シナリオ

悪魔の涙は甘く香りて

#√汎神解剖機関 #ノベル #悪夢

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「お前は人間じゃない」
 古い記憶だ。告げたのは居並ぶ白衣の内の一人、そのどれも顔などろくに覚えてないが、銀縁の眼鏡をかけた男だったか。淡々と語って聞かせた内容は子どもの頭には無駄に小難しく冗長で、ろくに理解は出来なかったが、ただ己には魔の血が入っていることと、それが非凡で不穏であるらしいと言うことだけを幼いルイ・ミサは記憶した。それを受けて何を考え、どう感じたかは覚えない。白衣どもの肩の向こうの壁に掛かった楕円の鏡の端に映った自分の顔半分、酷く不安な表情をしていたことだけやけに鮮明に記憶している。

 鏡。鏡だ。気付けば白衣の連中は影も形も消えていて、ルイ・ミサひとりのその円形の部屋の壁にはやたらと鏡ばかりが掛けられていた。楕円に真円、方形、八角、縦長の姿見、無数の鏡が節操もなく、部屋の中央を、ルイ・ミサの方を向いている。否応なしに視界に入って来る鏡面、右と左と斜め、正面、四方八方から己を見つめてくる己の姿が、容貌も表情も何もが全て異なっていて、本当の自分がどの姿なのか解らない。思わず自分の身体を見下ろし、己の顔に手で触れてその存在を確かめれど、何かの確証を得るにはまるで至らない。
 鏡のひとつ、肖像画めいて思える重厚な金縁のなかで、挑発的な装いで白い肌を晒す女が、紅い唇、赤い口腔を見せて嗤った。
「お前は、そういうものだろう?」

 赤が、視界に垂れて来た。生温い、生臭い、それが血だと理解するのに少しかかった。それからこの今己に凭れ掛っている重さと体温が、これまで唯一自分に優しく接してくれた女のそれであることを、鼻先に触れた大好きなフローラルノートの香で気付く。
「美、沙……?」
「よかった、無事なのね——」
 『儀式』をしようとしていた筈だ。覚悟を決めてその場に臨み、だが、半ばから定かな記憶がない。懸命に思い起こしたのは落丁だらけのコマ送りめいて飛び飛びの場面諸々。儀式の途中で力の暴走を抑え込めなくなったルイ・ミサを、組織の人間がやむを得ず始末しようと銃器を向けたところまで思い出す。
「大丈夫よ。あなたを傷つけさせないわ」
 血塗れの美沙が、微かに笑んだ。己が元凶でありながら彼女が身を挺して守ってくれたからこそ己が無傷でいる事実。ルイ・ミサは彼女にかける言葉が見当たらず、ただ血濡れた手を握る。そうしてそれに応える様に握り返してくれようとしたその手から力が抜ける瞬間を、ただ、呆然と眺めることしか出来ないで居る。その刹那、
「誰も、お前を愛していないよ」
 甘い、フローラルノートよりなお甘く濃厚に絡みつく香り。たとえば爛熟しきって朽ち落ちる間際の果実は、斯く甘ったるく香るだろうか。耳元で囁いた声もまたその香に負けず劣らず甘やかに危険な香りを秘めている。呆気に取られるルイ・ミサを、管理担当の青年が昏い瞳で見つめていた。

「これだけは言わせてくれ。美沙が命がけで守ったから、お前を生かしている」
 暗い酒場の対座より、瑠衣は底冷える様な昏い瞳でルイ・ミサのことを見つめて告げた。その瞳に、声に、まるで射抜かれでもしたかの様に、蛇に睨まれた蛙の心地だ。カトラリーを持った両手をルイ・ミサは動かせない。動かし方を忘れてしまう。
「それ以上でも、以下でもない。お前は俺にとって『管理対象』以上の意味を持たない」
 管理する者とされる者との関係を超え、美沙と一緒にまるで妹か年下の友かの様に可愛がってくれた青年の言葉をルイ・ミサは咀嚼出来ない。咀嚼は出来ても飲み下せない。己が美沙を死なせたのだから、その恋人である彼に恨まれるのは至当であろう。だがそれを認めてしまうことは、己が美沙を殺した事実を受け入れることは、頭では理解しながらも今も出来ないままで居る。己の咎への重圧よりも、己を愛してくれる存在がこの世界に何ひとつないと言う事実。
 異端たる者の宿命か。求めれば求めるほどに世界に爪弾きにされる。ひとり彷徨う闇の中、伸ばす手に応える様に柔らかく抱きしめてくれる存在。
「欲望の中に堕とせばいい」
 その通りだ、と何故か不思議と合点が行った。そして認めた相手の姿は人ならぬなにか黒い影。

 影が揺れる。己の上に御幣が落とす影を、無機質な台の上に拘束されたルイ・ミサは見た。神主めいた何かが垂れ流す祝詞と言うよりは呪術めいた詠唱を聴く。ぐるり周囲を取り囲む浄衣と白衣たち、その向こうに神式の祭壇。捧げ持つ様に運ばれて来た『神』の一部は此度は核と呼ばれるもので、大粒の黒い真珠に似た。胸元に置かれた神の核、詠唱が進むにつれて触手の様に血管を伸ばして白い肌に根を張る。機関の者らが魔術的な移植だと言い張るそれはまるで寄生だ。侵食だ。漏れる悲鳴を噛み殺せない。
「失敗か?」
「まだわからない」
 涙で酷く滲んだ視界の中、聴きながら、意識が遠退いて行く。

 視界が滲む。ルイ・ミサは泣きながら駆けている。もう幾度この夢を見ただろう。長い廊下は無限の迷い路、どう辿ってもどの扉を開けてもそこはルイ・ミサが逃げ出して来た実験室だ。悲鳴を上げて踵を返して逆行した先で開く扉もまた然り。悪夢の夢路を逃れられない。やがて這い上がる様に無数の影の手がルイ・ミサの足を捕らえて絡み付いて来る。嗚呼、もう走れない。
「お前は、ここにいるべきだ」
 そうかもしれない。そうすれば何処にも行かなくても良いし、何も考えなくても良い。囁く声に頷いて思考を放棄しようとするのに、何故だろう。
 息が詰まる程の恐怖、そして後から追いついてくる諦念。

 息が詰まる程に濃い薬剤の匂いがいつもこの部屋には満ちている。整然と立ち並ぶ棚に無数の硝子の瓶が並べられていて、満ちた透明な液体の中に人体の様々な部位が浮いている。番号で個体を識別されるそれらはルイ・ミサと同じ半魔だったものの成れの果て。
「お前たちは抗えなかった?」
 ルイ・ミサは彼らの名を知らない。顔くらいは知っている者も居たとて、当然、兄や姉などと呼ぶ様な関係ではない。それでも偶にこの場所を訪れるのは何故だろう。悼む為ではない気がした。
「……悪魔なのに?」
肉片たちは答えない。瓶の中で微睡むそれらは悪魔と呼ぶには滑稽なほど、小さくて無力だった。
 嗚呼、無力。それは己もか。暗転した視界の中でルイ・ミサは噛み締める。
 何かの気配に顔を上げれば、目の前には自分と同じ顔をした何者か。悪魔の翼と角、尻尾──そして何より艶然と、それは何処までも「女」であった。それが「なり得るかもしれない己」だと第六感が告げている。無力な今の己とは違う、己の為の救世主。
「逃げよう?」
 優しい声を聴いた刹那に溢れた涙。甘く香って頬を濡らしたそれを、伸ばされた指先が拭いてくれた。

 涙で頬が濡れていた。悲鳴混じりに飛び起きたルイ・ミサは、か細い指先でそれを拭って、震える唇を噛み締める。嗚咽を殺すためだった。今唇を開いたなら、少しの声を漏らしたなら、そのまま声を上げて泣き出してしまう様な気がした。
 手探りで枕元の硝子の小瓶を手にして、両手で握りしめる。幼い頃に衝動的にあの部屋から盗み出したそれはルイ・ミサにとっての恐怖の象徴。
「私は違う……私は、悪魔だから」
 なり損なった彼らの様にこの瓶に揺蕩う様な末路は絶対辿らない。己に言い聞かせる様に呟いて、強気と虚勢で己を鎧い、ルイ・ミサはいつも通りの金曜の朝を始める。
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​ 成功

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