想散ル、硝子ノ絶筆
それは平成という元号の中頃、外はふわりと春の風があたたかく吹いている。
老舗の文具店を営む家に生まれた幼い少女は、店主である父親のコレクションを眺めていた。
「おとうさん、このペン綺麗ね」
窓辺から射す陽光を浴びてやわらかな光を反射するガラスペンは、すぐに幼い心をつかむ。いいなぁ、とこぼした彼女を見て、娘に甘い父親はそっとそれを手渡した。
「大切にするんだぞ」
「ありがとう! これからよろしくね」
きらきらとした笑顔でガラスペンを受け取り、話しかける。その眼差しを見つめかえすガラスペンは、うれしげに彼女を見守ることにした。
『今度の主は随分と愛いやや子じゃのう』
未だ人の身を得ることはできず、主達との意思の疎通を取ることはできない。けれど、ガラスペンはそれで構わなかった。
道具は人に使われてこそ――人の営みを傍で見守ることができる、それこそが至上の喜びであると感じていたのだから。
今までの主達を見守ってきたように、ガラスペンは少女のこれからの成長と感情を見守り慈しむことを誓うのだった。
小学生の少女はお気に入りのインクを選び、友達とのやりとりに彼を使う。はじめこそうまく書くのに時間はかかったものの、次第にその筆先は安定してかわいらしい文字を綴る。
『そうじゃ、上手に書けておるの』
ガラスペンの声は届かずとも、その言葉通り、成長するごとに少女は綺麗な文字を綴っていく。中学生になれば友達との交換ノート、高校生からはじめた日記も、様々な色のインクで彩られていった。
いくつかの文具を集めるのが趣味になりつつも、一番のお気に入りは、やはり父親から受け継いだ曽祖父のガラスペン。
「あなたが一番綺麗で、馴染みがよくて、やさしい文字が書けるの」
くふり、くふふ。照れたように、けれど誇らしい気持ちでガラスペンは孫娘を見守る。
『主、これからも儂をよろしく頼むぞ』
一族譲りの真面目さと愛情深さを持った彼女は、やがておとなに成っていく。はじめての恋は、文具店の取引先の営業マンだった。
一瞬で連絡が取れてしまうデジタルデータが横行する現代にもかかわらず、かわいらしい手書きのメッセージカードでやりとりを続ける日々が続いていく。
『ほほ、我が主ながら愛らしいのう』
手紙にはこっそり小学生がやるような恋のおまじないを添えていて、インクの色にも願いを込める。心温まるまじないに、ガラスペンもやさしい気持ちで寄り添っていた。
そんな日常は、突如として破られる。娘の部屋でいつものように鎮座していたガラスペンは、主があわくやわらかな想いを綴ってくれるのを待っていた。
――けれど、ドアを開けて自室に帰ってきた彼女はひどく憔悴した表情で。
『どうしたのじゃ、主』
今日は恋しい彼が、仕事と共にメッセージカードを届けにやってくる日だったはず。なにがあったのかと思えば、娘は突如机に置かれていた紙束やインクの山をなぎ倒す。
「なんで、なんで……愛してるって言ってくれたのに……」
泣きじゃくる彼女のその後の言動に、ガラスペンは男が既婚者であったことを知る。忘れ物を届けようと彼を追った先、そこで見たのはあたたかな家庭へ帰る姿。
あどけない我が子を抱きあげる男の姿を、幸せそうに見つめる他の女。
「愛してるって言ってくれたのに」
インクの香りが充満する部屋のなか、娘は震えながら先ほどの光景を何度も思い出してしまう。
「今日だって、あんなに優しく手を握って……」
そうして、気づく。気づいてしまう。そうか、あの女が彼を縛りつけているのか。
――そうだ、彼は私を裏切ってなんかいない。
「だいじょうぶ、まだ間に合う」
やわらかな日々に、やわらかい罅が入りはじめていた。
なにも変わらぬ、穏やかな日々。メッセージカードと共に彼と紡ぐ、愛ある生活。
同時、彼の家の鬼門と呼ばれる場所に、そうっと忍ばせていく|呪い《まじない》の手紙。毒も呪いも、すこしずつ。静かに浸透させていくのが一番自然で、傍目には誰にもわからない。
このガラスペンには、想いを届ける不思議な力があるって、お父さんが言ってた。
「だから、私の想いもきっと届けられる」
ひくりと口の端をひきつらせてわらう娘に、ガラスペンは訴える。
『主、もうやめよ。これ以上見てはおれぬ』
実体を持たぬ付喪神未満の手は、どれだけ彼女に触れようとも気づかれない。娘の手にあるペン本体は、かつてないほどつよい力で握られ、呪いの言葉を永遠に紡いでいく。
百年生きて想いを届ける力を強めたそれは、いつしか呪いを届ける呪物へと変容していた。
表面上は変わらぬ朗らかで穏やかな主の様子に、家族も男も気づかない。けれど、やがてその呪いは男の妻を着実に衰弱させていき、娘の思惑がうまくいくほど、男の足は遠のいていった。
――そうやって日々は罅割れ、運命の日が訪れる。
いつものように呪いごとを呟き綴る主の傍、止めようとする、声は今日も届くことはない。
すこしだけ違ったのは、わずかな違和感だった。文字を綴るペン先に感じる痺れは、まるで呪いごとがそのまま逆流してくるような――。
『いかん、呪い返しか……!』
押し留めようと全神経を集中させるも間に合わない、硝子には罅が入り、そうして、辺りが黒く爆ぜた。
罅割れた硝子はまっくろで、部屋中が呪いで塗りつぶされている。ぽたりぽたりとその双眸が水滴が落ちたことで、付喪神は理解した。
――今更、人の身を得てどうする。
傍に転がった遺体は傷ひとつなく、綺麗なまま。呪いに囚われたのは、その魂だった。
骸の上、今にも悪霊と化そうとする娘であったモノが轟いて、それと似た呪いを帯びた黒い瘴気が、付喪神の右眼に有る罅からも溢れ出ている。
「醜いのう……儂も、お主も」
付喪神は、そっと死霊に手を伸ばす。ヒトとしてのいのち尽きても、呪いに取り込まれ、永遠に呪いごとを吐き続けるそれに、使役の契約を繋ぐ。
「共に美しいもので心を満たそう」
いつか、お主の呪いが尽きるまで付き合おうてやろうぞ。
悲しげに、けれどいとし子への慈しみを忘れることなくそう告げれば、死霊は静かに轟いていた。
玉梓・言葉は、ガラスペンの付喪神である。
今日もうつくしいものを見つめ、人と人情味を愛し、第三者として生きている。
硝子のようにひやりとつめたい体温の隣、|彼ノ人《最後の主》が寄り添っている。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功