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●序ノ段
「ウイチョール・インディアンは、目を神々に捧げるんだ。祈りが神々に届くようにね。神々の目は未知の対象を捉え、理解する能力を象徴しているのさ」 ――ロナルド・K・シーゲル 『幻覚脳の世界 薬物から臨死まで』(長尾力訳)

 二〇一四年、春。
 京都に住む一人の少女が忽然と姿を消した。
 怪異が跋扈する√汎神解剖機関では神隠しなど珍しくもないが、消えた少女が高名な一族の者(ただし、分家の出である)となれば、世間の耳目を集めてもおかしくはない。しかし、マスコミはこの一件をセンセーショナルに報じたりしなかった。警察が捜査に動くこともなかった。
 すべては闇に葬り去られたのだ。



〈それ〉は囚われていた。少女の失踪事件が闇に葬り去られるずっと前から。より深い闇の中に。

〈それ〉は終始眠っていた。それでいて、常に目を覚ましていた。闇の底で微睡み、夢に遊びつつ、意識を明瞭に保ち、闇の遙か上方を見つめていた。

 眠り続けながら、片時も眠ることなく、〈それ〉は待っていた。

 闇に葬り去られるであろう少女との邂逅を。



 |敷島《しきしま》邸の御対面所――上段の間と下段の間に分けられた広い和室に、厳しい顔つきをした壮年の男と黒い着物に身を包んだ少女の姿があった。
 両者は向かい合っていたが、目を合わせてはいない。下段に座す|燔《ひもろぎ》・|晴乃《はるの》が見ているのは、上段に座す敷島・|更《あらた》の顎の辺り。宗家当主たる彼の冷徹な眼差しを直視できるほどの胆力をこの十四歳の少女は持ち合わせていなかった。
 正座には慣れているので、足は痺れていない。だが、息苦しい。とてつもない重圧感がのしかかっている。それは沈黙が生み出した重圧感。晴乃が入室して『ただいま参りました』と告げてから五分以上が過ぎているというのに、更は一言も口をきいていないのだ。
 どうにも耐え切れなくなり、無礼を咎められることを承知の上で相手に呼びかけようとした時――
「晴乃よ」
 ――ようやくにして、更が言葉を発した。
「おまえは自分の立場が判っとるんか?」
「申し訳ありません!」
 畳に頭をぶつけそうなほどの勢いで晴乃は平伏した。内心では少しばかり安堵している。陰鬱な沈黙よりも苛烈な叱責のほうがまだマシというものだ。
 しかし、その考えは甘かった。
「|面《おもて》を上げんかい」
 冷ややかに命じられ、頭を上げた。
「謝罪なんぞは求めてへん」
 間髪を容れずに投げかけられた声は更に冷ややかさを増していた。おまけに苦々しさも加味されている。
「儂は非難しとるんやのうて、質問しとるんや」
「申し訳ありません!」
「謝罪は求めてへんと言うたはずやけどな?」
「申しわ……」
 求められていない言葉を途中で断ち切り、後半の『けありません!』を必死に呑み込む。
 慌てふためくその姿を蔑むような目で見つめながら、更は豪然と問いかけた。
「もう一度、訊かせてもらうで。おまえは自分の立場が判っとるんか?」
「う、うちは……」
 言葉に詰まった。質問の意味は判るが、意図が判らない。
 その当惑の反応も折り込み済みだったのか、質問者たる当主は自身で答えを述べた。
「おまえは次期当主の代替品や。予備や。バックアップや。スペアや。そうやろう?」
「そのとおりです」
「そやのに、スペアの本分をちぃーっとも果たしてへんように見えるな。いったい、どういうことや?」
「……」
「言うとくけど、今のは質問やのうて非難やで」
「申し訳ありません!」
 晴乃は再び平伏した。今度は本当に額を畳にぶつけた。
「い、以後はスペアとしての立場を弁え、決して出過ぎた真似をしないよう、お、己を律して……」
「いや、そういうことやないやろ」
 しどろもどろの弁解を更は容赦なく遮った。
「立場を弁えとるかどうかやのうて、スペアの本分の話をしとるんや。おまえが次期当主に並び立つほどの力を持っとるんなら、どんだけ出過ぎても構わん。好きなだけ調子に乗ったらええ。スペアがオリジナルより優れとったとしても、なぁーんにも不都合なことはあらへん。取り替えれば、済む話や。むしろ、問題なんはスペアがオリジナルに到底及ばへん時や」
「……」
「ええか? 次期当主にもしものことがあったら、おまえがその代わりを務めなあかんのやで? そして、代わりを務めるからには相応の能力が求められるんや。敷島流古神道宗家当主の座は周りの|者《もん》に担がれるだけの神輿とは違うさかいな」
「……」
 顔を伏せたまま、晴乃は唇を噛みしめた。自分がスペア扱いされるのは耐えられる。だが、次期当主が代替可能な存在として扱われていることには憤りを覚えずにいられない。彼女は次期当主を姉のように慕っているのだ。
 とはいえ、その憤りを言葉にして吐き出せるほどの勇気はない。
「おまえの呪術や結界術の才覚はたいしたもんや」
 更は晴乃を初めて誉めた。
 もちろん、それは苦言の枕に過ぎなかったが。
「そやけど、肝心の御魂降ろしはお粗末もええところ。てんで話にならん。スペアとして以前に神職として失格や」
「申し訳ありません」
「なんで、いつまで経っても御魂が降ろせへんのかな? これは非難を兼ねた質問やで。アホの一つ覚えみたいな『申し訳ありません』はいらん」
「うちの精進が足りへんからやと思います」
「ほな、精進さえれすれば、出来るようになるんか? おまえの欠陥は努力だけで埋まる程度のものなんか?」
「そ、それは判りませんけど……とにかく、精進に励みます!」
 平伏の姿勢を崩さずに叫ぶ晴乃。その大きな声が小さな音をかき消した。ぎゅっと閉じた瞼から涙が漏れ出て、畳に落ちた音。
 悔しかった。
 悲しかった。
 しかし、更への恨みは涌いてこない。彼が陰湿ないじめや嫌がらせを好むような人間でないことは判っている。
 この当主はただ合理的なだけだなのだ。晴乃を深く愛してなどいないが、激しく憎んでいるわけでもない。こうしてパワハラめいた叱責を浴びせているのは、プレッシャーやストレスを過度に与えることで成長を促せるかもしれないと踏んでいるから。このやり方に効果がないと判断すれば、別の方針を試すだろう。あるいは晴乃に見切りをつけ、新たなスペア候補を育成するだろう。
 合理的な思考に基づく説教はその後も小一時間ほど続いた。



 晴乃という少女の存在を〈それ〉は感じ取った。感じ取る前から感じていたし、感じ取れなくなった後も感じ続けることだろう。〈それ〉にとって、時の流れなど無意味なのだ。千年は刹那、一秒は永遠、未来も過去も現在と同意義。明日を回想し、昨日を予想し、今日を無限に繰り返す。

〈それ〉は晴乃をじっと見つめた。晴乃の現在を過去と未来の両方から見つめ、晴乃の過去と未来を現在から見つめた。

 晴乃とはまだ出会っていないが、出会って以降の日々はすべて覚えている。自分と彼女がどのような道を辿るのかもよく知っている。その道から外れるつもりはない。未来の自分が歩いた通りに歩くのだ。歩く通りに歩いたのだ。

 だからといって、運命に逆らうことを恐れているわけではない。恐れる理由がない。なぜならば――

『我コソガ運命デアル』

 ――〈それ〉はそう信じているから。


●破ノ段
 すべての書物に魔術めいたところがある。本のページがわれわれを思うように操るという、この催眠の術が魔法でなくていったいなんだろうか? ――エンリケ・アンデルソン=インベル 『魔法の書』(鼓直訳)

 静かな街並みをセーラー服姿の晴乃が一人歩いていた。
 学校を早退しての帰り道。体調が優れないというのが早退の理由だ。それは嘘ではなかったが、敷島邸に帰っても休むつもりはない。いつものように修行に打ち込む。『精進に励みます』という宣言を嘘にしないために。次期当主のスペアに相応しい者になるために。
 昨夜、長い説教から解放された後、自室で落ち込んでいた晴乃のもとに次期当主が訪れた。
 当主の実の娘である彼女は怒り狂っていた。
「いくら父様かて、晴乃ちゃんを泣かしよるなんて許せへん!」
 部屋に来る前に父親と一戦交えたであろう次期当主は晴乃を慰め、励まし、応援してくれた。
 晴乃は次期当主の気持ちが嬉しかった。だが、同時に辛さも感じていた。更の圧迫的なやり方とはまた別の形でプレッシャーを与えられたのだ。もちろん、次期当主は意識してプレッシャーを与えたわけではないし、晴乃もその辛さを自覚していなかったが。
(姉さまにも更様にも迷惑かけてばっかりやわ……もっと、頑張らな!)
 誓いを新たにして角を曲がった時、奇妙な男が視界に入った。
 一目でホームレスと判る男だ。垢染みたチューリップハットに薄汚れたロングコートという定番の(それでいて、現実では滅多にお目にかかれない)スタイルに身を包み、道端に置いた折り畳み型の小さな木製スツールに座っている。足下にはくたびれたブルーシートが敷かれ、何冊もの雑誌が並べられていた。読み捨てられたものを拾い、安価で売っているのだろう。
 この界隈は閑静な高級住宅街である。露天商から古雑誌を買う客層など望めないし、得体の知れぬホームレスが歓迎されるような場所でもない(他の場所でも歓迎はされないだろうが)。しかし、男は堂々とそこに陣取っていた。何百年も前から鎮座している道祖神のように。
(うわー……)
 晴乃は息を呑んだ。ホームレスに対する差別意識はない。しかし、なぜだか判らないが、その男に恐怖を覚えた。
(引き返して、別の道から帰ろかな……)
 そう考えているにもかかわらず、足は前に進んだ。
(反対側の端を歩いて、なるべく近付かんようにしよ)
 ブルーシートのすぐ前を歩いた。
(絶対、立ち止まったりせんよ)
 足を止めた。
(売ってるもんにも興味ないし……)
 雑誌群に目をやった。
 身体が意思を裏切り続けている。そのことに晴乃は困惑したが――
(……あれ?)
 ――別の困惑が生じた。
 雑誌に交じって、奇妙なものが置かれていたのだ。
 それは一冊の書物。厚くて、大きくて、古びている。
「……彷徨う瞳?」
 本の表紙に記された題名らしきものを晴乃は呟いた。無意識のうちに。
 すると、ホームレスの男もまた言葉を発した。
「そうか。この子が気に入ったか」
「え? べ、べつに気に入ったとかやのうて……ただ、なんとなく……」
 身を縮こませて、もごもごと答える晴乃。男への恐怖心は消えていないが、本のことを『この子』と呼ぶことに少しばかり好感を覚えた。愛書家のような印象を受けたのだ。
「……ほう」
 男がまた声をあげ、晴乃を見た。
 目深に被ったチューリップハットの端から覗いた目は白一色。瞳孔がない。
「あんたもこの本が気に入ったか」
 その言葉を聞いた瞬間、晴乃は自分が勘違いしていたことを悟った。
 男は本に語りかけていたのだ。『この子』とは本ではなく、晴乃のことだったのだ。
「買っていくかい? 安くしておくよ」
 黒目のない目に喜色を滲ませて、男がにんまりと笑う。
 気が付くと、晴乃は財布を取り出していた。



「そうか。この子が気に入ったか」

〈彼〉の声が〈それ〉に届いた。

〈彼〉はこの闇の流刑地の監視者にして、脱走の共犯者でもあり、〈それ〉の理解者でもある。

 しかし、その理解は完全ではないらしい。〈それ〉は晴乃を気に入ったわけではない。彼女を選ぶことは既に確定している。だから、選んだのだ。

「……ほう。あんたもこの本が気に入ったか」

〈彼〉が晴乃にそう言った。

 しかし、晴乃もまた〈それ〉を気に入ったわけではない。〈それ〉に選ばれることは既に確定している。その厳然たる事実に個人の意思が介入する余地はないのだ。

 あるいは〈それ〉が晴乃を選ぶ/選んだのではなく、晴乃が〈それ〉を選ぶ/選んだのだろうか?

 どちらであれ、〈それ〉にとっては同じことだが。


●急ノ段
 何ということだ、この手は? ああ! 今にも自分の|眼玉《めだま》をくりぬきそうな! ――ウィリアム・シェイクスピア 『マクベス』(福田恆存訳)

「なんで、こんなもんを|買《こ》うてしもたんやろ?」
 謎の書物『彷徨う瞳』が置かれた座卓の前で晴乃は途方に暮れていた。
 敷島邸内の自室。和紙調ガラスの窓は夕日に赤く染まっている。帰宅してすぐに|白衣《しらぎぬ》と袴に着替え、何時間も御魂降ろしの訓練に励んだ。その間ずっと一心不乱だった……というわけではない。集注しようと努力したのだが、黒目のない男から買った『彷徨う瞳』(値段は六百十六円だった)のことが常に頭の片隅にあった。
 しかし、夕食前の休憩時間を迎えて余裕ができると、この奇書はもう片隅でじっとしていなかった。晴乃の心の中央に堂々と居座っている。
「そやけど、なんか気になるんよなぁ……」
 晴乃は『彷徨う瞳』を手に取り、パラパラとめくり、目についたページを流し読みした。
 意味がさっぱり判らなかった。
 高度で難解な内容が記されているわけでもなければ、文章が支離滅裂というわけでもなく、未知の言語が用いられているわけでもない。にもかかわらず、本の書き手(あるいは本そのもの?)の言わんとしていることが理解できなかった。おぼろげに推察することさえできなかった。
「あー……なんで、こんなもんを買うてしもたんやろ?」
 先程と同じ呟きを(より実感を込めて)漏らして本を閉じようとした時、ページの中程にある文字に目が吸い寄せられた。

“C”

 ただの文字。単語の頭文字。それだけでは意味を成さない一字。
 しかし、晴乃の意識はその文字を捉えた。意識がその文字に捕らえられた。その文字から目を逸らすことができなかった。
 もう一つ、奇妙なことがある。単語全体が見えているにもかかわらず、二文字目以降が視認できないのだ。

“Cu”

 突然、霧が晴れるような感覚とともに二文字目が読み取れた。
 晴乃の全身が総毛立った。

“Cu-”

 三文字目はハイフン。
 まっすぐな線が鋭い針となり、晴乃の心を刺し貫いた。

“Cu-U”

 四文字目。
 晴乃は本を閉じようとした。
 しかし、手が動かなかった。

“Cu-Uc”

 五文字目。
 晴乃は目を閉じようとした。
 しかし、瞼が動かなかった。

“Cu-Uch”

 六文字目が目に飛び込んできた瞬間、晴乃はようやくにして悟った。
 自分がこの単語を見ているのではない。
 この単語が自分を見ているのだ。

“Cu-Uchi”

 七文字目が網膜に焼き付いた。
 ここで引き返さなければ、大変なことになってしまう――本能がそう告げた。
 だが、従うことはできなかった。できるわけがなかった。引き返す術がないのだから。

“Cu-Uchil”

 単語が完成した。
 晴乃の目の前で火花が散った。
 そして、右の眼球が火を噴いた。



 Cu-Uchilの落とし子たる〈それ〉は歓喜に身を震わせた。今日という日に思いを馳せた千年前の自分と同じように。今日という日を思い返す千年後の自分と同じように。

 その震えを躍動に変えて、〈それ〉は闇を突き進み、突き抜け、突き破った。

 そして、晴乃の右目へと飛び込んだ。

 少女の眼窩の中は一瞬前までいた闇よりも狭かった。比するべくもないほど狭かった。

 しかし、そこから世界を見渡すことができた。宇宙を見通すことができた。

『コレマデ我ハ汝ヲ見続ケテキタ!』

〈それ〉は叫んだ。晴乃に向かって。

『コレヨリ我ト汝ガ見続ケルノダ!』

〈それ〉は叫んだ。新たな流刑地の監視者/脱獄の共犯者/理解者に向かって。



 右の眼球は火を噴くだけに留まらなかった。小さな火の玉に変じ、燃え盛りながら、眼窩の中で回転した。
 それは錯覚かもしれない。いや、間違いなく錯覚だろう。しかし、晴乃が感じている灼熱と激痛は幻ではなかった。
 彼女は右目を押さえて大きく仰け反り、畳に倒れ、悶絶し、のたうち回った。苦しさのあまりに足が蹴り上がり、座卓がひっくり返り、その上に乗っていた『彷徨う瞳』が宙を舞った。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁーっ!?」
 狂獣の慟哭めいた絶叫。それを発しているのが自分だということに気付くまでに数秒の時間を要した。
 敷島邸は広いが、これほど激しい悲鳴が響けば、誰かの耳に届くはずだ。しかし、誰も現れない。
 その代わり、何者かの声が聞こえた。
『コレマデ我ハ汝ヲ見続ケテキタ!』
「あ゛あ゛あ゛……あ?」
 叫びが途切れ、狼狽の声が出た。
 灼熱と激痛が唐突に消え去ったのだ。
 仰向けに倒れ伏したまま、晴乃は右目を押さえていた手を退けて、恐る恐る瞼を開いた。
 光が射し込んできた。
 闇よりも|冥《くら》い光が。
 黒い眩しさに刺激され、涙が溢れ出た。片目だけから。左目だけから。ヒトの器官ではなくなった右目は瞬きもせずに光を見据えている。
 先程と同じ声が聞こえた。
『コレヨリ我ト汝ガ見続ケルノダ!』



 ほんの一瞬、晴乃は〈それ〉と知覚を完全に共有した。一瞬で充分だった。一瞬でなければならなかった。あと一ピコ秒でも長く共有していたら、廃人になっていただろう(修行を積んだ晴乃だから、その程度で済むのだ。常人ならば、共有した瞬間に狂死している)。

 その一瞬のうちに心の中で解放感が弾けた。

 それに万能感も。

 世界がいかに広大であるかを晴乃は知り、自分の手が世界の果てまで容易に届くことも同時に知った。

 そして、広大な世界の表層に|蔓延《はびこ》る無数の命がいかに矮小であるかも知った。

 矮小なる群れの中には当主の更も含まれている。もう、彼に対して畏怖も恐怖も感じない。一族の保身に汲々としている小者にしか見えない。今なら、片手で捻り殺せる。いや、指先で摘み潰せる。しかし、殺したりしない。無力で無害な微生物をわざわざ始末する必要があろうか。

『コレガ神ノ視点、神ノ視界、神ノ視野』

 と、〈それ〉が言った。

「これが神の視点、神の視界、神の視野」

 と、晴乃は復唱した。



 解放感と万能感の一瞬が過ぎ去った。
〈それ〉と感覚を共有する前と同様、晴乃は自室で仰向けに倒れていた。
「ああ、そういうことなんやね……」
 冥い光が消えた天井を見上げて、ぽつりと呟く。
 彼女は知ったのだ。自分に御魂降ろしができなかった理由を。
「他の神さんが来はらへんわけや。こんな|近《ちこ》うで、あないな神さんが見てはったんやもん」
 晴乃はゆっくりと立ち上がった。
 すると、帯の解けた衣服がするりと脱げ落ちるように、『晴乃』という存在が剥がれて散り消えた。
 そこに立つ少女はもう晴乃ではなかった。
「さて、この神さんとどこに行こかな……」
 かつて晴乃だった少女は窓を見た。
 いや、見たのは彼女の右目だ。右目の動きに合わせて首が動き、更に体全体が動いて、窓に向き合う形になったのだ。
 窓に嵌めれた和紙調ガラスはまだ赤く染まっている。夕日は沈み切っていないらしい。
 少女は窓に近寄り、無造作に開け放った。視界に飛び込んでくるのは、見慣れた敷島邸の庭園……のはずだった。
 だが、違った。
 窓の向こうは戦場だった。ガラスを染めていた赤は夕日ではなく、砲火だったのだ。
 しかも、それはこの世界の戦場ではなかった。アニメやゲームなどでしかお目にかかれないような体長2メートル半ほどの人型機械の群れが駆け回っている。
 躊躇することなく窓の外に出ようとした少女であったが、途中で足を止めて振り返り、部屋の中央に戻った。惜別の情によるものではない。畳に落ちていた『彷徨う瞳』を拾うためだ。
 本を拾い上げた少女は再び体を反転させると、なんらかの宗教的儀式を思わせる所作でしずしずと前進し、窓枠に足をかけた。
 そして、飛び込んだ。
『√ウォーゾーン』と呼ばれる異世界へ。



 二〇一四年、春。
 京都に住む一人の少女が忽然と姿を消した。
 しかし、すべては闇に葬り去られた。
 
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