『黄昏の研究棟』
ガラス越しに見る薄暮の空はまるで滲む血のような赤と灰色の混じり合い。街路に漂う倦怠感は、黄昏を迎えた人類そのものを映しているようだ。|月野・陽翔《つきの はると》は薄汚れた研究棟の一室で、眼前に拘束された「怪異」を見つめていた。
「君たち人類は本当にしぶといね」
銀髪の男――名乗るに|神宮寺・律《じんぐうじ りつ》は、かすかな微笑みを浮かべながらそう言った。拘束衣に包まれたその姿はどこか神々しくもある。
人類の延命を目的とした汎神解剖機関。最新の『捕獲体』である目前の男は、呑気に欠伸をして上手く身動きの取れない体を捩る。
これが人類の希望。人の形をした怪物、災厄。眼の前に突きつけられている現実の光景は、あの空よりもずっと薄暗く感じる。
「お前みたいな奴に殺されたやつも、殺されかけたやつも、ここにはいくらでもいる」
暗に「『しぶとい』だけではない」とにおわせた返答であったが、律はあえてか「ふうん」と興味なさげな返答を寄越してみせた。
「それで次は? 内臓は見ただろう? 頭? さすがの俺でもきっと死ぬぞ」
笑う彼は余裕綽々、自分の状況を理解しているのかすら怪しい言動。その実、彼は完全に自らの立場を把握しきっていた。
「都合の良いサンプルだと思ってる? お話しても解剖しても、探してるものは見つかりゃしないよ」
喉の奥で笑い陽翔を見るその目。虹彩に刻み込まれた奇妙な紋様を見るたびに、彼はその目を潰したくてたまらなくなる。それは彼の持つ「権能」などではない。純粋に陽翔は、その視線が気に入らなかった。
起因はこの男が捕らえられ、陽翔の元へと運び込まれた時、彼に発された言葉からだ。
「君の目は実に無機質だなあ、何を憎んでるんだ?」
細められた禍々しい目で。彼以外には理解が出来ない、核心を突くような言葉を投げかけられた。布で口を塞がれた後も何かこちらに向けて喋ろうとしていたことを覚えている。お喋りな相手を好まない彼にとって、律は天敵とも呼べるほどに相性の悪い相手だ。
「復讐心なんてものに突き動かされちゃって。君たちって皆そんな感情的なのか?」
「黙れ」
笑う律に向かい陽翔は突き放すように呟く。彼の言葉にまともに耳を傾けるな。彼の目を見るな。今までもこれからもそれを守り続けるつもりではあるが、どうにもすべて見通されている気がしてならない。
もしそれが律の権能であるならば相応の対応をしなければ。ひとの形をしているからといって、彼らが人類の道理をよく知っているわけではない事を、陽翔はよく理解している。
――幼い頃、陽翔は「怪異」により両親と兄を喪った。機関の裏の顔を知ったのはそこからだ。記憶を処理されてなお脳にはあの怪異が家族を襲う光景が焼き付いて離れなかった。
有象無象を「もの」へと変えていく怪異を。自分に被さり冷たくなった兄の体、その下から、彼はずっと見つめ続けていた。生き残った己の証言を信用する者は周囲に居らず。彼は孤独な幼少期を過ごし――そして|汎神解剖機関《ここ》へとたどり着いたのだ。
だが彼が今相手取るものたちといったら、どうにも人間的なものが多かった。
眼前の律もそうである。冷徹に、対等ではない存在として「ひと」のようなものと接する事が出来る陽翔は「よく喋る」相手には丁度良い。
感情に揺るがされる事なく、怪異と接し生き残った経歴がある。なんとも優秀な研究員。
だがこの男は先の通り、致命的なまでに律と相性が悪かった。
「寂しがりめ、そう何度も会いにくるなよ」
「シャンプー変えた? 綺麗じゃん。よっ、黒髪美青年」
「もしかして俺のこと好き? 何回目だよ、あはは!」
好きで会いに来ているわけではない。彼の言動を観察し記録するために遣わされている。だというのに律はまるで、好んで会いに来る相手へ応対するかのように陽翔に接し続けてきていた。
そうなってしまえば、話すことなどぐちゃぐちゃだ。レコーダーを使い記録は取るものの内容は律の一方的な雑談。聞けば聞くほど腹が立ち、そしてどうしようもない感情が湧き上がってくる。
この男は、研究対象として適さない。拘束を止め、管理体制に置いたほうがよいのではないか。
幸か不幸か、彼の権能はある程度拘束されていれば発動しないようだ。「何度か権能を使い足掻いた」という記録はあるようだが――陽翔にはその情報を閲覧できる権限が無かった。
人類を破滅に導く可能性がある事は間違いない。だがこいつは。
「逃げないのか」
ある日、陽翔は律にそう言葉をかけた。すると彼は小さく肩をすくめて「逃げてもなあ」なんて笑い。
「知らない? 近々、俺は『完全解剖』されるんだよ」
目を見開く陽翔。権限を持たない己が知るはずもない事柄を、眼の前の男が口にした。
「焦れたらしい。話を聞き出せないってのも理由のひとつだろうけど……はは、どうだろう? 俺は人類に貢献できると思う?」
彼はなんとも気楽そうで。自分が「人類延命の鍵」、その一本とされることを憂いていないようだった。
「君にだけ教えてあげる。レコーダーを切って」
「無理だ」
「そう、じゃあいい」
あっさりと引き下がった律に疑問を抱く間もなく、律は陽翔へ、静かに、こう囁いた。
「君のために死のうと思う」
「……は?」
驚愕する陽翔。律はその目を、禍々しく蠢く金の虹彩を細めて続ける。
「気に入った。こんなにお喋りしてくれるやつ、君以外に居なかった。今までだって散々。人間災厄。怪異は怪異。でも君はさ、対等じゃないか」
どこが対等だというのか。冷淡に接し続けていたはずだ。くだらない話を聞き流し相槌を打ち記録を取り続ける自分が対等だと?
「小さい頃からそう。言葉はわかってたよ? でも俺は『|こういう存在《人間災厄》』。もう一生分喋ったからいいか、なぁんてね。寂しがりは俺のほうだったってわけ。ん~。君のためになるってんなら、楽しい『人生』だったなあ」
笑う彼に何も言えず。レコーダーを握っていたその手が思わず震える。
孤独に抗い。自分を、ただ会話を聞き相槌を打つだけの存在を頼りに。彼は今までここに捕らえられ――解剖と治癒を繰り返されてきていたというのか?
陽翔が、握っていたレコーダーの録音ボタンを切る。
「どうした? 個人的なお話でもしたくなっ……」
これ以上は近づくな。そう言われていたラインを越えて、『怪異』へと近づく。どうせ暴れやしないと簡素にされていた拘束具を外していく。彼の予想外の行動に、律は何度も瞬きを繰り返す。
「正気か?」
驚く律を、陽翔が睨む。
「正気だ。――ここから出る」
情が湧いたといえばそこまでだ。だがそれ以上のものがあった。喋りすぎる性格、性質。「孤独に過ごしていた」というのにこんなにも違う。
知りたくなってしまった。寄り添ってみたくなった。彼の孤独に。
己の孤独も、埋められはしないか。そんな下心も込めて――陽翔は、律の手を取った。
――ああ。
私は何を読んでいるのだ。
研究員はぱたりと大判の本を閉じる。資料に紛れ込んでいた一冊の本、あまりに怪しいそれを開いて目に入った文字列をつい癖で読み続けてしまった。
これは何だ。ボーイズラブ小説だ。なぜこんな所に。
わけがわからない。棚に戻すわけにもいかないが扱いに困る。本を手にしたまま彼は天を仰いだ。
ほんとに、なんで……? えっ?
なんだこれ。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功