我が名はカエサル
暮れなずむ空のもと、照り返しの強い残照が水面に薔薇色の綾を描いている。
夕映えに照らされ、黒くさざめく海上に夕暮れ時を彷彿とさせる燃えるような輝きがひと時、蘇った。
ガイウスは、小高い丘の上に立ち、燃え上がる海上を郷愁の眼差しで見送っていた。
数刻前まで、海上を支配していた狂騒は嘘のように静まりかえり、岸辺にはさみしげな潮騒の音が木霊するだけだった。
海上には、ガレー船の残骸が黒い澱となって浮かび上がるだけで、水面は波紋ひとつ浮かべる事なく、静かに凪いでいる。
アクティウム湾は、広い海岸線が天然の自然港を形成しており、数刻前までは、数百隻にも及ぶ大艦隊がここに陣取っていた。
大艦隊は、勇将マルクス・アントニウスの号令一下、真昼の陽射しを浴びながら意気揚々と帆をあげ、鳥のくちばしのように狭まった海峡を突破し、イオニア海の出口周辺で広い横陣を敷くアグリッパ将軍率いるオクタヴィアヌス艦隊に決戦を仕掛けたのである。
両者の戦力は拮抗し、戦況は角逐を極めたが、突如噴き出した北北西の風が戦いの潮目を変えた。
アグリッパ将軍は、風を受けて海上で艦隊を巧みに操ると両翼から包囲戦を展開。アントニウス将軍率いる大艦隊を包囲の輪に閉じ込めた。
アグリッパ将軍の攻め手は苛烈を極め、一隻一隻とアントニウス麾下の艦艇が海の藻屑と消えていった。
ついぞ戦況が決定的になるやアントニウス将軍は彼の旗艦である十段櫂船を捨て、快速船へと乗り換えた。彼は後援者であるプトレマイオスの女王とともに、アレクサンドリアを目指し、イオニア海を這う這うの体で西へと壊走していったのである。
ここに地中海世界の至上権を巡る戦いは終結を迎え、アクティウム近海は静謐を取り戻したのである。
ガイウスは、今や遠景の黒点と化したアントニウス艦隊を眺めながら物思いに耽っていた。
この光景を目の当たりにした時、ガイウスの氷の様な美貌にたまらず微笑の陰影が浮かび上がった。胸の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
それはガイウスにとっては、友人であるユリウスが死してより久しく忘れていた感覚でもあった。
彼は暗殺者たちにより、志半ばで命を落としたのだった。
彼が命を落とした年の三月イデスの日から、十年以上の月日が経った。
ガイウスは、直接に彼の死に立ち会ったわけでは無かったが、人すがら彼の死を聞き、生まれて初めての喪失感を味わった。
しかし、この日、彼の後継者の躍進ぶりを直接目の当たりにすることで、ぽっかりと口を開いた虚無の空洞にあの夏の日の陽射しが戻ってきたのだ。
紅色の残光が、イオニア海を赤く染め上げている。海を染めているのは彼の色だ。
思えば、ミトレス市でもガデスでも彼は、上等な絹のトーガに身を包み、一私人や財務官には不相応に過ぎる赤い外套を重ね着しては、まるで自分が執政官かはたまた独裁官かといった様子で泰然自若と振る舞っていた。
彼は、山岳地帯に囲まれた中部イタリアを故郷とするはずで、生まれも育ちも海とは縁遠いはずなのに、彼の人となりや性質というものからは、山が持つ峻厳さや、平野がもつどこか秩序めいた平穏さといったものは一切感じられず、海のもつ鷹揚さや奔放さばかりが彷彿させられた。
ひと際巨大な波濤が岩礁に打ちつけ水晶の輝きで砕け散った。舞い散る水しぶきが、残照の赤を反映してきらきらと輝いていた。
あの日と同じだ。
あの日、喧騒に沸き立つミトレス市の港で、彼の背後で砕ける水しぶきは今日のそれと全く同じ色合いで優艶と輝いていたのだ。
●
赤の外套が、ゆっくりと地に引かれ、板張りの甲板の上を滑る。
男は派手な赤の外套を優雅に翻しては、足場の覚束ない船上を自由気ままに走りまわり、群がる海賊のもとへと斬り込んだ。
男が剣を振るうたびに、白刃が煌めき、海賊が一人、また一人と血しぶきをあげながら仰向けに力尽きていく。
剣の腕はなるほど悪くはない。
だが、戦技という一点より判断するなら、ガイウスの実力には程遠い。にも関わらず、男の戦う様は妙にガイウスの目を惹いた。
ガイウスは、男を真正面に見やりながら、四方から一斉に襲い掛かった海賊どもを一息の間に片づける。
右拳で左正面の敵を殴打し、左足で右前方の海賊を払った。
前方の二体を即座に無力化するや、後方から迫り来る残敵に背を向けたまま、力強く大地を蹴り上げ宙を舞う。
迫り来る海賊たちの頭上を飛び越えて、そのまま彼らの後方へと躍り出た。
一気に接近し、海賊達の背へと回し蹴りを見舞えば、麻の服を纏った体躯が、毬玉かなにかのように宙を舞い、舷側の上を通り過ぎ、海面へと叩きつけられる。
刹那の間に海賊たちを無力化した。戦いの最中も、ガイウスの視線は海賊たちなどに注がれることは無かった。
ガイウスにとっては、海賊との小競り合いなどは赤子の手を捻るようなものであり、なんら興味を惹きつけられるものではなかったからだ。
この狭い船上でガイウスの興味を惹いたのは、あの男、自らをユリウスと名乗る、正体不明の怪しげなローマ人だけだった。
ユリウスは今や、船長と思しきマケドニア人の男との鍔競り合いへと突入していた。
ガイウスやユリウスの私兵らによってすでに海賊は、すべてが縛り上げられるか、息絶えたかしている。ここにユリウスと海賊船長との一騎討ちが始まったのである。
そんな二人の決闘をユリウスの私兵らは遠巻きに眺めながら、勝敗を肴に賭けを始めた。
最も彼らの行為を不謹慎だとして謗ることなどガイウスには出来るはずもない。
「私はユリウスに賭けようかな?」
ガイウスはユリウスと共に戦場を駆け回ってきたが、ユリウスや彼の配下はまるで伊達や酔狂で戦っている節があり、戦場においても緊迫よりも陽気さが目立った。
例に漏れず、ガイウスもまたこの空気を楽しんだのである。デナリウス銀貨でぎゅうぎゅうに膨れ上がった麻袋を甲板に置き、ガイウスもまた賭けの輪に加わった。私兵たちの視線が掛け金に注がれる中、ガイウスは特等席にどっしりと腰を下ろすと赤い外套のユリウスをじっと観察した。
ユリウスの風貌体裁と言えば、体躯はやや屈強であるものの決して中肉中背の域を出ることは無かったし、顔貌に関しても極端に造形が良いというわけでは無く、彼は二十半ばというのに前髪は大きく後退していたし、その幅広な額には薄皺すら刻まれていた。引き締まったがっしりとした顎元はユリウスに武骨な印象を与える一方で、やや老けた印象をももたらしていた。
それでもガイウスは、このユリウスという男に惹きつけられたのだ。
ユリウスは掴みどころが無く、数多の顔を有していたからだ。
教養深いくせに、立ち振る舞いは粗野とすら映った。
キザのペテン師に見えて、言動や挙止に高潔なパトリキの姿を思わせた。寛容さを示す一方で、譲れない場合において、彼は幾らでも冷酷になれた。
彼は独特であり、ガイウスがこれまで出会ってきた、いかなる者とも明らかに一線を画した人物であったのだ。
ユリウスの剣戟が、マケドニア人の剣を払った。
鋭い切っ先が、マケドニア人の黒く腫れた喉仏の上に下ろされた。マケドニア人は降参と言わんばかりに尻もちをつき、両手をあげる。
ユリウスが剣をあげて、ついで私兵たちがなぜか勝利した指揮官へと不平をぶつけた。どうやら多くの者が大きく掛け金を喪ったらしい。
皆が皆、嘲りあいながら笑う中、ガイウスは掛け金を手元にかき集めると、ユリウスや彼の私兵と共に拿捕した大量の海賊船を従え、 夕暮れ時のミトレス市へと凱旋を果たすのだった。
…
…
…
夕暮れに沈むミトレスは人々の喧騒に満ちていた。以前より近海を騒がせていた海賊が一掃され、更には大量の財宝を載せた討伐体が返ってきたのだ。
市民は我こそはと先を競って、ガイウスらを始めとした功労者達の元へと群がり、葡萄酒を振る舞っては、報酬の分け前にあやかろうとする。
ガイウスとユリウスとは半ばは悪戯心から、半ばは窮屈さから、人でごった返す港を後にして、二人して岸辺へと退却したのだった。
二人はざらつく白砂の上に腰を下ろし、エーゲ海を西に臨み、多くを語らった。
ユリウスは、彼の来歴について語り、そうして女や酒といった下賤な話題を交えつつ、ドラベッラなる前執政官の告発劇の顛末について、更には今回の海賊退治に至るまでの経緯を面白おかしく話し終えると、鷲鼻をひくつかせながらガイウスへと切り出した。
「ガイウスよ。貴殿の事についても聞かせてくれ」
青い瞳を瞬かせながらユリウスが言った。ガイウスは、やや間をおいてから率直に答える。
「私かい? すまないが、語れるほどのものでは無いのだよ」
それは、謙遜から出た言葉では無かった。邪竜の残滓としての自分は、未だに人の世において何者でもなかったからだ。
だが、ユリウスはそんなガイウスの言葉を鼻で笑い飛ばすと、追及の言葉で急き立てた。
「謙遜はやめたまえ。武技といい、居佇まいといい、貴殿はただものではあるまい。名無しのガイウスなどというのは通用せんぞ?」
ユリウスの豪快な笑い声が響く。
ガイウスは首を竦める。語感が気に入ったという理由だけで名乗っている偽名を除いて、ガイウスが人間社会で所有しているものなど存在しなかった。
「期待に応えられなくて申し訳ないが、私はガイウスという名以外、いかなる背景も持ちあわせてはいないのだよ」
ガイウスはそう言うと、テラコッタ製の酒杯に口をつけて、ワインを啜った。やや酸味が強いが悪くはなかった。
「ほぉ、だが貴殿は解放奴隷というわけではなかろう」
言いながら、ユリウスもまたガイウスに倣って酒を煽った。
「まぁね」
曖昧にガイウスは答えた。
しかし、ユリウスは執拗に言質を重ねる。
「ではガリア出身ということかな、ガイウス?蛮族には見えんがね」
「ガリア、まぁ、そういうことにしておくさ、ユリウス。だが、随分と遠回りだね、君は。私になにか打診したいことがあるのだろう?」
ガイウスの言葉に、ユリウスの赤みがかった唇が愉快そのもの開かれた。
「貴殿ほどの男がプラエノーメンを持たないのでは恰好がつくまい。それにだ、貴殿には我がカエサルの名を名乗らせたい」
彼はキザっぽくそう言うと立ち上がる。豪奢な赤い外套を翻し、皮肉げに口端を吊り上げた。
「悪くはないが、私は、名無しのガイウスでありたいのだよ。今回は辞退させていただくよ」
彼の事は嫌いでは無かった。むしろ好意すら抱いている。
だが家名というものにガイウスは忌避感を覚えていたのだ。
人のように、名を継承させていくという行為に邪竜であるガイウスは意味を見出せずにいたからだ。
ユリウスはやはり皮肉げな微笑を湛えたままに、しかしそれ以上はなにも語らずに、ガリアだなとだけ口にするとそのまま、活況に湧き立つミトレス市街へと踵を返すのだった。
波しぶきを受けながら、ガイウスは彼の背中をただただ黙って眺めていた。
潮騒の音が海岸線にいつまでも木霊していた。
●
ガイウスが望むイオニア海が昔日のエーゲ海が重なって見えた。
ミトレスの出会いより数年の後、ガイウスは、海辺のガデスでユリウスと再会を果たした。
彼はアレクサンドロス大王の像の前に立ち、大王への憧憬を語ると同時に未だ財務官に過ぎない自らの身の上を嘆いたのだった。
「君が大王に比肩する存在になったら家名を使わせて貰うよ」とガイウスは期待半分冗談半分で彼にはっぱをかけた。
ガイウスの言葉に彼は、豪快に笑って見せるや、そう遠くない内に大王に比肩してみせると豪語したのだった。
そして、このガデスの会話が、ガイウスとユリウスとの最後のやりとりとなった。
ユリウスはこの後、旭日の勢いで、ガリアを平定すると、宿敵ポンペイウスとの内乱に勝利を治めて見事にローマ世界を統一した。大王と比べれば二十年ほど遅れたものの、五十代にて彼は地中海の覇者となるという偉業を成し遂げたのである。
そして、輝かしい覇業の総仕上げとも言うべきパルティアへの遠征を目前に控えた三月イデスの日、彼は暗殺者たちの凶刃に倒れたのだった。
…
水面に、走馬灯に浮かび上がっては消えていく旧友ユリウスの姿を見た気がした。
「あぁ、君の勝ちだよ――」
赤く染まる水面を見つめながら、ガイウスは苦笑交じりに呟いていた。
誇張を恐れずにいうのならば、彼の後継者である姪孫は、大王の最後の後継者をこの地で破り、オリエント文明に終焉を齎したのである。
並ぶどころでは無い。後継者選びを含めるならば、軍配は大王では無く、ユリウスに上がったのだ。
そして敗北したのは大王だけではない。悠久の時を生きるガイウスもまた、ユリウスと彼の後継者によって心地よい敗北を味わったのだ。
名を継ぐことで、ヒトは意思や権威を継承させていく。暗殺者の手により倒れたユリウス・カエサルの意志や生前の権威は、名を媒介とする事で彼の後継者に受け継がれ、後継者はより強靭な体制を築き、亡きユリウスの覇業を形にしたのだ。
今後、彼が後継者と選んだ青年は、全ての障害を排し、巨大な帝国を地中海世界に築くだろう。
名などというものにさしたる意味を見出せなかった邪竜ガイウスは、代を重ねるごとに洗練されていく人の継承の力に敗れたのだ。
ふと丘の頂上に気配を感じて、ガイウスは視線を上げた。
色白の華奢な青年が立っている。
彼は、忽然とした様子でガイウスをしばし見つめていたが、なにかを思い立った様で、近習たちを右手で制するとガイウスの前に躍り出た。
「あなたの名は?いえ、怪しんでいるわけではありません。しかし、少し大叔父と似た雰囲気がしたので」
青年は上目遣いにそう言った。
青年は、故ユリウスとは似ても似つかなかった。
だが、青い瞳に浮かぶ意思の光はユリウスのものとぴったりと一致して見えた。
ガイウスは、そこに旧友ユリウス・カエサルの姿を確かに見たのだ。
「私の名前かい……?」
あぁ。決まっている。この名を名乗ることは友との約束であり、同時に邪竜ガイウスにとっての願いでもあった。
記憶の中の旧友を真似て、ガイウスは少しばかり皮肉げに口端を持ち上げた。
「私は、カエサル。ガイウス・カエサルだ。君の大叔父と同じ名を持つ男さ」
言いながら、青年に背を向ける。
そうしてガイウスはあの日のユリウスがやったように肩で風を切りながら、アクティウムを後にし、次の目的地へと向かうのだった。
この日、ガイウス・サタン・カエサル(邪竜の残滓・h00935)は英雄の名を継承し、√世界の戦いへと新たな一歩を踏み出したのである。
打ち付ける波音が郷愁の調べを奏でながら、ガイウスの背を見送っていた。
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