双翼のコントレイル
●翊・千羽(h00734)の過去
――|翊《あくるひ》・|万大《ばんだい》の夏の記憶は、電車の音と深く結びついている。
いつもの帰り道、幼かった弟の手を引いて踏切の近くを通ろうとした時、黄色と黒の遮断機が下りた。カンカンと頭上の警報機が鳴り、赤いランプがゆっくり点滅する。
「あ、電車だ」
遠くのほうから古い列車が近づいてくるのを、ふたり並んで見守っていた。手を繋ぎながらも、弟は早く踏切を渡りたいとうずうずしているようで、警報機のリズムに合わせて足踏みする音が聞こえてきた。
ガタン、ガタンガタン――電車の音がどんどん近くなる。
その時だった。線路の向こうに何かを見つけたように、弟が「あっ」と声を上げた。直後、繋いでいた筈の手がするりと解けて、その小さな背が遮断機の下に潜り込む。
(え、っ――!)
警笛が響いたと思ったら、あっという間に電車は踏切までやって来ていた。
――頭が真っ白になって、すべての音が遠ざかっていく。
吹きつける風とともに、目の前を幾つもの車両が通り過ぎていくのを、万大はただ見ていることしか出来なかった。
(……あの小さな手を、なぜ放してしまったんだろう)
いつしか、しつこく鳴り続けていた警報も収まっていた。年季の入った遮断機が、のろのろと上がる。焦点の合わない目で、しばし呆然としていた万大だったが――それでもどうにか踏切を渡ろうとすれば、
「|千羽《ちはね》?!」
いなくなったはずの弟が、何ごともなかったかのように向こう側に立っていた。
陽光に透ける白い髪に、いつもと変わらぬふんわりとした笑みを浮かべて。その背中のリュックには、大好きな飛行機のキーホルダーだってちゃんと下げていて――。
(どうして)
自分の心臓の音だけが、辺りに響く。
やがて――千羽がゆっくりと、大きな瞳を瞬きさせて、空の彼方を指さした。
無垢な笑顔が、いっそう眩しく見えた。
(――ひこうきぐも)
そう。あの日は、やけに空が青い日だった。
どこかへゆく飛行機が残していった、白く尾を引くその雲に、どうしてだか手を放して駆けていった弟の背が重なった。
(!?)
直後に、世界に音が戻ってくる。割れるような蝉の合唱が耳についた。遠くから聞こえてくる子ども達の声。急いで千羽に駆け寄って、そのままふたりで空を見上げる。
自分たちの背丈より大きな向日葵と一緒に、青空に線を引いていく飛行機雲を――ただ、黙って見つめていたのだ。
もしかしたら。あの夏の日に、線路の向こうに消えた弟を追って、万大は違う“千羽”を連れ帰ってしまったのかもしれない。
「よし、千羽。遊びに行くぞ!」
感じる違和感は殆どなかった。万大の他には誰も、彼らの両親ですら気づいていなかっただろう。だけど万大だけは、それは今までの弟ではない、何か別の存在なのだとうっすら気づいていた――気づいた上で受け入れて、変わらず兄として振る舞った。
千羽がいてくれる、それだけで良かったのだ。だってあの日、失ったものを見せられていたら、万大の心は壊れていたかもしれないから。
小さな違和感は、ふとした時に、そういう場面に至らなければ分からない程ではあったが――唐突にやって来た。
「ほら、車が来た。……気を付けるんだぞ?」
「うん」
ふたりで出かけた時のことだ。交差点を歩いていた老人が、道の真ん中でよろけて転びそうになった――その瞬間、すぐに千羽が駆け寄って身代わりになった。
「あっ、千羽!?」
信号は青だったとは言え、急に飛び出したのでひやりとしたのを覚えている。
こんな風に、誰かが困っているのを見ると、千羽は脇目も振らずに助けにいった。いつもはのんびりふわふわしているのに、こうなれば別人みたいに頑なだった。
気を付けるように、と言えばしっかり頷くので、理解はしているようだった。それでも、千羽はいつも危うかった。いつも黄泉に手を引かれているような、危うさがあった。
――ある時は、ボヤ騒ぎの火を素手で止めようとした。
――またある時は、溺れた子供を助けようとして自分が溺れかけた。
誰かが危機に直面すれば、考える間もなく飛び出していく。自分がどうなろうと誰かを助けるのだ、という彼の強い意志は、もはや魂に深く刻まれた本能のように思えた。
(だから、)
千羽のために、両親が犠牲になったのは避けられないことだった、と万大は考えている。
「兄さん、ごめん」
お前のせいじゃない、と震える声が告げるより先に、千羽はすべてを受け入れていた。
ぐしゃぐしゃになった車と、辺りから立ち昇る黒い煙。消防やパトカーのサイレンがけたたましく鳴るなかで、それでも千羽は懸命に笑顔を作ろうとして、困ったような顔になったまま空を見上げた。見上げるその空よりも、もっと果てを見ているようだった。
「……お前が無事で、良かった」
それだけをどうにか呟けば、涙が零れた。紛れもない万大の本心だ。
たとえ別の存在であろうと、この子は千羽なのだ。それを当たり前のように受け入れて、今までずっと暮らしてきたし、これからもそうだ。だから――、
(これ以上、誰かに迷惑はかけられない)
両親の葬儀を終え、親戚のおじさんからふたりを引き取ると申し出があった時、万大は千羽を連れてこっそり家を出た。
(誰も知らないところにいって、ふたりだけで暮らすんだ)
そうして誰にも迷惑をかけず、千羽を守ることができたら、と思っていた。
子どもにそんなこと出来るわけがないのに、本気だった。
ふたりで電車に揺られて、遠くの見知らぬ駅で降りて。誰もいない改札をくぐってから、道らしきもののない山へと向かった。青かった空はだんだん茜色に変わっていき、辺りの木々が黒いお化けみたいにふたりの行く手を塞いだ。
「兄さん」
「だ、大丈夫だ千羽」
かすかに震える弟の手を、今度は離さないと万大は誓う。
その時、頭上で無数の鴉の羽ばたきが聞こえたと思ったら、二人の前に黒い影がとん、と降り立った。
「――人間、と、そっちは|取り替え子《チェンジリング》か」
大柄な男だ。年齢はよく分からないが人妖なのだろうか、背中に鴉みたいな黒い翼が生えている。片足で立ったまま、その男は万大と千羽をじろりと見て、ややあってからぽつりと言った。
「温かい飯をやろう。ついて来い」
喋りながら、男の身体がぐらりと傾ぐ。その様子を見て、千羽がふふと笑った。
これが、|刻天《ときのそら》という――これから兄弟が世話になる、鴉天狗との出会いだった。
●橘・未完(h03312)の過去
短い寿命を生き急ぐ、儚き美しさを持つのが人間なのだという。
いつしか、そんな種族に妖たちは魅了され、彼らを愛するようになった。なおも人間を喰らい、虐げる妖もいたが「古妖」と呼ばれて次々に封印されていった――。
この世界の|百鬼夜行《デモクラシィ》は、|橘《たちばな》・|未完《みかん》にとって遠いお伽噺のようだった。
物心ついた時から、古妖から奴隷として扱われてきた。親の顔は知らなかったが、同じような境遇に置かれていたのだろうと、何となく想像がついた。
暗い部屋に閉じ込められて、ろくな食事も与えられない。格子の鍵が開けられる時には、決まって妖がやって来て何度も殴られた。
「お前は、いい声で啼くよなァ」
怪物が丸太のような腕を振り下ろすと、一瞬で部屋の隅まで吹き飛ばされて息が出来なくなった。そこで意識を失えたらよかったのに、そのまま髪を乱暴に掴まれて宙づりにされる。霞んだ目で瞬きをすれば、ぎらぎらと輝く牙が未完のすぐ傍にあった。
「おっと、やり過ぎると死ンじまうな。……おい、もう少し啼けよ」
「……っ、」
黙っていると、桶で冷たい水を掛けられてしまう。しかし、悲鳴を上げようにも声がかすれて出てこなかった。苛々とした妖が、今度は首を絞めつけてくる――途端に咳き込んで、未完の小さな身体が床に転がった。
それから背中を何度か蹴られたところで、「今日」の仕置きは終わりだった。飯は抜きだ、と妖は言ったが、こんなに痛めつけられては食べることもできない。
けほけほっ――と何度か咳をして、未完はごろんと寝転がったまま天井を見上げる。隅のほうで蜘蛛がせっせと巣を作っていた。
(生きていくのって難しい)
子どもながら、そんなことを思う。生き急いでいる自覚はないが、ただ生きていくのではダメなんだ、と未完は疲れたように息を吐いた。
(だって、いつも痛いんだ)
痛いし、苦しい。日付も時間もよく分からないし、妖に痛めつけられるか、そうでないかを繰り返しながら、ずっと空腹感を抱えて生きている。
(……お腹、すいたな)
身体に上手く力が入らなかった。しかし、そんな未完の態度が気に入らないと、さらに妖は食事を抜いた。だんだん意識も曖昧になってくる。今、自分は起きているのだろうか、それとも夢をみてうなされているのだろうか。
「うぅっ」
――自分の叫び声が遠い。それを聞いた妖が、楽しそうに嗤っている。
何がそんなに楽しいんだろう。悲鳴をあげる傍らで、どこか他人事みたいに未完は思う。楽しいと笑うのだっけ。でも、笑うにはどうすればいいんだろう。
試してみようとしたが、表情がうまく動かなかった。元からこうだったっけ、と昔を思い出そうとしても、霧に包まれたみたいに何も分からなかった。ああ、と未完は、いつしかこんな風に思う。
(……生まれた時から、こうだった気がする)
「――お前がこいつの面倒をみるんだ」
ある時、未完のところへ来た古妖が、そんなことを言って幼い女の子を置いていった。
奴隷として買ったのか、それともどこからか攫ってきたのか。未完よりも四つくらい年下のその子は、自分がどんな境遇に置かれたのかも分からず、薄暗い座敷牢を不思議そうにきょろきょろと見回していた。
(面倒を、みる……?)
指示を仰ごうにも、妖はさっさと居なくなっていた。どうしていいか分からなくて、未完は呆然とする。自分以外の人間と触れ合うのは初めてだったし、食事だって相変わらず満足に与えられていないのに――、
(……えっと、)
ぼんやりとした頭で、それでも未完はどうにか女の子を抱きかかえて、他にはどうしようもなかったので――その鮮やかな黄をした、柔らかな髪を撫でた。
(あ。笑った)
途端にぱあっと、眩しい光が射し込んだみたいに女の子が笑う。
ここがじめじめした場所だなんて、一瞬忘れてしまっていた。何がそんなに楽しいんだろう、なんて疑問に思うこともなかった。
その子の愛らしい笑みを見ているだけで、未完の胸が何か温かいもので満たされていく。ただ、笑っていてくれる――それがたまらなく愛おしくて、涙が出た。
(……っ)
思わず、ぎゅうと少女を抱きしめれば、心を満たしたぬくもりに似た、確かな熱が伝わってきた。くすぐったいのか未完の腕のなかで、きゃっきゃと女の子がはしゃいでいる。
(あったかい)
――この子を守りたい。そう思った時、未完の眸にひかりが宿る。
奴隷のように扱われることを、今まで黙って受け容れてきたけれど、この子をそのような目に遭わせたくないと強く願う。
(……この子を、こんな場所に置いてはおけない)
何も知らないこの子から、笑顔を失わせるわけにはいかない。それが、初めて生きる意味を見出した未完の、希望のようなひかりとなった。
それから未完は、その少女のことを|恋文《れもん》と呼ぶことにした。鮮やかな黄色の髪が、檸檬みたいで綺麗だったから。
(どうしたらいいか分からないなんて、もう思えない)
どうやってここを抜け出すか、そればかり考えてしまう。恋文が連れて来られてから、妖の周辺は慌ただしくなっているようで、何とか隙を見て逃げ出せないか、と未完は必死に考えを巡らせる。
(俺みたいな目に、一度だって遭わせたくないから)
ふたりを見世物小屋で披露するつもりだとか、そんな話も聞こえてくる。思わず身震いしたが、これはチャンスだと自分に言い聞かせて、未完は脱出の機会をじっと窺った。
――それから数日後、準備やら何やらで妖怪たちが駆け回っている隙に、未完は恋文を連れて逃げ出した。もう抵抗する意思は無いだろうと、見張りもほとんど居なかったのが幸いした。明け方の薄暗い時刻を狙って、翔けて、翔けて――翔け続けた。
出鱈目に繋がる建築物を通り抜け、古妖の社をだいぶ過ぎてから、何もない原っぱを恋文の手を繋いだまま走る。追いつかれないくらい遠く、遠く――、
「お、兄ちゃ……っ!」
「もう少しだからな、恋文」
息の上がった恋文を、最後はおぶって走りながら、いつしか未完は高い丘の上まで来ていた。すでに辺りは明るくなっていて、遠くにぽつぽつと民家の屋根が見える。
「あ……」
肩で大きく呼吸をしながら妹を降ろして、ふたりで青く澄んだ空を見上げる。
頭上の太陽が眩しかった。眩しくて目を開けていられないのに、それでも未完は懸命に手を伸ばす。それが恋文と出会った時に見出した、希望のひかりなんだと思ったから。
「人間か。……どこかから逃げてきたのか」
そこで、ふたりは鴉天狗の大男――刻天に保護されたのだ。
●紙飛行機とホットケーキ
どうやら刻天という人妖は、身寄りのない子どもを引き取って面倒をみているらしい。種族を問わず色々な子が彼の元で暮らしていて、彼の家からはいつも賑やかな笑い声が響いていた。
「みんな、仲良くするように」
未完と恋文が刻天の元にやって来たのは、千羽と万大が助けられて少ししてからのことだ。新しい仲間を子ども達に紹介する、その刻天の体がぐらりと傾けば、すかさず千羽が駆け寄ってさっと支える。
「おっと、これは失敬」
どうも片足で立つのが好きなようだが、バランスを取るのは苦手らしい。
おどけた声をあげる刻天を、周りの子たちは「またやってる」なんて慣れた様子で見ているものの、その姿を初めて目にした恋文は朗らかな声で笑った。
「あははっ、ときちゃんっておもしろいね!」
「……ふむ。ときちゃん、か」
子ども達からは「おじちゃん」なんて呼ばれることの多い刻天であるが、恋文からは若く見られているらしいと知り、腕を組んだまましみじみと喜びに浸る。
そうしてたっぷり喜びに浸ってから、いそいそと仕事に戻っていく彼を皆で見送れば、改めて未完が自己紹介をしてくれた。
「俺は未完。この子は恋文だ、よろしくな!」
「うん、よろしく。未完、恋文」
元気いっぱいの未完に対し、千羽はふわふわと柔らかな物腰で、ここには居ない兄についての説明もする。
「万大……オレの兄さんもいるけど、今は刻天のお店の手伝いをしてる」
「へぇ! ってあの人、何の店開いてんの?」
「『幸福になれるお店』だって」
のんびりとした素振りで千羽が答えれば、未完の笑顔がちょっぴり強張った。
「……何、その怪しすぎる店」
妹の恋文は素直に「すごーい」と喜んでいるが、世間一般の反応だと未完のほうが正しいだろう。ちなみによろず屋らしいが、名前のせいで客がなかなか来ないようで、現在は常連の妖怪たちのたまり場と化しているのだとか。
――そんな感じのやり取りをしながら、彼らの日々はゆっくりと過ぎていった。
元来のマイペースな性格もあってか、千羽はひとりでのんびり過ごしていることが多かったが、未完はいつも笑顔を振り撒いて、甲斐甲斐しく皆の世話を焼いていた。
身寄りのない子たちが集まるなかで、常に気を張っている感じがした。自分がしっかりしなければ、笑顔でいなければ――と、必死になっているみたいだった。
「……あれ、恋文は?」
ある日、木の下に座り込んでいた千羽の元へ、未完が近づいてきた。
妹が一緒ではないことに気づいて訊ねれば、彼は黙って庭のほうを指さした。砂場の近くで、恋文は他の女の子たちと一緒におままごと遊びをしていた。
「じゃあ、れもんちゃんは私の妹ね!」
「えー、あたしも恋文ちゃんのお姉さんになりたい」
どうやら彼女は、他の子たちにすごく可愛がられているらしい。刻天の店にあった食器や、付喪神の常連さんから貰った人形を周りに並べて、はしゃぐ少女たちの声がこっちまで聞こえてくる。
「未完も混ざればいいのに」
「あはは。混ざっても良かったんだけど――、」
本気なのか冗談なのか、真顔でそんなことを言った千羽と目線を合わせるように、未完はそっと地面に屈みこむと首を傾げて言った。
「千羽が気になってさ。何してるんだ?」
「紙ヒコーキ、折ってた。……未完も折る?」
その言葉を裏付けるように、千羽の周りには沢山の折り紙があった。色とりどりの紙で折られたそのひとつを手に取ると、千羽は思い切って頭上へ放つ。
「でもオレのヒコーキ、全然飛ばないんだ」
ひゅるん、と同じところをくるくる回って落ちてくる紙飛行機。それを拾った未完が、からからと笑った。
「じゃあさ。どうすれば遠くまで飛ぶか、色々試してみようぜ」
「――うん」
こんな風に年の近いふたりは、いつしか一緒に過ごすようになった。
同年代の男の子が、他に居なかったせいもあるだろう。
だけど未完にとって、千羽は初めてできた友達だったし、千羽のほうだって――兄の万大と一緒に、住み慣れた家を出てここへ来たばかりだったのだ。
だから。そんなふたりがある程度仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。
――ひゅるん。何度目かの紙飛行機を、千羽は空へ飛ばす。
ふたりで工夫を重ねるうち、初めの頃より飛ぶようになってきたけど、未完と一緒にいて気にかかることが、千羽にはあった。
(未完は、弱音を吐かない)
出会ってから、ずっと。いつだって彼は明るくて、気配りが上手で、千羽と話すようになってからも愚痴ひとつ零さない。
刻天の元へ来る子たちは、皆何かしらの事情を抱えているし、それを詮索したりはしないけれど――それでも、未完がこれまですごく大変だったことは、何となくわかる。
(でも、いいんだよって言いたいな)
ひゅるん、と青空を切り裂いて、白い紙飛行機が飛んでいく。
子ども達の遊ぶ庭を横切り、刻天の店の看板を過ぎようとしたところで、それは力を失って軒先に落ちた。「幸福」にはあと一歩届かずといったところか。それでも千羽は特に気にした素振りもなく、次の紙飛行機を折り始める。
――いいんだよ。オレみたいに、のんびりしていたって。
それから少しして。刻天から台所を借りた千羽は、未完に食べてもらおうとホットケーキを作ることにした。
椅子の上で背伸びをしつつ、まずはボウルに卵を入れ――ようとして上手く割れず、卵の殻を丁寧に取り除いてから、次に牛乳を加える。
(あ、こぼれた)
なにぶん初めてなので、力の加減がよく分からないのだ。濡れた手を拭いてから、今度は薄力粉を入れる。刻天の買っておいたものをそのまま使って、後はぐるぐる混ぜればいいらしいけど、なかなか混ざらなくて手が痛くなった。
(でも、やらなきゃ)
それからフライパンに油を引いて、ちょうどいい火加減になるのを待つ。見た目はレトロなキッチンなのに、コンロはIHのヒーターなので火傷の心配もない。
あとは生地を落として――ん、かたちが変だ。表面にぶつぶつの泡が浮いたら、生地をひっくり返す――あれ、フライパンにくっついて離れてくれない。
(……ぶつぶつが、すごいことになってきた)
千羽が懸命に生地をはがそうとしている間にも、フライパンからは焦げ臭いにおいが立ち昇ってくる。このままでは拙い。
それでも千羽はマイペースに、次の生地の準備に取り掛かる。そうして――、
「未完に喜んで欲しくて、焼いてみたんだ」
どうにか焼き上がったホットケーキをテーブルに運んできた千羽が、椅子に座った未完に、ふわっとした笑みを浮かべて言った。
何層にも重ねたパンケーキの上には、四角に切ったバターとメイプルシロップ。形は少しいびつで、ついでに焦げ目もつきすぎていて、お世辞にも上出来とは言えなかったけど――それでも初めて作った、千羽のホットケーキだ。
「……!」
少し固めの生地をナイフとフォークで切り分け、それをひと口食べた未完の瞳が、一瞬大きく見開かれる。そうして何秒かの沈黙のあと、檸檬みたいな明るい瞳が不意に潤んで、彼の頬を静かに涙が伝い落ちていった。
「……こんなに美味しいの、食べたの初めてだ」
はらはらと流れる友達の涙を見て、千羽は戸惑った様子で首を傾げる。
「オレ、泣かせちゃった?」
「違うんだ、嬉しくて――なぁ、ちは、千羽」
慌ててかぶりを振る未完が、言葉をつっかえながら千羽の名を呼ぶと。それを聞いた千羽は、涙の染みたホットケーキと未完の顔を交互に見つめてから、ふんわりと言った。
「ちはって、いいな。その呼び方」
「ちは?」
うん、とちょっぴり口元を緩めて、千羽が頷く。それから、思い切って未完にこんなことを言った。
「オレも、みかって呼びたい」
その千羽の作ってくれた歪なホットケーキのおかげで、未完は甘い幸せの味を知った。
奴隷だった頃、いつもお腹を空かせてうずくまっていた辛い思い出を、ケーキの幸せな甘さが塗り替えてくれたみたいだった。
――お腹だけじゃなくて、心までいっぱいになる。いつか自分も、誰かのために美味しいお菓子を作って、こんな風に幸せを届けたい。
これが、未完がパティシエになりたいと思ったきっかけだった。
●滑走路
それから――未完と千羽はこれまで以上に仲良くなって、いつも一緒にいるようになった。万大や恋文も交えて、彼らは家族みたいに、あるいは兄弟みたいに、傍にいるのが当たり前のように日々を過ごしていった。
――大切な、幼馴染。
過ごした年月を振り返ってみれば、やっぱりそんな言い方がしっくりきて。そのうちに未完は、夢を語るみたいにこんなことを口にするようになった。
「俺は、恋文と千羽のヒーローになりたい」
「なんだそれ、かっけーな」
仕事の手を止めた万大が、未完に向き直って快活に笑う。それから、彼は何かを考えたような様子で、未完に手招きをすると店の裏手に回った。
午後の陽射しは眩しかった。恋文と千羽は、刻天の遣いに行っているのでここにはいない。ふっと目を細めて青い空を見上げた万大は、やがて思い切ったように口を開いた。
「なぁ未完。オレはこの世の何からも――千羽だけは奪われたくないんだ」
ここで暮らすうちに、分かってきたことがある。この世ならざる者によって、人間に預けられた魔性の子供――|取り替え子《チェンジリング》という存在についてだ。
弟の千羽は、そのチェンジリングで「取り替え」られた子なのかもしれない、と万大は言った。本人の記憶は曖昧なようだが、それでも自分は人間ではないという自覚はあって、人間の為に死ぬのが自分の役割だと、呪いのように信じ込んでいる。
「それが弟の宿命だとしても、それからだって、……奪われたくない」
親しい人々を、凄まじい宿命の渦に巻き込んでしまうのが|取り替え子《チェンジリング》のさだめなのだとしても、万大は自ら巻き込まれるのを望んでいるのだ、と言わんばかりの目で未完を見た。
「なぁ……俺が、未完も、恋文も守るから、」
強い意志を宿した赤色の瞳で、弟の幼馴染にたったひとつの頼み事をする。
「……だからお前も、どうか千羽を守ってくれないか」
決意するように、願うように。その、弟を思うひたむきな彼の姿に、未完はかつての自分が恋文と出会った時と同じひかりを見出していた。
「そんなの、前から思ってた。それとひとつだけ、付け足すならさ」
恋文や未完の笑顔をみると、自分も笑顔になれるから――人懐っこい笑みを浮かべて未完は大きく伸びをすると、それが当然だと言わんばかりに万大の肩をぽんと叩く。
「――万大だって、俺が守るよ」
そろそろ、あのふたりも帰ってくる頃だろう。
いつか見た空のように、太陽は眩しくて――真っ白な飛行機雲が、どこまでも遠くへと続いていた。
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