崩壊星は夜明けに消える
崩れた星は何も残さぬ。残さぬどころか全てを道連れとするが如くに、光さえ飲み込む暗黒となる。かつて宇宙を照らした星々、元の輝きが強ければ強いほど、成り代わった暗黒は暗さ深さを増すばかり。
『人間災厄「Collapsar」』はそんな崩壊星に由来する名前だと、いつか誰かが教えてくれた。それを聞いた日の夜に見た夢をノー・ネィムは忘れない。
暗い、暗い夢だった。それは月も星もない夜よりも尚一層に真っ暗で、闇を探らんと伸ばした己の指先さえも見えぬほど。正しく一寸先は闇だった。まるで己のようだとネィムは思ったものである。己が生まれて来た闇はきっと斯様に暗かった。
それと同じ暗闇の中を今、ネィムは揺蕩っている。見えずとも足が地面を踏むことは辛うじて解るから、歩いている、と言うのが恐らく正しいのだろう。だが、瞳を開いているのか否かも解らぬほどの闇の中、平衡感覚もろくに保てずふらふらと彷徨う内に、歩いているのか揺蕩っているのか解らなくなってくるのもまた事実。徐々に疲れて来た足にかかる重力を無意識に減じていることも原因か。
兎も角ネィムは歩き続ける。歩き続ければいつかは光に辿りつけると信じて、或いはそうだと夢を見て。いつか見た夢の中ではそうだった。だが、此度の闇には明けがない。永遠に暗闇が続いている様な気がし始めて、徐々に心細くなって来る。
「あるくの、つかれたのです」
心細さを誤魔化す様に、ぽつり、声に出してみる。孤独な呟きは闇に溶けた。
「いま、なんじですか? 誰か、いますですか?」
返事があろう筈もない。闇は沈黙を湛えたままだ。
静けさに意識を向けたところで、ふと、唐突に眠気を覚えた。思い出したとも言うべきか。
「おやすみなさい」
暗闇に一声かけて眠りに落ちる。
やがてどれほど時が経ってか、瞳を開いた確信はなくも目が覚めたことを解るのは、視界が再び闇であるが故。夢の中では存在していた筈の色彩が消え、黒が視界を支配するが故。
「おはよう。だれかいますか?」
そこには誰も居ないらしい、闇は答えぬ。予想していたことである。ネィムは再び歩き始めた。歩いて歩いて、歩くうちに飽きてしまって、スキップしたりジャンプをしたり、気分を変えることを試みながら何とか進み続ける。幾ら過ごしてもこの闇は何処か恐ろしく、この場に居たくないと思った。故に進み続けなければならないと、恐怖に突き動かされるままに歩き続ける。そうして疲れて眠りに落ちてはまた目覚めて、その度にヒトの真似をして律儀におやすみとおはようだけは欠かさない。そんなことを幾度繰り返したか。
「おはよう。だれか――」
「おはよう」
闇からついに返事があった。濃すぎる闇は気配すら飲み込むものか、近くに誰かがいることにネィムはその声を聞くまで気付かなかった。だが、近くに誰か居ると言う事実にどうしようもなく心が逸る。
「だれか、そこにいるのですか?」
勢い込んで闇に問う。
「いるよ」
闇が答えた。
「ここはまっくらで、我にはおまえさまのすがたがみえません」
「そうだね。みえないね」
「おまえさまもここでまよっているのですか? いっしょにでぐちをさがしませんか?」
「もちろん。いっしょに、さがそう」
ネィムの言葉に声の主も嬉しげに答えて、二人、歩き出す。並んで歩く声が、足音があることが、ネィムにはどうしようもなく嬉しかった。
「すきなたべものとか、ありますか?」
暗闇を共に往く相手はどんな人だろう、気になってネィムは無難な問いを投げてみる。
「りんごがすき」
「わぁ!我もだいすきです」
「あかくてかわいくて、おいしいよね」
「えっ。我もおなじりゆうでりんごがすきです」
隣の誰かが告げたのはまさにネィムが好きな食べ物で、好きな理由まで同じだ。もしかすると気が合う相手かもしれない。嬉しくなったネィムは問いを重ねる。
「じゃあ、すきなもの、ありますか?」
「うん、お星さまがすき」
「それもいっしょ!」
思わず少し大きな声が出た。驚いたのだ。迎合している訳でなく、心の底から本音であった。夜空からきらきらと照らしてくれる星々を嫌いな人は居ないだろうとネィムは思う一方で、世界には他にも素敵なものが沢山あると本で読んで知っている。故に好きなものとして真っ先に星を上げる人はきっと多くはないだろうとも解るから、この偶然はネィムにとって得難い幸運に思われた。
「おまえさまとは気が合うかもしれません。我ね、いつか海をみてみたいのですよ」
「いっしょだね、海、みてみたい」
「ほんとう!? じゃあ、いつかいっしょに海をみましょう」
「うん。いいね」
嗚呼、やはりそうだ。何もかもがぴったりだ。この誰かとはきっととびきり仲の良い友達になれるかもしれない。先まで逃げ出したい一心だったこの暗闇が、今は未来の友と出会えたとても幸せな場所に思えた。もしかすると近い将来、二人で懐かしく思い出すことになるかもしれない。傍らの誰かの足音を聞きながら一緒に歩く時間が特別で尊いものに思われて、足音を重ねながら、ネィムはほんの少しだけ歩幅を狭める。まだ、この時間を続けていたい。まだ、この誰かと話していたい。暗闇の出口が見つからないで、二人でずっと歩いていられれば良いのにとすら思う。
そしてふと気づく。この未来の友人のことを、ネィムととびきり気が合うと言うこと以外ネィムはまだ何も知らない。彼女が何処から来たのかも、名前も、顔も、何も。
「ね、おまえさまの名前は―――」
尋ねようとした刹那、周囲が俄かに明度を増した。視界の四隅からじわりと広がる様にして、ゆっくり、ゆっくりと、世界が光を帯びてゆく。待ち望んでいた筈の光をネィムは何故だか喜べない。徐々に明るみになる視界はじわりじわりと這い寄る不安を連れて来た。
目の前の誰かが先のネィムの問いに答える。
「「ネィム」」
名状しがたい嫌な予感は、ネィムの形で像を結んだ。そうして完全に辺りに光が満ちると共に、溶ける様にして掻き消えた。
「待っ——」
伸ばそうとした手が虚空を掻いた。虚無だ。そこには何もない。否、最初からなかったのだろうか? あんなに楽しいお喋りは、心を通わせた時間は、未来の友達は、全てネィムの願望が生んだ虚構だったか。
震える指先を誤魔化す様に、下ろして拳を強く握った。肩が震えて、それを自覚した途端に泣きたくなって来て、居ても立っても居られずにネィムは光の中を走り出す。何処へ向かっているのかも、何処に行きたいのかも解らない。ただ、この場に居たくなかった。全力で駆け出したものだから、歩き疲れた筈の足が痛むより先に息が上がる。苦しいのに、辛いのに、その感覚を味わう間は何も考えなくて済む様な気がして、立ち止まることへの恐怖がネィムの足を動かした。足を止めればそこに落ちている絶望を拾うことになる。
それでも限界は訪れる。最早まともに息が出来ないで、流石に走り続ける方が苦しい。歩いてしまおうか、いっそ立ち止まってしまおうか、そんな思考が脳裏にちらつき出した折、目の前に現れたものは白い扉だ。光の中にぽつりと立つそれが、今のネィムには何処か救いと映る。縋る様にして真鍮のドアノブを両手で回し、開いた扉を勢いよく潜れば、足元の地面がそこにない。
落ちる様にして一回転した次の瞬間、半ば叩きつけられる様にしてネィムはアスファルトの上に居た。転んだネィムの目の前を磨かれた革靴が、高いヒールが通り過ぎてゆく。慌てて立ち上がりながら、ここがどこかの√の街の雑踏の中であるらしいことをネィムは知った。こんな邪魔な場所に突然現れたと言うのに誰もネィムのことを気にした様子はなく、ただ足早にどこかに向かって行くのだが、今のネィムにはそれはどうでも良いことだ。同じ空間に自分以外の誰かが存在することに途方もない程の安堵がある。
「あ、あの……」
近くに居たヒトに声を掛けたが、振り向かないで行ってしまった。ネィムは僅かに面食らうも、聞こえなかったのだろうと考えて別のヒトへと今度は僅かに声を張る。
「すみません!我は、ききたいこと、が……」
徐々にその声が消え行ったのは、最後まで聞いて貰えずにその背を見送る形になった為。それでもネィムは諦めない。三度目の正直とばかりに今度は歩いて来た人の行く手を遮る様に前に割り込み、声をかけてみる。
「あのっ!すみません。我の、はな……し……」
二度あることは三度ある。今度のヒトも駄目だった。
誰もネィムを振り向かない。邪魔な石ころにだってヒトはもう少し何かの感情やせめて視線を向けるのに、辺りを行き交う誰ひとりネィムには視線のひとつ寄越さない。
「だれか、おねがい。我のはなしをきいて……」
石ころ未満だ。彼らにとってネィムは瞳に映らない、存在しないものである。そうと気づいた瞬間に、ヒトの存在に覚えた安堵が全て裏返る。誰にも見つけてもらえない暗闇の中でひとりでいる方が、よほどましではなかったか。
白日の下、沢山のヒトが居ながら、誰ひとりネィムのことを見てくれない。ネィムのことだけ、見つけてくれない。ネィムひとりが誰の瞳にも映らない。
致し方ない。末期の光も消えた後には崩壊星は夜空に何も残さずに、二度と誰の目に映ることもない。
「おねがい、おねがい……だれか……」
ネィムの言葉は誰にも届かない。
ふわりと意識が浮上して、眠い目で酷く疎らな町の灯を見た。町を見下ろす小さな丘のベンチの上、お気に入りのその場所でネィムは寝入って居たらしい。見慣れた景色に、東の空から夜明けが迫る。それを見つめた視界が滲んで、頬を伝った生暖かい雫をネィムは拭うことすら出来ないで居る。
嫌な夢を見た。あれは夢だ。夢だと解って居ると言うのに、喉にこみ上げてくるものを、溢れる涙をネィムは止められない。黒く粧った肌の上、銀の星屑のそばかすを溶かして真珠の様な涙が転がり落ちる。珠だった涙が線となる頃には化粧を流して、無色透明なネィムの本質を暴いてゆく。曝け出す、と言うのも違う。透明人間、化粧なくしては誰の目に晒す姿もネィムは持たぬのだ。
「……ひぐっ。うっ。うぅ……ッ。」
喉の奥から振れる嗚咽を止められない。
どうしようもなく孤独だった。どうしようもなく独りだった。だが、町に降りてゆく気にもなれない。もしも夢の中でのように誰もネィムを見つけてくれなかったら、そんな恐怖が心の奥底から音もなく湧き上がって来る。それを否定しようとすればするほど恐怖の輪郭は鮮明になる。目を逸らそうとすればするほど、質量を増した恐怖に呑まれてしまいそうになる。泣けば泣くほど化粧が崩れて姿が消えて、夢の恐怖が現実に近づいて来る様な気がしてネィムは慌てて涙を拭う。今更拭えば拭うほど尚一層に化粧を崩したその顔を透かすばかりで、焦りが余計に涙を呼んだ。
東の空でネィムの好きな明けの明星が輝いている。微睡みから覚める前の世界への祝福の様なその光を、化粧を溶かして顔を透かしたネィムだけが浴びられぬ。己の存在を確かめる様に己の肩を抱きしめながら、ネィムは嗚咽し続ける。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功