夜々中の|幽玄《いいこと》
誰も彼もが寝静まる夜々中に、吐き出した紫煙で模られた魚が泳ぐ。
じゃれるように纏わりつく煙の魚たちを護衛と引き連れて、ナギ・オルファンジアは待ち合わせに指定された桜のもとへ足を進めた。
「夜闇に白い桜が溶け込んでいて美しいねぇ」
静寂が支配する夜に淡く浮かび上がる桜の花は満開を迎え、ゆるやかに花びらを散らしはじめている。
はらはらと舞う夜桜の下には、夜に透け馴染む男がいた。男が吐いた紫煙はゆらりと透けたその身を確かなものにする。
「加えて深夜に幽霊さんとお花見なんて洒落ているよ」
「ナギ、突然呼んで悪かったな。誘いに乗ってくれてありがとう」
それじゃ花見をしようかと、東雲・夜一は手に提げていた酒と団子を見せた。それに無表情のまま軽く片手を上げて応じて、ナギは夜一の隣、桜の木のすぐそばにある敷物の上へ腰を下ろす。どうやら敷物は夜一が用意してくれていたらしい。
「こちらこそ、お誘いありがとう。驚きはしたけどね」
「初めてうちに顔を覗かせた時のあの衝撃と――それからいちいち言葉というか……なんだ、反応とか? が面白いもんでね。楽しそうな花見になりそうだと思ったんだ」
「最初? 普通にお店にお邪魔しただけなのに……?」
ナギは思わずきょとんとしてしまう。しかし思い返してみれば、確かに訪れたナギを見て夜一はすごい顔をしていた気がした。
横目で見やった夜一はくつくつと喉を鳴らして笑うばかりだ。
「本当に私の何がそんなにツボなのかなぁ。君が楽しそうで私もうれしいけれど」
「まあいいじゃねえか。折角来てくれたんだ、美味いもんは用意してるつもりだが」
これ、と夜一は用意していた酒を開け、団子の包みを開く。
「花見だから甘口のがいいと思って。こっちの団子も桜の餡がのった珍しいやつ」
「へえ、桜のお団子に甘いお酒なんて素敵。流石、女性へのおもてなしをご存知で。――しかしこの雰囲気を台無しにするのがナギです」
ナギは流れるように自分が持って来た大きな買い物袋をドンをふたりのあいだに置いた。そして取り出すのは惣菜のパックだ。
「このサクサクなじゃがいもコロッケがすきで、こっちのトロタク巻きもおいしいよ。ああ、ここの豚の角煮はお酒に合うからね。……そうしたらそばにあったカスタードクッキーが食べたくなって。あと、お酒はすっきりな辛口をご用意した――んだ、けれども」
赤い敷物の上を、所狭しと惣菜が埋めていく。ついに買い物袋がからになったところで、ナギはすっと目を逸らした。
「……つい手当たり次第に買い過ぎました」
「……ふはっ、」
そんなつもりはなかったのだけれど、と言い訳のように添えるナギに、夜一は思わず吹き出してしまった。堪えようとしたが無理だった。そのまま肩を震わせる。
「確かに手当たり次第買うかもってのは聞いてたけど……つい、って……!」
「だって、君が言ったのだよ。私の好きなものが食べたいって」
遠慮なく笑う夜一に、ナギは拗ねた素振りで唇を尖らせる。ナギとしては、夜一の好きなものが見つかればいいと思っていたのだ。だからおすすめを見繕おうとして、見事に収拾がつかなくなった。
「やっぱ面白いな、ナギ。クッキーとか、すっかり売り場の罠にはまったってわけだ」
カスタードクッキーに罪はねぇもんな、と夜一はひとしきり笑うと「早速食おうぜ」と添えてあった割り箸を手に取り、ナギにも渡す。
「これだけありゃあ、好きな物も見つかるかもしんねぇ」
「だといいけれど。夜一くんの気になったものからどうぞ」
私はどれも食べたことがあるから、と促されて、夜一はそれじゃあとコロッケに手を伸ばす。口に入れれば、さくさくの衣と柔いじゃがいもの甘さが口に広がる。
「あー、懐かしい味。うめぇ。……こっちのトロタク巻きは初めてだな。酒に合うってんなら、ナギの持って来た酒、貰っていいか」
「もちろん」
ナギが持って来た酒を一口分注いで飲めば、すっきりとした辛口が心地いい。トロタク巻を口に運べば、濃い味の角煮がほどよいアクセントになって確かによく合った。桜を見ることも忘れて、すっかり食事に夢中になってしまう。
「ナギはご飯選びの達人か?」
感心したように言いながら、夜一はナギに自分が持って来たほうの甘口の酒を注いだ。彼女は彼女で、夜一の持って来た団子に舌鼓を打っている。
「ふ、この桜餡おいしいねぇ。色もふんわり桜色えかわいい。……このお酒も香りが私好みだよ、口当たりもいいしね」
「そりゃ良かった」
「ナギもお酒をお注ぎしましょう、夜一くん。おいしく食べてくれていて選んだ甲斐があるというものだしね」
無表情ながら満足そうに、ナギも夜一に酒をなみなみと注ぐ。
「安心したよ、よかったよかったぁ」
軽く杯を合わせて今更の乾杯をする。くいと酒を煽れば、まるで夜の静寂ごと飲み込むようだ。
「しかし、美味いもんを色々と知ってんだな」
「うん? 私自身も好きなもの探しの最中だよ、今はごはんと服限定で」
「うまいもんに服。……服?」
「そう、服」
頷いた頭を、ナギはそのまま傾ける。
「生誕2ヶ月程なもので、自分の似合うものなど何もわからないのだよなぁ」
ひとりごとのように呟いて、ナギはふと視線を夜一と合わせた。
「ふふ、今度君をお買い物へ連れ出すのもいいかもね。まったく興味はないでしょうけれども」
冗談めかして囁くが、夜一は食事に夢中のままだ。この様子なら好きなものは割とすぐに見つかるのかもしれない。
「それはそれとして、君、まったく桜を見ていないね……?」
「んあー? 見てる見てる。ちゃんと見てる。綺麗だよなー」
思わず半眼を向けた先から返るのは気のない声だ。口いっぱいに食事を詰め込む様を見ながら、ナギは視線を上げる。視界一杯に広がる夜桜は此岸を疑うような光景だ。ナギの魚たちも舞う花弁の隙間を泳ぎ――ひらりと落ちた花弁が夜一の髪に留まる。
(幽霊の髪に花弁とは、言葉に尽くせぬ風情が……うううん……風情ある? かなぁ?)
言葉にすれば幽玄、というものが浮かんでくる。けれども食事に夢中な幽霊の幽玄さとはこれいかに。
「普段ちゃんとごはんをたべているのか、ナギは心配になってきました」
「んぁ?」
「なんでもないよ。私の分も食べる?」
あまりに気持ちのいい食べっぷりに、くいしんぼうからさえ差し出したくなってしまう。残っている自分の分の惣菜を差し出せば、
「じゃ、ナギにはこれだ」
ひょいと夜一から差し出されたのは彼の髪に留まっていた花弁だった。
「桜の花弁を掴むと、いいことがあるらしい」
笑んだ夜一の手から渡された花弁を受け取って、ナギはそっとそのひとひらを甘い酒が注がれた杯に浮かべる。
「いいこと、いいことねぇ……。もう既に起こっていますけれど」
終末に沈む静かな夜々中に浮かび上がるような、花見のこの時間こそきっと|いいこと《・・・・》に違いない。
「何か言ったか?」
夜風に混ぜた囁きは、どうやら夜一の耳には拾い上げられなかったらしい。いいや、と短い息を吐いて、ナギは花びらの浮かぶ酒をくいと煽る。
「――穏やかで甘やかな時間とは、いいものだね」
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功