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おかえりなさい、仔猫ちゃん!

#√EDEN #ノベル #誕生日 #人妖「猫又」 #不思議画廊店主

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 彼は|結花子《ゆかこ》を呼んだ。
 しかし、結花子は姿を現さなかった。この時間は尋常小学校にいるのだ。
 彼は学校など知らない。知っていたとしても、結花子がそんな場所にいるとは思わないだろう。
 結花子ガ僕ヲ置イテドコカニ行クハズガナイ。
 そう信じているから。
 もう一度、彼は結花子を呼んだ。
「なーお!」

 彼は猫である。名前は『キャラメル』。本日――一九〇×年四月十八日をもって一歳になった雄のメインクーンだ。
 猫の一歳は人間の十六歳から十八歳ほどだが、キャラメルは精神面においてまだまだ子猫だった。その理由は二つある。一つは生来の特質。メインクーンは成長が遅い。
 そして、もう一つは家庭環境。
 キャラメルが暮らしているのは東京市深川区某所の洋風邸宅。だが、そこで生まれたわけではない。東京で生まれたわけでもないし、日本で生まれたわけでもない。
 キャラメルの母は、サンフランシスコ-横浜間の航路を行く旅客船を住処としていた。彼女は船のマスコットであり、女帝であり、優秀な警備主任でもあった。一晩のうちに厨房で十三匹ものネズミを仕留めた挙げ句にそれらの死骸をネズミ捕り器の傍にこれ見よがしに並べてみせたという武勇伝は船員たちの間で語り種になっている。
 キャラメルは五匹の兄姉とともに航海中の船上で生まれた(母は恋多き|雌《おんな》だったので、父が誰なのかは判らない)。そして、乗客の一人であるホール&スターンズ商会のジョイス氏に引き取られ、更に氏の知人へと譲られた。
 深川区に邸宅を構えるその知人――|柳沢《やなぎさわ》・|弓太郎《ゆみたろう》は謎多き名士である。彼の身辺には、経済や政治や文化に纏わる怪しげな噂が絶えない。死の床にある浜田彦蔵から有益な情報を聞き出して一財産を築いたとか、日露戦争の折りに明石元二郎の懐刀として暗躍したとか、幼少期からの盟友である巖谷小波に多くのインスピレーションを与えたとか……。
 しかし、それらの噂はすべてデマだ。弓太郎の実像は裕福な紳士に過ぎない。もう少し言葉を付け足すと、裕福で暢気で酔狂で先進的で猫好きの紳士だ。
 彼だけでなく、彼の家族も大の猫好きだった。
 そんな一家に溺愛され、甘やかされ、外に一歩も出ることなく育ってきたため、キャラメルは猫の社会性というものを学ぶことができず、子猫の心を持ったまま大きくなってしまったのである。

 飼い猫というのは往々にして飼い主を下僕と見做すものだが、キャラメルにとって柳沢家の面々は卑しい下僕などではなかった。彼らや彼女らはいと可愛き存在(キャラメルに他ならない)の信奉者だ。崇拝者だ。謂わば、キャラメル教徒だ。
 教徒たちの中で最も信仰篤いのは、弓太郎の娘の結花子だった。教祖たるキャラメルもまた結花子に最も目をかけていた。
 それなのに――
「なーお!」
 ――どれだけ呼んでも、結花子は姿を現さない。
 キット、オ昼寝シテルンダ。ダカラ、僕ノ声ガ聞コエナインダ。
 キャラメルはそう決めつけた。
 ダッタラ、僕モオ昼寝シテヤルゾ!
 なにが『だったら』なのかはよく判らないが、キャラメルは不貞寝することにした。
 午後の日差しに照らされた天窓の窓台にジャンプ。そこで体を丸めようとした時に気付いた。上げ下げ型の窓ガラスが少しばかり開いていることに。使用人が閉め忘れたのかもしれない。
 次の瞬間、キャラメルはその隙間をするりと抜け出ていた。ほぼ反射的な行動である。別段、外の世界に対して強い憧れや興味を持っていたわけではない。
 しかし、地面に足がついた途端、今までに感じたことのない衝動が込み上げてきた。その衝動に従い、トイレハイさながらに庭中を走り回り、跳ね回った。肉球に触れる芝生はチクチクして、あるいはサラサラして、あるいはザラザラして、たまらなく刺激的。草や土の匂いも濃密で、ガラス越しに嗅いでいたのとは大違い。
 やがて走ることに飽きたが、衝動は消えなかった。隅に生えていた柿の木が目に止まった。それに爪をかけてよじ登り、柳沢邸を囲む煉瓦塀の上に飛び移る。
 世界が見えた。
 広い世界が見えた。
 とても広い世界が見えた。
 柳沢邸は高台にあるので、眺めは絶景だった。様々な建物が複雑なモザイクのように並び、それらの間を無数の細い道(実際は細くないのだが、遠目には細く見えた)が走り、それらの中を無数の小さななにか(実際は小さくないのだが略)が行き交っている。いくつかの道は陽光をキラキラと反射していた。それらが『川』と呼ばれるものであることをキャラメルは知らない。大きめの建物群の多くが『工場』だということも知らないし、そこに立つ何本もの高い塔が煙を噴いている理由も知らない。
 視線を巡らせて目を凝らせば、もっと興味深いものにして故郷とも言えるもの――『海』を見ることもできただろうが、キャラメルはその機会を失った。
 別のものに気を取られたからだ。
 それは聞いたことのない音。嗅いだことのない匂い。
 キャラメルは煉瓦塀の上を走り出した。
 隣の家の塀に飛び移り、駆け抜けて、その隣の家の塀に飛び移り、駆け抜けて、そのまた隣の家の塀に飛び移り、駆け抜けて……そして、足を止め、視線を下に向けた。自分がいる板塀(黒ずんだ大和塀だ)と赤いツツジの生け垣とに挟まれた狭い路地に未知の生物がいた。それこそが彼をここまで導いた音と匂いの発生源だ。
 その生物はキャラメルより一回りほど小さく、被毛の量も少なかったが、体の形はほぼ同じだった。逆三角形の頭の上に尖った耳が二つ生え、細長い体の前後に脚を一組ずつ備え、尻尾も有している。
 そう、実は未知でもなんでもない。それは猫だった。茶虎の雄猫だ。
 しかし、キャラメルにとっては未知も同然なのである。自分と同じ生物をじっくりと見るのはこれが初めてだった。船上で兄姉たちと押し合い圧し合いして母の乳をまさぐっていた頃の記憶はうすぼんやりと残っているものの、その期間の大半はまだ目が開いてなかった。
「なーお」
 キャラメルは挨拶代わりに愛らしい声で鳴いて、既知にして未知の存在の前に降り立った。
 そして、踏み固められた土の感触に少しばかり気を取られながらも、茶虎に近付こうとしたが――
「ア゛ア゛ア゛ァーオッ!」
 ――雷鳴のごとき(少なくとも、キャラメルにはそう聞こえた)咆哮をぶつけられ、びくりと体を震わせた。
 茶虎は咆哮に続いて『しゃー!』と威嚇の声を発しながら、足を踏み出した。
 キャラメルは思わず体を伏せた。無意識のうちに耳も伏せていた。このような事態は予想外であり、不可解でもあった。敵意を向けられるのは生まれて初めてなのだ。生きとし生ける者は皆、無条件に自分のことを愛してくれると思っていた。
 ダッテ、僕ハ可愛イカラ。愛サレテ当然デショ?
「なーぉ……」
 先程のように愛らしく鳴こうとしたが、消え入るような声しか出てこない。体は半ば硬直している。それでも、必死に力を込めて、尻で字を書くような情けない恰好でじりじりと後退した。
「ア゛ァーオッ!」
 茶虎は再び咆哮を放ち、更に前進した。じりじりではなく、ずんずんと。断りもなく縄張りに入ってきた余所者が図体だけの若僧であることを悟ったらしく、動きに余裕がある。
 もちろん、キャラメルのほうは余裕など皆無。茶虎が剥き出した犬歯を見て、恐慌状態に陥っている。
 ナニアレ!? 怖イ! 怖イ! 怖イ!
 この大きな子猫にとって、犬歯というのは基本的に食事の道具だった。甘噛みして意思を伝える時や毛繕いの時にも重宝するが、誰かを脅したり傷つけるために用いることなど決してあり得ない。そもそも、誰かを脅したいとも傷つけたいとも思ったことはない。
 ダッテ、僕ハ可愛イカラ。戦ウ必要ナンカナイデショ?
「な……」
 消え入るような声が本当に消え入ってしまった。
 すると、茶虎は片方の前足をもたげ、手招き(足招き?)でもするようにクイッと動かしてみせた。
 キャラメルは目を閉じて首を竦めた。頭を殴られたような気がしたのだ。相手の前足が届くような距離ではなかったにもかわらず。
 そのままずっと闇の世界に逃避していたかったが、なけなしの勇気を振るい、ゆっくりと目を開けた。
 視界の中の茶虎は大きくなっていた。目を閉じている間にまた近付いてきたらしい。
 箱入り猫のキャラメルもさすがに悟った。残された道は二つしかない。この場で震え慄きながら、茶虎の餌食になるか。あるいは……。
「んにゃ!」
 キャラメルは叫びざまに反転し、脱兎のごとく逃げ出した。
 後ろを振り返ることなく、ただひたすらに走る、走る、走る。路地裏を駆け抜けて、黒ずんだ大和塀に沿って角を曲がり、大通りの端を一直線。泥を撥ね、砂煙を上げ、小石を蹴飛ばし、前後の脚がぶつからんばかりの勢いで走り続けた。
 しかし、どこまで走っても無駄。柳沢邸に帰ることはできないだろう。実は往路を覚えていないのだ。恐怖に尻を押されて、出鱈目に全力疾走しているだけなのだ。
「なーおっ! なーおっ! なぁぁぁぅぅおぉぉぉ!」
 鳴いた。泣いた。鳴きに泣いた。人の言葉を話せるなら、最も信仰篤き教徒の名を連呼しているはずだ。『結花子! 結花子! 結花子!』と。
 しかし、どんなに泣き喚いても無駄。その悲痛な声が結花子に届くことはないだろう。
 と、思いきや――
「キャラメル!?」
 ――行く手に結花子が現れた。魔法のように忽然と。
 もちろん、魔法などではない。実のところ、忽然というわけでもない。少しばかり前から視界に入っていた。目は捉えていたが、脳が捉えていなかったのだ。
 結花子がいる場所は柳沢邸の門の前だった(出鱈目に走っていたように見えたキャラメルだが、帰巣本能がしっかり働いていたらしい)。丁度、尋常小学校から帰ってきたところなのだろう。
 キャラメルは彼女の足下で急停止すると、ジャンプして胸に飛び込んだ。世にも哀れな声で鳴きながら。
「なぁーおぉぅんんんー!」
「きゃっ!?」
 結花子はよろけながらも、一歳にしては大きめの猫をなんとか抱き止めた。
「あらあら。こんなに泥だらけになって……どうして、おうちでお留守番してなかったの? いったい、どこに行ってたの?」
 それは責めるような口調ではなかった。抱き止めた際に自身の着物まで土と泥で汚れたにもかかわらず、キャラメルのことを気遣っている。
「なぁ~~~~~お!」
 キャラメルは一際大きな声で鳴いた。こちらは責めるような調子である。
 結花子コソ、ドコニ行ッテタノ!? 何度モ名前ヲ呼ンダノニ、ドウシテスグニ来テクレナカッタノ!?
 随分と得手勝手な言い種ではあるが、キャラメルは自分の怒りが正当なものだと信じていた。猫の御多分に漏れず、彼も天動説に生きている。キャラメル教徒は常に教祖キャラメルの傍にいなくてはいけないのだ。名前を呼ばれたら、押っ取り刀で駆けつけなくてはいけないのだ。
 聡明なる結花子はキャラメルの猫語を理解したらしく――
「はいはい。判りました」
 ――にっこりと笑い、大きな甘えん坊の頭を撫でた。
「大丈夫よ。安心して」
 飾り毛の生えた三角形の耳に口を寄せて、優しく囁く。
「私はもうどこにも行かないから」
「んなー」
 キャラメルは一瞬にして機嫌を直し、結花子の顔に自分の頭を擦りつけた。

 その日の夕刻、柳沢邸では高級ささみのボイル(ゆで汁付き)がキャラメルに振る舞われた。
 誕生日の御馳走だ。
 キャラメルは走り疲れていたことも鳴き疲れていたことも忘れ、それをぺろりとたいらげた。
 そして、ぐっすりと眠った。
 夢の中にあの茶虎が現れ、昼間の無礼を平謝りに謝った。
 もちろん、キャラメルは茶虎を許した。
 いと可愛き教祖は寛大なのだ。



 √EDENとは別の√にある画廊『キャラメリゼ』で。
 百年以上も前の誕生日のことを思い返して、店主である人妖の猫又――|早乙女《さおとめ》・|伽羅《きゃら》は声を立てずに笑っていた。楽しげに。寂しげに。
『私はもうどこにも行かないから』
 あの言葉は嘘だった。
 結花子は行ってしまった。
 とても遠いところに。
『私はもうどこにも行かないから』
 しかし、あの言葉は真実でもあった。
 結花子は今も伽羅の記憶の中に生きている。
 伽羅が見送ってきた多くの人々と同じように。
 
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​ 成功

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