春のふりをした部屋で
その部屋の棚には、幾つもの柔らかな灯りが並んでいた。
欠落標本室――ふと、そんな言葉が浮かぶ。
迷い込んだ√の狭間や、夢のなか。そんな朧な場所に現れる、不思議な部屋。
訪れた人によって様変わりするという室内は、どこか廃校の午後の一室を思わせた。
確かに人がいたことを窺わせる使い込まれた木の棚に、蔦の芽がのぞきはじめた木目の床。春のようにあたたかく見えて、けれど写真越しに見る風景のように、熱はない。
窓辺から舞い込んだ桜の花びらが落ちた床を、ゆっくりと歩き出す。
棚にずらりと並ぶあかりは、硝子の標本箱だった。中に1枚ずつ、写真が丁寧に収められている。
――桜の木の下でランドセルを背負った私。
――動物園でゾウの柵の前に立つ、笑顔の私と友達。
――きらきらと光る海を背にはしゃぐ、私や家族。
――家のリビングで、誕生日ケーキとご馳走を囲んだ写真。
私に取り憑いた『百目の女』は、文字通り“すべて”を見透かした。
知りたくもないのに、この眼を通して、誰も彼もの欲を暴いた。
嫌われた。
怖がられた。
笑っていたはずの顔が歪んでいくのを、何度も見た。
気味悪がって離れてゆく人たちを――それでもそばにいてくれようとした人たちを、止めることはできなかった。
こわかった。傷つけたくなかった。
だから「仕方ないよね」とか「それが普通だよね」とか、自分に言い聞かせるように笑って、過去においてきた。
私をはさんで並んで写る、母と父。私と手を繋いで、幸せそうに笑っている。
言葉にならない声が、喉の奥でうずく。
涙じゃない。けれど、なにかがあふれそうになる。
私を護ろうとしてくれた手。
わからないなりに、抱きしめてくれた手。
あの日、うまくいえなかった「ありがとう」の言葉。
“百目の女”は、私からたくさんのものを奪った。
あのころの愛も、夢も――そして、縁までも。
――でも。
ひとつ、深く息を吐いた。心のどこかが、すこしだけあたたかくなる。
写真に手を添え、そっと眼を閉じる。
「あのね、私にも傍にいてくれる大切な人ができたの」
知りたがりの愛おしいひと。時折、漫才のような弾むやりとりのできるひと。
――私にぬくもりを、くれるひと。
「……だからもう、心配しなくていいよ。おかあさん、おとうさん……」
私はしずかに踵を返して、部屋を出る。
さようなら。
だけど、それはまた歩き出すための――さよなら。
🔵🔵🔵🔵🔴🔴 成功