『嬉しい知らせ』
「はぁ……」
大きなため息が出た。
目の前には大きな花菖蒲の入ったバケツ。青紫の色がつやつやとして差し色の黄色は綺麗で、バイトながらうっとりするほど綺麗だ。けれど、これが今の僕のとても大きなため息の種だった。
発注間違いなんてよくあること。そう、僕がやらかしてしまったのだ。いくら時期とはいえとても一日で捌ける量じゃなかった。
「どうしたもんかなあ……」
なお、誤発注の代金はきっちり僕のバイト代から引かれるようだ。ようだ、というのはこれからしばらく代金文のタダ働きが続くということで「今現ナマで払えって言われないだけマシだと思えよ!」というのは店長の弁。がっはっはと響いたまぶしい笑顔が憎い。
それにしたって、保険だとか入っているものじゃないのか? とはいえ、店長には恩もあるにはある。ブラックだからといってそう簡単に辞めるつもりは一応ない。
「百輪なら、ご自由にお持ちくださいって書いとけば無駄にはならない気がするけど……」
しかし僕のお金だ、それもなんだか癪である。けれど破棄はもっとくやしい。
だが放っておけば花は枯れる。時とは残酷なものなのである。
「そうだ」
どうせ同じタダでどうにかするなら、自分が納得できる使い道のほうがいい。
ふと、脳裏を過ぎったのは、先日のあのお酒の香りが馨る女神のような人。ややピンクに寄った一輪の菖蒲の、鮮やかな花弁の陽に透ける端があの髪色を思わせて。
あのあと結局バーにお邪魔させてもらって、一杯だけ軽いお酒を作ってもらったけれど、それがとても素敵で忘れられなかったのだ。僕がまだ成人したばかりだと聞いて『ならこれぐらいでしょうか』と作ってくれたお酒は、鮮やかな色と柑橘系の味が本当においしかった。
もう一度あの人にも会いたいし。という下心……などではない。いや否定はできない。けれどあの人がこれを喜んでくれるのなら、それも悪くないかなと思えたのだった。
●
原付を走らせ、以前あの人を送っていった店のある辺りへとやってきた。
大きな花菖蒲のバケツはそれだけで目立ち、このままあちこち走り回るのは辛いか、せめて店においてくるべきだったか……と少しだけ後悔をしはじめていたが、幸いあの人はすぐに見つかった。この辺ではあちこちで飲んでいる人だと有名らしい。
彼女がいると聞いたバーの扉を開ける。さすがに足で開けるのは気が引けたため、バケツをなんとか片手に下げ(花を傷つけないように気を使った)慎重に扉を開ける。
「こんにちは、お邪魔します!」
「いらっしゃい。……どうしたんだい?花は頼んでいないけど……」
マスターが怪訝そうな顔をする横で、彼女はカウンターに座っていた。黎明色のたおやかな髪が美しく波打って、広がった羽が黄昏色のランプに照らされ美しい。今はまだ真昼ながらグラスを手にしているから、何か飲んでいたのだろうか。そういえばよく飲む方だと彼女を探しているとき訊いた人が言っていた。
「すみません、そちらの方にお花をお渡ししたくて……配達ではないです、すみません」
思えば営業中のバーにこんなにたくさんの花を持ってきて、営業妨害にならなかっただろうか。後でこれはこれで叱られるのだろうか……と重ねて謝ってしまうほど一瞬にして沈んだ心も、
「あ!花屋さんだ、この前はありがとうございます」
そんな声で吹き飛んでしまった。我ながら浮き沈みが激しい。けれど彼女が僕を覚えてくれていたことがそれだけ嬉しかったのだ。
「あら、きれいな花菖蒲ですね。え、っと……でも、こんなにたくさん、いいんですか?」
「ええ、実は、ちょっとやらかしてしまって」
眉を下げて笑うと、それだけで彼女には通じたようだった。それもなんだか嬉しい。
実を言うと、困らせてしまうのではと思っていた。事実、最初は少々(だいぶ……かもしれない)戸惑っているように見えたけれど、そこはそれ。ここまで走ってくる間にも、僕は考えていたのだ。
「よかったら、まえのようにこれでお花見をされてはどうかと思いまして。ただ枯れるより、その方が花もきっと喜ぶと思います」
僕の提案に、最初は戸惑っていた彼女は笑顔を見せてくれた。
「それは素敵ですね。それじゃ、よかったらお花を、前と同じところに配達をお願いできるかしら。……ふふ、わざわざここまで持ってきてくださらなくても、よかったのに」
こぼれる笑みはまるで女神の微笑だ。この場に漂う酒精の香りもあいまって、くらくらきてしまいそうだった。
「そ、そうですね……早く見てほしくて、はは」
思わず照れたような笑いが落ちる。
「私は夜までに人を集めておきますね。よかったら、あなたもいらしてみたらどうかしら」
「ええ、もちろん。僕も――」
友人を連れて行ってもいいですか、そう言おうとした言葉がふと止まった。
こんなきれいな人、友達に見せたらその友達までくらっと来てしまうに決まってる!
「……どうかしましたか?」
「いえ、なんでも。ぜひあとで遊びに行かせてください!」
そうあわてて言葉をとりつくろって。それじゃまたあとで、と僕はそのバーを出、原付へと飛び乗る。
やっぱり困ってたんじゃないだろうか。そんな懸念を振り払うように、原付を走らせるのだった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴 成功