シナリオ

夜に浮かぶ灯と沈む心と

#√妖怪百鬼夜行 #ノベル

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 陽が落ちた後の参道は、濃さを増してゆく夜と反対に人足も開いている店も疎になってゆく。夜も深まるこの時間にこの場を往くものは大抵数少ない灯りの内に目当ての店がある者たちで、慣れた様子で足早にゆく櫃石・湖武丸もまたその一人。いかにも鬼種のものらしい角を額に目立たせたこの青年の足取りの確かなことは、知った道であると言う以上の何か、見るものが見れば隙がないと解する類のそれである。
 事実、湖武丸はそれなりに武を心得た剣士である。そうして今日はそれはよく動いた一日だった。師範が老齢となったとある道場で朝早くから人の子たちに剣の稽古をつける内、まるで飛ぶ様に時間が過ぎた。生き生きと目を輝かせて教えを乞うて湖武丸の言葉に素直に応えようと尽くす子どもらに手解きをして、帰り際には老いた師範に感極まった謝辞を受け、また近い内に訪れる約束をして道場を出た。悔い改めてより数々の悪事の償いとして人に尽くすことを是として使命としていた祖先の心、それを罪滅ぼしではなく家訓の様に志の様に受け継ぐ湖武丸にしてみれば、人助けは生業であると共に生き甲斐の様なものである。
 良い一日だった。思い返して微かに目元を和らげながら、湖武丸は目当ての店の暖簾をくぐる。二の鳥居のすぐ傍らで格子窓からあたたかな灯りを零しているこの蕎麦屋、湖武丸のこの頃行きつけの店だった。こうした遅い時間にはだいたい空いている為に、ゆっくりと一日を省みて食事をするのに相応しい。
「いらっしゃいませ」
 聞き慣れた店員の声に迎えられ、今日も当然の様に空いている隅っこのテーブル席に向かおうとして、ふと、ぞわりとする様な視線を覚えた。
 不躾にならぬ程度に視線を返せば、奥の小上がりの畳の席で卓袱台を囲む妖怪たちが、不躾なまでに好奇を隠しもしない目で湖武丸のことを見つめている。故に、図らずも目が合った。礼儀としての会釈を向けた湖武丸に対して妖怪たちは意味ありげに視線など見交わしつ、誰も返事は寄越さない。
 慣れた空気だ。何を取り沙汰することもない。湖武丸は気を取り直していつもの席へと着いた。それから愛想の良い店員に大盛りのにしん蕎麦はいつもの通り少し後でと頼んでおいて、待つ間にまず板わさに冷酒で一献。練り味噌、刺身をいくらかと、だし巻き卵、それから天麩羅の盛り合わせ。今日の働きを美味で己に労おうと心に決めた。
「しッかし|あの 《・・》家の坊ちゃんがなンだってあァしてこんなとこに一人で居るンだい」
 アジの刺身を箸で摘んだ時に、向こうの席からのその声は、したたかに湖武丸の耳朶を打つ。他には客が居ないのだ。そうまで声を張らずともここまでの会話も否応なしに耳に入って来ていたものを。立ち聴きするのも礼を失すると心得た湖武丸がここまでの話を強いて聞き流していたと言うのに、強いて聴かせようとする調子であった。居合わせただけの赤の他人では居させてくれない、声だった。
「およしよ、女郎蜘蛛。連れて来るお供もいない| 坊《ボン》を相手にそれを言うのは随分と酷な話なんじゃないかえ」
「そゥお? あれだけ良い男なのに勿体無いことサねェ」
「おいおいお前、男日照りか? あんな青二歳のどこが良い」
「青二歳でもなんでもアンタの百倍マシさねェ!」
 悪意たっぷりに宥める妖狐にふざけて返す女郎蜘蛛、食い気味に重ねた貧乏神に、化け狸と三つ目入道がゲラゲラ笑う。
 湖武丸は表情を変えぬまま、ただ、お手本めいた箸づかいにて刺身を口に運んで、それを味わうことに努めた。
「そうは言っても、あれこそ疫病神じゃないか」
 束の間、くだらない猥談を挟んだあとでだし巻き卵が運ばれて来た頃に貧乏神が告げた言葉に、湖武丸は思わず耳をそばだてた。頬に、ちりちりとした視線が、わかる。聴かせようとしている悪意も、わかる。聞かねば良いと理解しながら、無視出来ぬのは己の不徳の致すところと自戒しながら、やはり叶わぬ。
 己への悪口は即ち、往々にして家族へのそれであると理解をして居るのだ。
「羅刹鬼の力は奪われちまったんだろう? 治めた国を盗られるくらいになんとも無様な話じゃないか」
「そんなに言っておやりでないよォ。その価値もわからないくらいに一族郎党皆が腑抜けて胡座をかいていたンだろうからさァ」
「とは言え、長男坊は頑張ってるんじゃないかえ? それに引き換え、あの坊や――」
「やめろよ、聞こえちゃ可哀想だろ!」
 酷い悪意だ。だが一族へと向けられたそれを浴びるのが己であると言う事実に、湖武丸は何処か安堵を覚えてもいる。愛する家族、己以外の他の誰にもこんな言葉は聴かせたくない。今日限り、己限りが受け止めて、腑の内にとどめることで彼らが傷つかないならば、それで良いとすら思えた。
「どれだけ栄えた一族も、末裔が出来損ないってのは気の毒な話だなァ!」
 誰の声か。最早誰でも構わない。そも、特定の誰かを恨んだり憎しみを抱く意図で湖武丸はこれらを聴いている訳ではないのだから。許されるならば紡ぎたくなる弁明を、だが、紡げば一層に相手を喜ばせるのであろうそれらを冷酒で飲み下しながら、湖武丸は心を鎮める。悪意、敵意、そんなもの剣士としては慣れた一連だ。戦地で敵を眼前に平常心を保てる剣士にしてみれば、刃も何も物理的には向けても来ない腰抜けどもが酒の勢いで調子づき囀る悪口ごとき、もはや憫笑の対象にもならぬ。
 だが、何故だろう。やがて今日のお目当てのにしん蕎麦が運ばれて来た時に、いつもこっくりと甘くて美味しい筈の身欠きにしんは、今日は何だかいつもより味が薄い様な気がした。ボソボソとしたそれをいつもより少ない回数で噛み締め飲み下してから、湖武丸は会計を告げて静かに店を後にする。会計を済ませる間すら、黒の着物の背中に好奇と侮蔑の眼差しが突き刺さって来ることを自覚しながら、憐れな輩どもの現状を、強いて見ることはしなかった。無料の娯楽に興じる者らに何かの感情を向けてやることは、あまりしたいとは思えなかった。
 先刻よりも灯が消えて夜に沈んだ参道を湖武丸はひとり往く。誰も己を見ずに語らぬ静寂は、今宵は何処か心地良い。
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​ 成功

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