三日月暈
夜を喰い飽きた空に、ぽつりと三日月が残されている。
明るいくせにぼんやりと霞んで見えるのは、明日天気が崩れる予兆だろう。
「明日は雨か。……花散らしの雨になりそうだね」
雨夜・氷月は瞳の三日月をそっと眇めた。
桜が満開を迎えたと嬉しげに話す人々を見たのは数日前だ。氷月も行きあった別|世界《√》で桜を見たが、そういえば|√汎神解剖機関《このせかい》では見物していないかとふと気づく。
(せっかくだから見に行くか)
確かこの道の先に、桜並木があったはずだ。そう気まぐれに思いつくまま、氷月はいやに静まり返った夜に溶け合うように歩き始める。
別段桜に強い思い入れがあるわけではない。ただもうじき散ってしまうと知れば、もう一度と気を惹かれる心地が我ながら不可思議だった。
――ゆるやかに散っているのは、この世界も同じだろうに。
くすくすと自分の思考をどこか他人事のように笑っていると、すぐ桜並木にたどり着いた。
真夜中とあって、人の気配は感じられない。からころと音を立てて転がっていく空き缶に構うことなく、氷月は月光を浴びて青白く浮かび上がるように咲く桜を見上げた。
はらり、ひらりと降り落ちる花弁は何よりの春の象徴だのに、――こうして夜に透かせば雪のようでもある。
氷月がそっと手を伸ばせば、溶けはしない花弁が遊ぶように手のひらに収まる。
これだけ散り始めていれば、雨が降れば今年の桜は散り終えてしまうだろう。
「散る様が惜しいと感じるのは……何故だろうね」
綺麗だから、儚いから、多くのひとに愛されているから。思い浮かぶ理由はあれど、氷月には馴染まない。
なら、何が惜しいのだろう。
夜の桜並木をゆっくりと歩きながら氷月は思い巡らせ、ふと花弁越しに空の三日月と目があって、結論に至る。
――桜が、ひとに似ているからだ。
ほんのひとときの生を謳歌し、惜しむ間もなく散ってしまう。満ち足りた|満開《とき》などろくになくとも、それで充分だと言わんばかりに。
「……じゃあ、どうして」
呟いた氷月の声は冷えた夜風に花びらごと攫われてゆく。
ならどうしてひとを惜しむ心地があるのか――それは掴むことができないまま、氷月は雨を連れてくるだろう月暈を笑いもせずに見上げた。
氷月はひとではない。そんなことはとうに飲み込んだ。だからこそ時折笑って人の世の倫理を飛び越える。
それでも人として育てられた記憶があるのも確かだ。――ひとに絶望したのも、確かだ。
それなのに。
「なのにまだ綺麗だと思うんだ、俺」
自嘲するように――同じほど安堵したように、氷月は笑う。ひとではないから、人に擬態した心は上手く掴めない。散りゆく桜に再び伸ばした手は、今度は花弁を捕まえられない。それでよかった。だって。
「にんげんみたいだ」
とうにやめたと思っていたのに、どうやら欠片は一片でも残っていたらしい。気づいたまま、思わずくすくすと笑ってしまう。
「……じゃあ、俺はそろそろ帰るけど。また来年見に来るよ」
物言わぬ桜並木へ語りかけてみる。空の三日月にだっていい。あの月は、最後まで桜が散るのを見届けるはずだ。それからゆっくり、満ちてゆくはずだ。
「約束ね」
聞くひとのない約束を、散る桜と満ちる三日月が聴いている。――その約束はきっと、違えられることはない。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功