らーめん日和
春の陽気は心が躍る。日差しは明るく、寒さに震えた街も解れてのびのびと軽やかで、新生活にてんてこ舞いになりながらも、新鮮さを弾けさせる雰囲気は、実に楽しげだ。
吹く風はどこかひやりとしているが、そそぐ陽の温みを冷ますくらいでちょうどいい。
新緑は目に鮮やか。街路を彩る桜の青葉から零れる煌きに、エレノール・ムーンレイは眸を細めた。双つのアンバーは陽に照らされ透き通り、光を弾く銀の髪は風に遊ばれる。時折風で広がるスカートの裾を押さえながら、春の街中を歩き、街並みをゆっくり眺める。首元で光る三日月のペンダントは、温みの足りない風を切って揺れていた。
とくに急ぎの用事もない休日だから、うんと自分を甘やかすことに決めて、大好きなラーメンを啜りに来たのだが。
「ここにもあるんですね……」
思わず口をついて出てしまったのには理由がある。
出会ったラーメン屋は、すでに三軒を数えた。車道を挟んだ向こう側にもある。あちらが四軒目だ。
(「なかなかの激戦区ね」)
空腹は最高のスパイスという言葉通り、エレノールは程よく腹が減って、あとはどこの店にするか決めるだけだ。
四軒目は、外観の色味が派手派手しく、本日の気分ではなかった。あちらはまたの機会に。
もう少し進んでみよう――と、人の流れに足を任せていく。
カフェ、おにぎり、鮨……眺めて去って――その出会いは唐突だった。
筆で書かれた無骨な店名は看板から飛び出す勢い。雑多に漂う香りは、煮込み続けられた豚骨脂と、小麦麺が茹でられる、鼻腔にまったりと留まる仄かな甘さ。
エレノールの直感が叫ぶ。ここのラーメンは美味しい! 本日のエレノールの空腹を満たすだけでなく、五感の全てを満たしてくれるに違いない。
豚骨醤油ラーメン一筋の店に決めた!
そうと決まれば、逸る気持ちを抑えつつ暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませー!」
店内は昼時の熱気と、厨房からの熱気で湿度が高かったが、不快に思うことはない。爽やかに出迎えてくれた店主がそういったマイナスを吹き飛ばしてしまう。
ひとりで来店した客はカウンター席への案内と決めているような口ぶりで、彼の目の行き届く特等席へ促してくれた。
「なんにします?」
「では、豚骨醤油ラーメンをひとつ」
「はい!」
嬉しそうに返事をして、調理を再開した店主の後ろ姿を流し見て、昼食時の雑多に賑やかしい店の雰囲気に酔いしれる。
話し声と麺を啜る音、調理が進む音と店主の元気な声が交錯する。店内BGMが小さく聞こえるが、どんな楽曲が流れているのか分からなかった。エレノールはそれを追うこともしない。せっかく入った店を堪能しない手はないのだ。
出してもらったおしぼりで手を拭きながら、目の前に立てられたままのメニューを読む。
たくさんあるでもない項目だが、
(「トッピングすれば良かったかな」)
あじたま、チャーシュー、ネギ、メンマ等々。メニューの端に書かれていた追加トッピング欄の、とろりととろけたあじたまの写真が、あまりに美味そうで。
「あの、あじたまをひとつ追加してくれます?」
「はァい! ありがとうございます!」
追加注文に喜んで店長は、忙しく厨房内を動き回る。
噎せ返る熱気が客席へと漏れてくる。これこそがラーメン屋という風情だ。
ホールの給仕が仕上がった料理を運んで、わぁっと舞い上がる気配がして、エレノールは期待感を高められる。
瞬間、じゅわああ――熱せられて跳ねる脂――唐揚げが作られる音が弾ける。
店主はその様子を二呼吸の間だけ見つめて、大鍋にかかるザルが持ち上げられた――瞬間、シュバッ! と振られて、湯気がより一層立ち昇る。
スープがラーメン鉢の中で調合されて、その海へとダイヴする黄金色のストレートの細麺。溺れる麺の上にメンマ一掴みとチャーシューが三枚、青ネギが山となって、その麓に半分に割られたあじたまが添えられた。
トレイに載せられて運ばれる鉢は、まっすぐエレノールの元へやってくる。
「お待たせしました~」
「ありがとうございます」
もあもあと昇る湯気が、エレノールの白い頬を撫でた。醤油の香ばしさと、豚骨の濃厚な脂の香りも一緒に昇ってくる。鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。
「いただきます」
キラキラっと光るスープにまずはレンゲを沈めて、ひと掬い――火傷をしないように、ふーっ――ずずっと一口啜れば、舌に広がって鼻腔に抜けていく、複雑な甘みと塩気のスープだ。
「っ!」
旨い。舌に残る旨味は嫌味なく、二口目を催促する。ぱきっと割り箸を割って、細麺をスープから救い出す。スープの持ち上げはよく、やや硬めの茹で具合は絶妙だ。
ふーっ、ふーっ。
あつあつのまま口に含んで、ひと啜り――ツルツルとした喉越しが抜群。噛めば噛むほどに小麦の香りと醤油のコクと豚骨のまろやかさが絡み合う。
次は厚めに切られたチャーシューだ。ほろほろになるまで煮られ、甘辛いタレを存分に吸い込んで、脂の甘みを最大限まで引き出している。豚肉の旨味を噛み締めた。
しゃきしゃきとしたメンマの歯触りを楽しんで、ネギと麺を一緒に啜った。
(「チャーシュー、おいしいし、メンマも甘辛くって、いい」)」
あじたまはトロリとした黄身が濃厚なスープに溶けて、これまた格別の味わいになる。
(「あじたまを追加して正解でした」)
はふっはふっ。
黄身が溶けている部分をレンゲでスープを掬って、もう一度飲む。
(「んん……おいしい」)
あとひとつしかないあじたまは、もう少し後で食べようと残しておいて、それでも、麺、チャーシュー、メンマ。ネギは麺に絡んで、徐々になくなっていく。
(「最後の一滴まで飲み干したくなる、ですか――本当だったんですね」)
ラーメン鉢の中がどんどん少なっていくのが惜しい。濃厚なのに全然重くない。なにがこんなにあっさりさせるのだろう。醤油なのか、香味油なのか――とにかく絶妙に味わいに、箸が止まらない。
もくもくとラーメンを堪能しながら、スープの甘みとキレとコクの正体を探していく――それも野暮なくらいに、旨くて夢中になった。
ちゅるっ。
スープが跳ねないように気を付けて、食べ進めていく。
食べ始めた瞬間の味から、温度が下がるにつれてまろやかになっていくスープの面白さが、エレノールを余計に夢中にさせた。
しゃきっ、ずずずっ。
チャーシューも、メンマもなくなって、最後のあじたまの――トロトロの黄身もぷりっとした白身も、食べてしまった。
麺の喉越しは冷めても抜群で、あっという間になくなってしまった。
スープの下へと落ちてしまって、かくれんぼをするネギを拾い上げて、余すことなく啜り尽くした。
ふう……。
お腹いっぱいになって、口の中の脂を冷水で洗い流して飲み込んだ。
「ごちそうさまでした」
◇
「ありがとうございました~!」
勘定を済ませて、元気な店主の声に見送られて、エレノールは店を出た。
新緑の輝きに目を細めて、大満足の吐息をひとつ。
「美味しかった……」
心から溢れた呟きは、ほわっと広がっていく――この店は、アタリだった。しっかりと記憶しておく。
次に出会えるラーメンはどこでエレノールを待っているだろうか。この街にはまだまだ出会っていない一杯で溢れている。
新たな出会いを夢想すれば、うきうきと思わず足も軽く弾みだして、ふわりとシルバーの髪が風に揺れた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功