承認なき慈善
あの頃は平和だった。
彼はごく一般的な、そう、普遍的で、幸せな家庭と表現するにふさわしい家庭で生まれ育った。父母に何の問題もなく、家庭は実に平和であった。
昔から人懐こく、明るく。今と変わらないと言っても差し支えない。感情に合わせてくるくる変わる表情、|潑剌《はつらつ》とした声、人見知りもせず。優しさを知り、人に|寄り添う《・・・・》ことができる子どもであった。
唯一、そう、唯一だ。特殊であったのは、彼自身の周囲である。
彼の周囲には「平和」が付き纏う。幸福だったのだ。平穏だったのだ。
友人とはまともな喧嘩をしたことがない。そもそもクラスどころか、学校そのもので喧嘩や暴力といった物騒な事態が起きたことがない。
本来ならば学び舎とは、ある程度のトラブルを起こしつつ、互いを理解し合うための共同生活を送るための場所である。だというのに何も起きないのだ。職員同士の諍いもなければ、その周囲での事件事故などもない、『平和で良い学校』であった。
そして彼が一度でも関わった家庭、どれだけ不和であろうとも、何やかんやとよりを戻し、平穏に過ごすようになる。遠方の相手と喧嘩している友人も、少しのアドバイスで仲直りできた。いいや。認識した時点で――。
会社経営など。多少の赤字? 気にしなくて良い、そのうちさらっと黒字に戻り、そしてなぜだか赤字に戻り、ゆったり、ゆったりと繰り返す。進むことはないが戻ることもない安定感はお墨付き。
この街で事件の類など起きたこともない。多少の事故はあっただろうか? それでも報道に乗らない程度の些細なもの。
このあたりは平和だ。この街は平和だ。過ごしやすい……そう、過ごしやすいにも、ほどがあった。
誰も疑問に思わぬほどに。
彼の周囲は何をしなくても幸福であり続けた。幸福を奪うものなどひとつもなく。平和な光景だけが広がり続けていたのだ。
よその市で、国で、世界全体で事件や事故が起きていても、それはテレビや紙面などを通した情報でしかない。大変だね、そうだね、で終わってしまう。
インターネット上でも各所の報道や何やらがされているが、この街の話題は一切ない。正確には、ネガティブな話が見つからないのだ。
手遅れだった。
日常の平和。それを脅かすような、とても悪い出来事。それが一切――発生しない。
不自然である、異常である、だが平穏である。それ以上の意味はない。穏やかならば、それで良いじゃあないか。こんなに物騒な世界で、こんなに幸福な街、他にあるというのか? いいや、ない。実際、なかった。
初めてその『異常性』が察知されたのは、彼が高校に上がる頃だった。機関に観測された異常の中心に居た少年、その名は、杜若・姫榁。
――平和で止まっていたはずの穏やかな日常が、突如終わりを告げたのだ。
その異常。けして、暴力的なものではない。それこそ「災厄」と呼ぶには甘ったるいにもほどがある。
砂糖とミルクがたっぷり含まれたカフェオレのような。とろけるバターに蜂蜜をかけたパンケーキのような。
あるいはティラミス、プリン、その他ありったけの甘いもの……。
与えられたのは、幸福な日常。平和で何不自由のない生活。
それはある種の『黄昏』である。
……人々は緩やかに進化を止めた。
たとえば摂食という本能。栄養さえあれば、何でも良いのだ。決まったメニューを繰り返し作り、それを食べていればいい。
たとえば繁殖という本能。子を作り次代を残すという行動、それを人々はぴたりと止めた。
ありとあらゆる本能が、人々が、停滞を望むようになった。何に対する意欲もなく……学びや、仕事。挑戦、冒険。小さなこと、逆上がりを諦めるだとか。大きなこと、会社経営を諦めるだとか。
未来への夢を失ったかのように、人々は緩やかに……そう、緩やかに、『活動』を止めた。誰一人として、悲しむこともなかった。恐怖することもなかった。ただただ、その『平和』に満足していたのだ。
結果、どうなったか。
――ひとびとは夢見るように眠りに落ち。そして、目覚めなくなった。テーブルに突っ伏すように眠る女。ソファに寝転び、猫を腹に乗せたままの男。遊び疲れたかのように、木陰で並んで眠る少年少女。
姫榁を残して。眠ってしまった。
機関は彼が「そう」であると断定した。唯一の『まともな生存者』である。
これが異常でないとすれば、何になるのか? 異常の中心たる彼とて、眠る人々に疑問を覚えないわけはなかった。彼を保護するという名目で、機関は「|それ《・・》」を確保することに成功したのだ。
彼を監視下に置き、その効力を確かめる。街に広がっていたあの「穏やかさ」は、すぐに収容施設の内部へと広がって――ああ、これでは仕事にならない。ならないのなら、仕方がない。眠るしかないのだ、何もできないのだから――。
……眠りに落ちなかったのは、『その手のもの』に耐性がある√能力者のみ。
それゆえに、彼をこう名付けよう。
おまえは、人間災厄「安息日」である。
与えられた名の穏やかさに反し、彼の能力は強大である。
己の意図せぬ干渉であること。ひとところに長く留まれば、必ず「安息日」を起こすのだ。誰かのもとに留まれば――人間的な生活を送らせてしまえば、彼は強大な災厄として、人類の停滞を、黄昏を加速させるのだ。
それでは封じるも何もあったものではない。
ならばこの災厄、どのような処遇にすべきだろうか。
――結果、彼は――。
……職員は語る。
「安息日? ああ……あの頃は平和な時期でした。普段はね、どこもかしこも忙しそうだったのですが……」
顎を揉む男、どうにも懐かしそうに、愛しそうに笑みを浮かべて。
「あれがここに収容されている間はね。だあれも……そう、誰も、それを疑っていなかったんですよ」
あの眠りは……それは、それは、幸福な時間であったと。職員は深く頷いた。
……|辿り着きたい《かえりたい》と願うなら、そのカフェの鍵はとっくのとうに開いている。
ようこそ、平穏な日常へ。ここに『留まって』いくと好い。
どこにでも在って、どこにも無い――そのような√として存在する喫茶店、「カフェむかゆ」。
店長たる「安息日」は、いつでも穏やかだ。いつでもあなたを歓迎する。そう、いつでもだ。
つらかった? かなしかった? そう、大変だったね。肯定。肯定だ。|寄り添う《・・・・》ことだけは知っている。
己は、安息日たる杜若・姫榁は、そのような経験をしたことがないのだから。
……ここなら何の作為も、意図も、しがらみも、すべて忘れて穏やかなままでいられる。
訪うのは簡単だ。逃れるのも簡単だ。そして、とらわれるのも、簡単。
とらわれたいのか。
それは奇特な。
どうして? とは、聞くまでもないか。
安息日は、そこで待っている。
いいや利便的にこうしよう。
あのカフェはいつでも、金曜の日没から、土曜の日没にある。あるいは、11月11日か。どれほど外が明るくとも、暖かくとも、あのカフェは黄昏の中にある。
さあ鍵は開いている、ドアノブはそこにあるのだ、何をためらっている? 手をかけるがいい、開くがいい。
その店にこそ、パンドラの箱の中……最後にこびりついていた、「希望」が居るのだから。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功