√オルギリコス・ウズベイキ『一念通天』
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偶然というものは恐ろしいものである。
それが因果によるものであることは言うまでないが、可能性として提示された中の一欠片であるというのならば、それもまた真実であろう。
どれだけ己にとって不都合な事実であろうとも、現実は現実なのだ。
起こってほしくないものほど起こってしまう。
そう感じるのは、その人が不幸だからだろう。
だがしかし、人と人との関係は蜘蛛の糸のように複雑に絡み合う様を見せながら、理詰めで編み上がられる。
結果があるのならば、過程がある。
原因があるのならば、道程がある。
「いつでも店、来てええでな」
そう告げた己の言葉が、どれだけ彼女の心を慰められただろうか。
人の憂いに寄り添うから優しさと呼ぶのだと語る者がいる。
であるのならば、人の憂いに寄り添わぬことをなんと語るのだろうか。
「俺が、俺だけが彼女のことをわかってあげられるんだ。彼女ことは一番俺がわかっている。一番見ていたんだ。一番知っているんだ。一番だ。一番いちばん一番いちばん……一番、俺が!!」
声を荒げた男が己の店先から中に押し入ってくる。
客ではない。
見てわかる通り、押し込み強盗でもない。
通り魔でもない。
もとより己がここにいると知って、そして明確なる殺意を持って迫っている。
瞳を開く。
正直なところ、目を閉じていたって、眼の前の声を荒げる男に殺される理由などないだろう。
「不慮の事故なんてな」
嘘だ。
八薙・ヴァシュヴァーリ・イムレ・貴充(情報屋・h03099)にはわかっていた。
家族ぐるみの付き合い。
そうした関係性の娘は、楳泉・香花(大学生・h03122)という。
眼の前の男が語る所の『彼女』というのは、香花と言う。
松会家と呼ばれる家から楳泉家へと高校卒業を以て嫁いだ。
だが、すぐに嫁ぎ先の夫と義両親は不慮の事故で亡くなった。
そう、己が嘘だと思った不慮の事故は事実、不慮の事故であった。
この場合、不慮の事故に見せかけることが成功してしまった、という意味ではない。
あんな小細工程度で、悪意でしかない殺意でもってなし得てしまった不運。
それを目の前の男は、己が手柄だと思っているのだろう。
どうにも不遜である。
きっとこの男は、香花が次に頼るのは己だと信じて疑わなかったのだろう。
だが、次に彼女が頼ったのは己であった。
いや、それも正しくはない。
彼女は一人で立ち直ろうとしている。
莫大な財産は、遺産として彼女の生活を支えるだろうし、何不自由ないはずだ。
「いやまぁ、まだ義弟に手を先に出さなかっただけマシってもんやっちゅーんだけど」
貴充は息を吐き出す。
男は刃物こそもってはいるが、動きは素人丸出しであった。
ハッキリ言って、この程度の男が不慮とは言え、偶然が重なって事故を装えたのが不思議でならない。
どう考えてもできるものではないと思ったからだ。
とは言えである。
奪ったという結果があるのならば、必ず報いを受けてもらわねばならない。
因果応報というのならば、それが正しい。
これは自分が引き受けるべき因果である。
殺したのならば、殺される可能性を手繰り寄せる。
そう云う意味では、己を殺せるのは香花だけであろう。彼女の存在が己を殺す楔である。
なら。
「あんたに俺は殺せない――」
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何事にも因果関係というものがあるらしい。
らしい、と言ったのは私がまだ理解できていなかったからかもしれない。
私の身に降り掛かった不幸というものは、決して余人が理解できるものでもない。私の哀しみは私だけのものだからだ。
それに、この哀しみと同じくらいの哀しみを持ち得る者たちがいる。
あの事故のことを何度も思い出す。
結婚とは祝福。
喜ばしいことだし、慶事だと思う。
今でもそう思える。
けれど、因果というものがあるのならば、この哀しみにも原因が影のようにつきまとうのだろう。
哀しみは哀しみを連れて来るというが、多分それは誤りなのだろうと思える。
哀しみを得れば、幸せもまた得られる。
なら、逆がそうだったのだ。
私にとっての幸せを得るという行為は、哀しみを得ることだったのだ。
「涙一つ流さないなんて」
喪主を務めた葬儀にて、耳に差し込まれた言葉を思う。
私は泣かなかった。
泣けるわけがなかった。
家族を失った哀しみはとめどないものであったし、到底すぐに癒えるものではなかった。
けれど、通夜も葬式も総じて私は涙を見せなかった。
何故なら、残された義弟がいたからだ。
彼の前で泣くわけにはいかなかった。
両親と兄とをいっぺんに亡くしたのだから、最もこの場で哀しみに打ちひしがれているのは義弟に違いなかった。
「結婚してすぐだから、情が沸かないのだろう。いや、むしろ」
「心の内では笑っているのかもしれないな。なにせ、引き継ぐ膨大な遺産が手に入ったのだから」
口さがない。
本当にそう思う。
けれど、事実でもある。
己はそうしたいと思った訳では無いし、むしろ、財産など必要ないとさえ思っていた。
両家の間で取り決められた許嫁とも言うべき間柄であったが、あの人は優しかったのだ。
慈しみと愛情というものを、取り決めだけで決定された娘に与えてくれたのだ。
それは言うまでもない誠の心であったと思う。
だから、私は哀しい。
涙を押し込めるだけの哀しみ以上の感情があるのではない。
ぽっかりと空いた空虚なる穴。
虚とも言うべきものが、喪われた彼らという存在の大きさを教えてくれていた。
皮肉だ。
涙さえも、その虚は吸い込んでいく。
泣きたい。
それでも泣けない。
私の心はいつだって穴だらけだ。
「泣いたってええやないか。辛いのなら辛いと言って。哀しいなら哀しいと」
そう言ってくれたのが、尊充小父様だった。
彼の言葉は私の虚を埋めてくれたように思える。
欠落めいたものは、その他愛のない言葉で埋められたのだ。
溢れたものは、涙となって頬を伝う。
泣いているのだと思ったのは、誰のためだっただろうか。
もう判然としない。
けれど、それでも私は泣くことができたのだ。
溢れたものは、きっと体より溢れてしまったもの。
「それでいいのです。私はきっと甘えたいと思っていたのです」
「他で片意地張ってもええ。でも、ここでだけは、香花らしく振る舞ったらええ。誰も許さんっていうのなら、他ならぬ僕が許したるよ」
そういった小父様の言葉に笑ってしまった。
笑うなんて、と思ったけれど、
それでも笑ってしまったのだ。
どんなに些細なことでも、人の憂いに寄り添うから優しさ。
なら、その優しさはきっと――。
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「何も気にすることなんかあらへん。あの子は、お前のことなんて知りもしやせんのだから」
貴充は小さく呟く。
眼の前には刃物を手にしていた男が転がっている。
男だったもの、と呼べいいか。もう、それは生命ではない。
「お前一人いなくなったとて、あの子は気にせぇへん。因果応報っていうなら、そうなんやろな」
だから、こうなる。
誰かを害するのならば、排除される。
いつまでも排除する側だけに回れるわけもない。
それは己にも当てはまることであったが、関係ない。
どのみち、この男はあの子たちの前に二度と現れない。
それでいい。
悪辣な因果も何もかも己が手繰り寄せる。
己が、これを望んだことなのだから――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功