廃家の残滓
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くるくる、くるくる、螺旋階段めいた細い煙がのぼる。腐食で開いた穴より出でて煙は果たして何処へ往くのやら。
“S49.2月■町内×良し××●――”
玄関靴箱上に置かれた回覧板に張り付くわら半紙は辛うじてそう読み取れただけだ。触れたら“めんどうくさい”と男の子の声が聞こえそれっきり。連絡を伝えるだけの道具だ、さしたる思い入れは誰も持たぬ。
東雲・夜一(残り香・h05719)はペンライトを天井に向ける。まるで握り潰されたゆで卵だ。罅より忍ぶ雨はなで肩を擦過し廊下の膿みを増す。雨宿りには意味のない家屋。むしろ雨が降れば室内と大気が噛み合う程に湿度が高い。
ふらりと天井に届く螺旋階段が後ろへ傾ぐ。咥え煙草の夜一が室内へとあがりこんだからだ。
痩せた夜一ならすれ違えるかぐらいの細い廊下、足元ではささくれた板が牙を剥く。人の身であれば警戒せねば破傷風の餌食だ。
入ってすぐの左手には台所で御座いのビーズのれん。煙草を持った指で引っかけ覗き込むと、滑り込んだ土砂で幕が下りていた。
双眸を眇め、|しびと《仲間》の気配を辿る。語ることを持つならば、さあ語れ――そう促したが、返るは意図なき淡さのみ。
そうか、此処にはもう|いない《・・・》のだ。
ふぅー……っと靄を継ぎ足した。次に誰かが訪れたならば夜一の残滓を気取るやもしれぬ。その残滓とやらは観測者の色がつくので、もはや夜一ではないのだが。
それで良い。
己は内側なぞないに等しい、外付けのあれやこれやを貪欲に取り込むだけの“記録者”なのだから。
突き当たり正面に引き戸。右にはからたち模様の飾りガラス。割れた穴に右目を宛がうと、天井柱が鉄槌のように部屋を分断していた。
ハンカチをつまみ出し、窪んだ把手に添えて左側へと力を入れる。
パリン、パリン……脆く劣化したガラスが降り注ぐのも気にせず前後に揺らしつつ力を加え続ける。すると噛み合ったのだろう、敷居の抵抗が不意になくなり軽々と開いた。
「居間か」
ひっくりかえる四本足のテレビはとても分厚い。
鉄槌で潰れているのは炬燵。錆の浮く立方体は目を凝らすと石油ストーブだと辛うじて気づけた。
冬。
そこまでは人の暮らしがあったのだ。そう言えば、玄関の回覧板の日付も二月だ。
橙色した急須の蓋は片手に余る、転がる湯飲みの数からも定住者は四人以上と見た。
両親、幼い娘、兄か姉。ないしは老人。夜一は大体の家族構成を頭に描けた所で見切りをつけて居間を出た。
続けて真正面の引き戸のノブに指をかけた。ぼろり、力尽き手の中に来たノブを後ろに放り蹴り開けた先には土砂の山。
コォコォと、土砂の山の周囲を風が吹き抜ける。パラッパラッと豆が蒔かれるように耳打つ雨音は風の強さを思わせた。
家族の人数から察するに土砂の下にも部屋があったに違いない。だが夜一はあっさりと踵を返す。土砂を穿るなんざ解体業者のすることだ。泥で汚れた指じゃあ頁を捲るも躊躇われるし。
直角に向きを変えて、居間の正面の小部屋の襖に指をかけた。
「書斎があるような家とは思えねえがな」
視界に広がったのは、四畳半一間。土壁は八割方剥がれ落ち土台の藁がみすぼらしく晒されている。
荒廃した中で襖と対面に小さな本棚がひとつ。幾つかの書物が残り記録者を誘っている。
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本棚と癒着するそれらを一々ひっぺ剥がしては検める。
頬から四肢を染めるよう絶え間なく吐き足される紫煙。眼は煙で辛うじて現実に記されたかの如く細くて薄い。
べり、と、数十年はくっついた頁を剥がすのは趣が深い。此の音の方が遙かに己より実存を思わせる。
無線機器の表紙、●学×年なる学習雑誌、紙質の悪い漫画本……相応に時代を歩き『記憶』を記録した夜一にとっては、どれもこれも既視感あるものばかりである。
「類型より推察は出来るが状態が悪すぎるな」
そう呟いて、わざと最後に残した一冊に干からびたような双眸を向けた。和綴じのそれは明らかに発行書籍とは異なった風情を醸し出している。
何故最後に残したか?
「――好物は最後にとっておくからだよ」
そう独りごちたなら空気が笑ったような撓んだ。僅かであれ不自然に紫煙が膨らんだのを夜一はちゃあんと気取っている。
蝋燭の受け皿には吸い殻六つ。七つ目を唇に通してマッチを擦った。手元で揺らぐあかりは、ペンで綴られた文字を浮かび上がらせた……どうやら日記のようだ。
『S49.1.1×
私は夢を見た。北東の空が炙られたように赤くなり、地響きが●××――(以下は滲み読めない)』
『S49.1.2■
あれは夢ではない。
啓示だ。
予知だ。
近い内に夢と同じ事が起る。多喜子に話したら、妹を怖がらせるなと父に殴られた。
躾を暴力などという×●■――』
『S49.2.●
逃げようと家族に告げた。
この村は間もなく土砂に飲まれる。消費の為と毟られた木々、そのせいで脆弱になった土地が●■■――』
『S49.2.■
誰も私の言葉を信じない。教師という理知的な職の者でさえ。愚かな』
「……予知夢」
指で触れた日記帳からは吸いつくような歓喜。だが夜一はふうっとつなぎ目を落とすように紫煙を吹きかける。その口端は吊り上がり侮蔑を隠しもしない。
「なぁんて言うと思ったかよ、こんな|捏造《・・》にはなんの価値もねぇよ」
ボロクズのような数冊はこれ以上崩さぬようにと丁重に風呂敷の上。だが和綴じの日記は無造作に投げ出された。
「俺が此処に踏み込んですぐに造ったろ。滲み出す場所が大抵同じパターンなのは文章の続きが浮かばぬと誤魔化しているからだ」
毛羽立つ畳にゴヅリと止まる日記、其処に渦巻き出す悪感情。それこそが夜一の|死者の情念《欲しいもの》だ。
「……俺に読ませて『この家には土砂崩れ災害を予知した男がいた』と|語《騙》らせたいってか」
ふうっと斜め上に紫煙を吹いたならば、中学生ほどの靄が刹那浮かび出すように見えた。
「特別な人間になりたかった。そうすれば死なずにすんだ……」
“口惜しい”
「そうか、口惜しいか」
紫苑の表紙の内側に書き留めるのは御免だが、煙の内側には|記録《・・》しといてやるよ。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴 成功