葉にして終った方が彼等彼女等にとっても都合がいいに違いない。外面だけを見て、皮膚だけを見て、中身を決して覗こうとしない、暴こうとしない姿勢こそがある種の慈悲とも考えられよう。されど、時折、地球の神々は外なる何者か、力ある旧支配者どもの目の玉を盗んで『寵愛』の二文字を揮おうと試みる。その、ひどい気紛れこそが、より凄まじい、おぞましい――力あるものどもの『気紛れ』に発生する可能性が『ある』のだ。過去、現在、未来において、悉くは『無』の掌の上であり、『闇』の胎においては――総てを落とす為の戯れをする筈だ。これを詐欺師の所業だと、静電気のような幻だと、嘲笑ってくれる事こそが人類の為とも解せるのだが。嗚呼、残酷な事に――夢の世界においては、一切合切が真実である。何せ、夢を見ているのだ。夢を見ているのだから、触れている本人にとっては、邪悪だろうと、善良であろうと――その結果は同じなのだ。たとえば、時と神々について言及した者によると、森羅万象は最も旧く、最も強烈な『神』の見ている『もの』なのだと。
何度目だろうか。いったい、何度、目を回してしまったのだろうか。いや、今回、目を回してしまった原因は物理的な『それ』ではないのだが、しかし、言の葉の意味としては間違っていない。確か、私は筆舌に尽くし難い何かに跨った、ひとつの『悪夢』を見た結果、気が遠くなってしまったのだ。だが、それにしても、随分と早い目覚めなのではないだろうか。ぱちくり、瞬いてみたら自分がまったく見知らぬ場所に存在している事に気付くだろう。私は、そう。私は……所謂、喫茶店のような場所で、情念に塗れた空間で働いていた筈である。ああ、それならば、何故に……こんなにも真っ暗いところに、ぽつんと、立っているのだろう。まだ、眩暈にやられているのか、身体がぐらりと傾いて――頭から、墜ちる破目になった。これは比喩ではない。私は、身体をしこたま打ちつけ、ひどく長い階段を転がり落ちてしまったのだ。ああ、いたい。いたくて、頭がぐるぐるして、もう、自分が何処に存在しているのかもわからない。ようやく身体が止まった。止まったとして、如何して、ただの人間である私が起き上がれようか。上下左右すらも不明な儘、洗濯をされた靴下のような、そんな状態の儘、黄金色の蜂蜜のような泥濘へと魂を投げ出す。
気紛れが齎したものは――|無名の霧《マグヌム・インノミナンドゥム》と|闇《マグヌム・テネブロスム》が齎したものは――ナグとイェブだけに非ず。無と人間の戯れ、闇と人間との戯れ、そのふたつに関しては最早、説明の必要もないだろう。そう、つまり、簡潔に描写してしまえば、より血の濃厚な『もの』が人間のカタチをして落とされてしまったのだ。これが気紛れの正体であり――人類が絶対に暴いてはいけない、その中の『一』であった。それは怪物である。それは災厄である。それは人間である。そう、数多の人間から見た場合、それは怪物、災厄の類なのだが、しかし、それには人間的な精神と謂うものまで宿ってしまったのだ。堕落こそが人間の道なのであれば、情念こそが人間の種なのであれば、確りと、それは人間と呼ばれる|矮小《もの》から離れる事など出来はしない。何処かの兄弟めいて、何処かの化身めいて――獣に食い殺される未来だけはないのだが、故に哀れにも思えた。
結局のところ、世界が私に対して厳しいのは、愛情の裏返しなのかもしれない、そうやって自分に言い聞かせる事しか出来なかった。私は何処まで行っても、彼方まで行っても、残念な人間であり、ただの女でしかないと痛感せざるを得なかった。もう、目が回るという言の葉だけでぐるぐるしそうになった頃、私は――何者かの『影』を認める事となった。いや、果たしてあれは人影なのだろうか。影と謂うものは光がなければ『出来ない』筈である。ならば、光があまりにも『無い』この状況下で、影として……『闇』として、認識出来ている何者かはいったい『なに』なのだろうか。強烈な嫌な予感と病的な好奇心に支配され、私は蛇に睨まれた蛙のように硬直する以外になくなった。……あの、あなたは、誰でしょうか。誰かって? そんな事をわざわざ、如何して、私は訊ねる事となったのか。嗚呼、私は常に巻き込まれてきた。私は常に餌の側であった。ならば、目の前の『無』と『闇』が何を模っているのかくらいは『わかっている』筈である。あの……えっと、あなたは……もしかして、迷子さんでしょうか? 迷子。そう、迷子に違いない。私と同じように、転がり落ちて、目を回して、途方に暮れているだけの、迷子な少年か少女に違いない! 私は満月……立川・満月です。あなたの名前は――? わからない。わかるものか。わかってはいけないのだ。
窮極の門を潜る為に必要なものが『鍵』であるのならば、彼方へと投身する為に必要なものが『資格』であるのならば、それを躍起になって求むるのが人の罪とも考えられよう。覗き込んだ者はおそらく、飛び込んだ者はおそらく、自分自身の事すらも曖昧になってしまうに違いない。それは胎より門へと飛び出して――不意に墜ちて――本来の自分とやらを|混沌《カオス》とされてしまったのだ。気紛れが生み出した、孕んだ、この慈悲深い中途半端さこそが人間災厄たる所以とも謂えるだろう。|混沌《ナイアルラトホテップ》曰く――このような玩具を意識せずに、何も考えずに、造り出すとは。これが本当の『無闇』であろうか。哄笑が響いている。嘲笑が蔓延している。地球の神々が沈黙し、見ないふりを、聞こえないふりをしながら――これを、夢の世界の住人への警鐘とした。
ぼとりと、くらりと、眩暈を覚えているのは――目の前に落ちてきた『これ』も同じだ。何事かを喚いてはいるのだが、何事かと騒いではいるのだが、生憎と、今の『ぼく』には何もかもが『えさ』にしか見えない。朦朧としている、フワフワとしている、度し難い意識を如何にか振り絞って『警告』をしようと試みた。だが、口から出てくるのは――身体から溢れ出てくるのは、情け容赦のない『ほのお』めいた慾であった。ぼくは腹が減っている。腹も減ってはいるのだが、それ以上に、真っ黒い山羊の部分が、|魔羅《パン》の部分が喧しい。どくん、どくんと、怒っている、爆発しそうなほどの『無闇』な衝動。意識しているのと同時に無意識をしている。ゆらりと、怪物らしく、人間災厄らしく、可愛らしい『もの』を蹂躙せんと……凌辱せんと……迫る事となった。聞こえる。目の前の『もの』の恐怖だ。恐怖の中に諦めの心も存在しているのだろう。ああ、だが、ぼくはもう――欠片としての躊躇すらも抱けやしないのだ。感情が引っ張られている。感情が、本能に引っ張られている。壊したい、吐き出したい、啜りたい、舐りたい、喰らい尽くしたい……。目が回っているのだ。目が回って仕方がないのだから、これをやるのは、繋ぐ為にも必要な……!
嫌な予感はしていた。今までの経験から、よくない事が起きるかも、とは予想していた。それでも私は如何やら、私の嫌な予感こそが『気の所為』なのだと、心の何処かで願っていたのかもしれない。目の前の『彼』が私と同じような境遇であれ、と、祈ったのもむなしく。私の眼球に映り込んだのは……いっそ、目を回してしまえたら、良かったのに……無数の触手である。……な、なにを……私に、なにを……期待しているのでしょうか。冷静ではない。極めて、パニックに陥ってはいるのだが、だからこそ突き放すかのような言の葉を口にしてしまった。答えはない。答えはないけれども、応えてはくれた。触手が私の身体を――四肢を――がっちりと拘束してくる。ああ、いやだ。こんな事になるなら、もう少し、美味しいものを食べておけば良かった。予測は出来ている。想像は出来ている。きっと私は、この、人間のような怪物に、人間災厄に、蹂躙をされてしまうのだろう。あの……せめて、痛くなかったら、良いんだけど……??? 私は最初理解が出来なかった。私がどのような状態か把握する事すらも出来なかった。それにしても、本当に、生物的な災厄なのではないか。私は……ああ、私は、如何して……私の大切なところを、莫迦みたいに露出させられている。視線を下に向けたならば哀れな作業着。塵となった『それ』を縫うようにして新たな触手がやってくる。違う。これは触手ではない。触手だったならば、まだ、マシなのだ。……こないで……いや……こないでよ……。ぶちぶちと、みちみちと、痛みと共に何かしらの破れた音。……そんな、そんな。わたし……それだけは……。悲鳴を上げているのは臓腑だろうか。或いは、己の精神だろうか。何方も、だ。何方も、大切にしてきた、如何にか守り続けてきた『もの』だったのだ。私は……私は……どうして、いつも、こんな目に……! 明らかにおかしなサイズ感だ。ぼこ、ぼこ、と、臓腑を抉るように這入ってくる。這入って来たならば、そのまま上下に、臓腑が壊れるほどの勢いでやってくる。そうして、熱いものが……途轍もなく、人間ではない熱いものが――山羊の体液のように、球体の中身のように、はじけて、届けられる。……あ……ぁ……わたし……たすけて……おとうさん……おかあさん……。父親も母親も似たようなものだ。|魔皇《ダイモーン=スルタン》の枕元で救いを求める。如何して藁に縋らなかったのか、如何して盲目で白痴なる『もの』に縋ったのか。その所以については最早――神で在ろうとも、知る由などない。
ぼとり、拘束が緩まった。膨れ上がった胎を……臓腑を……そのままに、餌はヒクヒクと痙攣するだけ。性欲を消化してしまえば、吐き尽くしてしまえば、あとは、違う慾に手を伸ばすのが作法とも謂えよう。餌はもう逃げようともしていない。逃げる事すらも頭に『ない』のであればじっくりと愉しむ事だって容易だろう。人間災厄「無闇」は不可視の何かしらを以て――取り敢えず――餌の腕部分を『傷つける』事にした。其処に舌を這わせて『味』を確かめると……ぐう、と、肚が鳴っている事に意識を向ける。ああ、満たしたい。吐き出したのだから、満たすべきだ。そうだ、折角『開通』したのだから、其処から嗜むのが正解なのではないだろうか。拘束していた触手を今度は『うしろ』から、遊ばせるように。それが一番美味なのだ。それが、一番、柔らかいのだ。スパゲッティには、そう、ソースの類など要らないのだ。ずるずる、ずるずる、引き摺り出してやるのがよろしい、素晴らしい。刹那だけ、瞬間だけ、餌の目玉に絶望が表れたが……その絶望とやらだって、大した時間も経たずに失せるのだろう。美味だ。ああ、美味だ。口腔を、胃袋を、餓えを――渇きを、満たす為には丁度いい――良質な――ひどく珍しくなった、人間の味わい方! ぼくはやりたかった。ぼくは食べたかった。ウムル・ヴォイドは……こういうものだった!
ひどく目を回していた所為だ。ひどく、眩暈にやられた所為だ。びっちょりとした身体を起こして、未だに振盪している中、さまよう。私は……何が……どうして、こんな……。わからない。気絶をしていた事は、なんとなくわかる。だけれど、こんなにも、濡れているのは如何してなのだろうか。……シャワーでも浴びようかな……。ふと、思い出した。思い出してしまった。私は……そう、夢の中で……無闇矢鱈にされてしまったのだ。覚えている。憶えてしまっている。私は、人間災厄のような、落胤のような、何かしらに、やられたり、喰われたりとしたのだ。……黙っていよう。私は、まだ、狂いたくもないし、死にたくもない。いや、もちろん、私は既に正気ではないのかもしれないけれど……。
――もぞり。
身体は動いた。
身体は動いたが、瞼が重たい。
寝返りを打つようにして、転がって、落ちる。
――ガシャンっ!
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