酒影に馳せる
堕ちてきた世界は、思いのほか騒がしかった。
先の見えぬほどに聳える大樹の代わりに、無機質な高層ビル群が群れを成していた。翼を持たぬ人々は箱型の機械に乗り、空ではなく大地を行き交う。水も、空気も、汚染されているというほどではないが、天上界ほど眩く澄んでいるとも言えなかった。
突如、天から様々なものが――天上界の遺産も、人々も――降ってきた地上は、普段を知らぬ私でも容易くわかるほど混乱していた。
セレスティアルの翼に気づいた人々の視線から逃れたい一心で、私は咄嗟に路地裏へと逃げ込んだ。街灯に照らされた薄暗い道を、低く唸るような風が通り抜けていく。久々に素足で触れる大地は、柔らかな土ではなく、硬く冷ややかな感触ばかりだった。
「あ……」
視界の隅で、古びた看板のひかりが微かに揺れた。読み慣れぬ書体で刻まれてはいるが、かろうじて『BAR』の文字だけは読み取れた。半ば引き寄せられるように細い階段を下りると、そこには扉がひとつ、洋燈に灯されながら静かに佇んでいた。
迷う理由はなかった。どうせ行く宛などないのだ。疲れ切った腕には重い扉をどうにか押し開けると、仄かに酒精の香りが鼻をくすぐった。客はおらず、奥まったカウンターにひとりの男が見える。
「いらっしゃい。おや――初めてのお客様、ですね?」
その問いに一瞬、息を呑んだ。この世界に堕ちてから、初めて誰かと交す言葉。ほんの数刻前までは、当たり前のようにあった人との交流。それが再び訪れたことに、知らずと息詰まっていた呼吸がゆっくりと解け始める。
「お名前を伺っても? なに、ここは一時の場。仮初の名で充分です」
「……|縁《ゆかり》」
ふと、浮かんだ言葉を口にしていた。天上にいたころ、書物で学んだ地上語のひとつだ。
神々や天使たちからは、“グラーティア”と――仲の良い間柄ならば、愛称の“ティア”と呼ばれていた。『神様が与えてくれたもの』という意味の、私の名。だのに、何故か口にするのを躊躇った。
明らかに異質な真白の翼を持つ私を、マスターらしき男は訝しがる様子もなく、ただ穏やかな声音で、「いい名前ですね」と言った。
「いい名前……?」
「ええ。ご縁、という意味もあるんですよ」
書物には確か、“間柄”と記されていた。同じような意味の言葉なのに、マスターの声を介して響く言の葉の音は、何故だか吟遊詩人の謳を聞いているかのような柔らかさがあって、私はちいさく瞠目する。
「えん……ゆかり。ヒトとヒトの、目に見えない繋がりのことをいいます」
そう言って、マスターは眼前に置いたグラスへと氷を入れた。「お酒はお強いですか?」と聞かれて頷くと、手際良くシェイクした酒を上品に注ぐ。
木目のカウンターに淡く零れる、揺らめく緋色の輝き。
「――では、“始まりはここから”ですね」
✧ ✧ ✧
彼がしてくれたように、如月・縁は手慣れた所作でケープ・コッダーを作り、一口煽った。ウォッカとクランベリージュースの交わる澄んだ甘酸っぱさは、あのときの味とまるで変わらない。
逢えたのはあの夜、ただ一度きり。翌日、再び訪れた店はもぬけの殻となっていた。以来、そのまま店に居着いている。
あの日は決して、別れだけではなかった。
マスターに出逢い、この店と出逢い、そうして今、此処を介して様々な出逢いがあった。頼れる誰かがいないなかで、幾つもの縁を紡いでこられた。――あの日、この名に託した願いの通りに。
いつか、|あの名《グラーティア》を名乗れる者も現れるだろうか。
そうあって欲しい。
あの日と同じように密やかに祈りながら、縁はグラスに揺れる緋色へと淡い笑みを落とした。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功