遠い記憶は夢の狭間に
遠くの稜線に西日は沈み、ぽつぽつと夕飯の煙があちこちから漂い始める。
駄菓子屋が暖簾を下ろし、道端で遊んでいた子供たちが挨拶を交わして去っていく。
そんな彼等がぱらぱらと立てる足音と入れ替わりに、小道に入って来たのはからんころんと下駄の音がふたつ。それに草履の音がひとつ。
三人親子だった。小さな子供を真ん中にして、その手を父親と母親が繋ぎ、仲睦まじい様子で歩いている。
「ねぇ父さん、おれ、今度の祭り行きたい!」
「ああ……もうそんな時期か」
少年がぴょんと跳ね、声を躍らせる。合わせて父親も太い腕を跳ね上げた。軽く浮き上がったままの子供と一緒に、母親が笑い声を上げる。
父と子の背中にはふさふさとした狸の尻尾が揺れていた。頭には毛の色と同じ丸い獣耳が生えている。
人妖「化け狸」と人間の家族。人妖の混血が進んだこの世界においては、もはや珍しくもない組み合わせだ。
「もうお前も5つだ。なぁ、そろそろ近所の子達と行かせても良いんじゃないか?」
そう言って父親が楽しげに目を細め、空いた方の手で白髪交じりの顎髭を撫でる。一緒に歩いている時の癖だ。柿渋色の甚兵衛の下で鍛えられた体がみしりと音を立てるのを、子供は頼もしげに見上げるのが常だった。
「そうだねぇ。まだ早いんじゃないかな」
母親がゆるゆるとした口調で返す。和服の上から割烹着を着込んでいる。手に持った竹製の買い物籠からは、蕎麦に揚げ玉、蒲鉾に葱──今夜の夕食の狸蕎麦の材料が、いい香りを漂わせている。
「ほら、近所の春ちゃんの父さん! 家の前で金魚すくいをやるんだって! あそこまでなら行ってもいいだろう? ねぇ、母さん」
「そうは言ってもねぇ」
悩ましげに首を傾げる母の手を、オレンジの着物に小さな帽子を被った少年が、せがむようにぴんぴんと引っ張った。
「やっぱり、まだ早いかもしれんな。どれ、代わりに俺が一緒に行って、手本を見せてやるか」
「えっ、やったぁ!」
子供が躍り上がり、また笑い声が上がった。
その瞬間。
全員が同時に気付いた。
自分達は帰路とは全く違う道を歩いている事に。
時間にしてほんの数秒、話に夢中になっているうちの出来事で──どこをどうして辿り着いたかは全くわからない。
おそらくは何処かの路地裏なのだろう。あたり一面は真っ暗闇で。
そして文字通り、目と鼻の先の位置にまで、長方形の光が迫っていた。
「えっ……」
扉──そう勘付いた少年の喉から、何とかそれだけが絞り出される。
全員がぴたりと硬直。だがブレーキをかける余裕までは無く、3人分の重みが体を倒し、つんのめるように最後の一歩を踏み出させ、そして──。
──────
────
気付いた時、少年は倒れていた。
「うぅ……」
頭がズキズキする。どうやら倒れた際に軽く道端にぶつけたらしい。
帽子越しに患部を押さえながら、なんとか立ち上がり、周りを見渡す。
都会の路地裏である事は確かだ。
だが両脇のビルは、たまに連れて行って貰う映画館のある表通りで見るような、温かみのある煉瓦造りではない。
灰色で、無機質で、冷たくて──そんなどこまでもニュートラルな素材で構成された人工の幽谷の狭間に、いつの間にやら少年は転移していた。
「ここは……どこ?」
見知らぬ場所──いや、それどころではない。
このような空気は今まで一度も味わった事が無かった。
細い道の遥か先には霞んだ街並みが見え、その先では見た事のない服装の人々が通りを行き交っている。
上空には細く一直線に切り出された鈍色の空。そこを、カラスが数匹連れだって飛んで行った。
全てが陰鬱で、それでいて世界に馴染んで──いや。
まるで自分の居る世界そのものが切り替わってしまったかのような、そんな衝撃に言葉を失う。
その時。
近くで、どさりと音がした。
「母さん!!」
少年が振り返れば、そこには母親の姿。
取り落とした竹籠から、食材や財布が転がり出ている。
しがみつく少年。様子がおかしい。
少年の肩を抱きつつも、一点を見据えている母の先には、何の変哲もない一匹の黒猫が尻尾を揺らしていた。
「母さん、大丈……」
『にゃあ──』
少年の声を遮ったのは、猫の声だった。
嫌に間延びした鳴き声──否。
『────ぁぁ』
止まらない。増えている。重なり合っている。
おそるおそる少年が振り返った時、『それ』はもはや黒猫ではなかった。
『ぁぁぁぁぁぁぁああああ────』
大小さまざまな異形の猫達が揺らぎながらも同時に存在し、そのすべてが鳴き声を止める事無く口を開け続けていた。
二人が如何にして知ろう。それこそは『√汎神解剖機関』に遍在する怪異──『シュレディンガーの猫』。
目前の得体の知れない現象が少年の内より寒気と恐怖を爆発させる、顔を引きつらせながらも少年が耳を塞いだ、次の瞬間。
『────あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああお』
歪なハーモニーが騒音となり、路地裏で炸裂。
放たれる衝撃波。ガラスの割れる音。
吹き飛ばされ、壁に体を打ち付ける少年。
朦朧とする意識。その中で彼の視界は、路地裏の奥へと消えていく猫と、それを追ってふらふらと歩み出す母の背中を捉えていた。
──────
────
「うわあああああああああっ!!」
再び気付いた時、少年は走っていた。
場所もよくわからない荒野で、なにやら黒い全身タイツのような服を着た、大勢の男達に追いかけられていた。
『うわーっはっはっは! 手こずらせてくれる! だが化け狸のガキ風情、我々から逃げられると思うなよ!』
『『『『ウシャアーーーーーーッッ!!!』』』』
「ひいいいいいいいいいい!!!」
隠れる場所はない。全力疾走。それでも大人と子供の体力差が、互いの距離を無慈悲に埋めていく。、
だがその時。
からん、と乾いた音。
地面に落ちたのは下駄。その近くで黒い男がひとり、情けない声を上げて仰向けにひっくり返る。
間髪入れず、何かが風を纏って少年の隣を抜けていった。
ボロボロになってはいるが、見慣れた甚兵衛に狸の尻尾。
そう気付いた時には、肘打ちを伴った体当たりが、もうひとり黒い男を吹き飛ばしていた。
たちまち乱闘が始まる。
────父は自身の経歴について詳しく語った事はない。
朝早く家を出て、帰りの時間はまちまち。「ひたすらに良い人だが何をして稼いでいるかさっぱりわからない」とは近所の奥方の噂で。
いったい何の仕事をしているのかと尋ねた事はあるが、『何でも屋』だと返されてそれっきりだった。
言いたくないからだ、と解釈して、少年もそれ以上は聞かなかった。彼にとって父は、ただひたすらに頼もしい存在であることに変わりはなかったからだ。
本当に何でもできる。そうした父の数々の技能の中に格闘術が含まれていた以上、荒事とも無縁ではなかったのだろう。
「怪我はないか!? 母さんは無事か!?」
『おのれぃ! だが手土産にはちょうどいい!』
撃てぃ!! と一際派手な格好の男が叫んだ時、後ろに控えていた戦闘員達が、ぼしゅぼしゅとなにかを撃ち出す。
「ぬお!?」
トリモチ弾だった。ぼしゅぼしゅべちゃべちゃと着弾する白い弾幕が、仲間の戦闘員ごと父の動きを遅くしていく。
『貴様は改造によって生まれ変わる! その強さを大首領様のために使うのだ!!』
父の姿が殺到する黒い男達に埋め尽くされる。
「寿、逃げろ!!」
そんな父の叫び声が、顔を絶望に歪ませて立ち尽くす少年の耳に届いていたが──やがてそれも幾度目かで聴こえなくなった。
──────
────
嵐のような銃弾が壁となり、それまで隠れていた瓦礫を半壊させる。
つんのめった先で、閃光。即座に轟音と衝撃が鼓膜を破り、大爆発が地面を盛り上がらせた。
全身に走る激しい痛み。それは束の間の浮遊感を経て、また別の強烈な痛みへと変わった。
戦場──そうとしか言いようがない場所で、少年は砲撃に巻き込まれ、その体を地面に叩きつけられていた。
骨折多数。湧き上がる強烈な不快感は臓器が軒並み傷付いたせいだろう。
地面に流れ出た夥しい出血が、もう助からないことを少年に伝えている。
『今回』ばかりは逃げる時間も、判断する時間も与えられなかった。その結果がこれだ。
「……」
ざ、ざ、と硝煙の向こうから何かが近づく。
機械の兵士のような存在。
それは躊躇うことなく少年の額に鈍色の銃口を向け、発砲。
暗転――。
──────
────
「……?」
寝床から身を起こした喜々・寿(何でもなれる何でも屋・h01709)は、寝間着姿のままぼうっとしていた。
台所から良い香りがする。寝ぼけ眼をこする。
そういえば昨日の余りの出汁で朝餉に蕎麦を拵えるのだ、と、祖父がそう言っていた気がする。
(「なんだか悪い夢でも見た気がするのぅ」)
今朝の夢は覚えていない。
体調は悪くないし、外は良い天気だ。
商売はそこそこ繁盛していて、事件に巻き込まれるのもいつもの事だ。
そうした不測の事態に対処するのは元々得意な方だし、加えて近頃は能力者としても活躍している。
全てが順調。
なのに、こうした思いは頻繁に寿の元を訪れる。
「……」
理由はわからない。
上手くは言えないが、なにか胸にぽっかりと穴が開いたような、そんな寂しさとも悲しさともつかない気分を、寿は「またか」と受け入れるしかない。
果たしてこれで何度目だろう。
とはいえ自分がいつも通りなのだから、これにもまた理由がないのだ──と。
よっこらせ、と布団を畳むと、寿は立ち上がり、いつもの和服に袖を通す。
近くの着物掛けにはオレンジの羽織と帽子が外出を待っている。
「さて」
そう呟くと、寿はうーんと伸びをして部屋を出た。
一緒に暮らす、大柄な祖父に挨拶するために。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功