√プラールタナーは嵐影湖光を描く『祈り』
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人には人の領域というものがある。
物理的な意味の話でもあるし、精神的な意味の話でもある。
どちらかと言うと、精神的な意味合いで語られることのほうが、きっと多いだろう。
所謂、パーソナルスペース、というやつだ。
誰だってこれを持っている。
対人関係を距離で言い表す所以でもあるだろう。
知り合ってから長くあれば、自ずと距離は縮まるかもしれない。もしかしたら、長く付き合うようになったからこそ、距離が離れることもあるかもしれない。
この場合、言いたいことは『人によりけり』だということだ。
「んで? コウくん。お茶は? まだ?」
目の前の野分・時雨(初嵐・h00536)は、特に勧めたわけでもないのに椅子にどかっと不躾に座ってお茶の催促をしている。
一体全体どうしてこうなったのだろうかと尾崎・光(晴天の月・h00115)は、こういう時、姉ならばどうしただろうかと考える。
行動の指針の全てが姉がどうするか、なのだ。
今までだってそうだったし、これからだってそうするだろう。他人から見れば、彼の行動というのはどこかチグハグだった。
「招いてもいないのに入れるなんて本当に妖怪?」
「なにそれ。招かれたようなもんでしょ。ご近所だってわかったんなら、そりゃ来るでしょ。当たり前のことじゃあない」
「意味がわからない」
二人がであったのは、簒奪者の起こした事件がきっかけだった。
軽く話をしてみると、どうやら同じ√のご近所に住まう√能力者であることが判明した。特別、時雨に興味はなかったが、どうも邪気悪気というものがないのは理解できた。
なんでか妙に彼に気に入られているところが、よくわからない。
だがまあ、別√の別生物。
人間じゃない存在。妖怪、人妖なのだというのならば、まあ、己の常識と諸々相違というものがあって然るべきだろうとは思っていた。
だがしかし、だ。
光がこの√……√妖怪百鬼夜行にやってきて、小さな煙草屋を改装した狭い室内に居をというか、偽刺青屋を開いていることを聞いて、早速時雨はやってきていた。
カフェ風のテーブルのソファに、今も時雨は不遜な具合で腰浅く座って、おーちゃー、と口を開けば尊大な態度を取っているのだ。
せっかくのサロン風な内装も、こうも尊大な態度を取る客……いや、客か?
「あのさ、出会い頭でもう椅子に座ってるのっておかしくない? 早くない? むしろ、どういう感覚なの、それは」
思わず光は時雨にそう尋ねていた。
「ぼく紅茶はあんまり好きじゃないからイヤ。緑茶がいい」
話聞いてたのだろうか?
全然噛み合わない。
今、お茶の好みの話はしていなかった。
ふぅ、と息を吐き出す。諦めたとも言える。
「一応、聞いておくけど。この√のお客さんに出すお茶っていうのは緑茶が無難なの? 他の、珈琲だとかは? モダンでいいんじゃあない?」
君等妖怪にとっては、と言わんとするように光は、その場から動かずに時雨を見下ろす。
ソファに座っている時雨と立っている光なのだから自然そうなる。
「さあ~? 好みによるんじゃない~? 珈琲飲んだことはあるよ。あんまり好きじゃなかった。苦いし酸っぱいし、なんか黒いし。泥水かと最初思ったよ」
「いや、初めて話が噛み合ったな。ちょっとした感動すら覚えているよ」
「でしょうがよ。まあね、そろそろぼくと親密にご近所付き合いをしたいだろうと目論んでるんだろうなぁって思いましてね。伺いました」
とんだ勘違いだな、と光は思った。
√EDENのように町内会でもあるのだろうか?
妖怪の寄り合い?
猫の集会じゃあるまいし、と光はまた嘆息する。
「なに、町内会とかあるの?」
「さあ? 知らんけど」
じゃあなんだよ、ご近所付き合いって、と光はまた嘆息するしかなかった。
「ね、アレやって」
急にまたほら、話が変わる。
こっちのペースなどまるで考えていないだるい絡み方である。
こう見えて彼のほうが年上だ。
とは言っても、二年程度の違いでしかない。それに絡み方というのが、学生時代の部活動で経験したであろう運動部の先輩の絡み方なのだ。
言ってしまえば、大人のやり方ではない。
なんていうか、こっちの反応を見て楽しんでいるような節すらある。
自分より年下の存在は全部、可愛いから、ついついいじり……いじめ倒して遊んで欲しいのだ。なんていうか、そういうところも不器用さを象徴しているようでもあった。
「アレ、とは。アレっていうお茶かな?」
「いや、そんなお茶あるわけないじゃん。意味わかんない」
「アレ茶。ありそうじゃあない? あるよね? この√にはないのかな? アレ茶」
「だから知らないってば、出すなら緑茶一択だってば。早く出して……じゃない、アレったら、アレ。ここは何屋さんでしたっけねぇ?」
時雨は、ニマと笑って己が今いる場所を示す。
そう、此処は偽刺青屋である。
メヘンディ――ヘナと呼ばれる植物を乾燥させ、ペースト状にしたものを肌に乗せて色を定着させて描いてく模様のことだ。
肌を染めているだけなので、いずれ代謝を繰り返したりこすれていく度に自然に落ちていくだろう。
そういう意味では、気軽なアートファッションとも言える。
光は、その施術を行う店を、この√妖怪百鬼夜行で開いているのだ。
「刺青屋さんでしょう?」
「刺青じゃあなくて、|偽刺青《メヘンディ》」
「じゃあ、やってもらいましょうか」
「いいけど……小さいものなら、まあ」
「いやね、どうせなら全身にバーンとできません? ほら、耳なしナントカみたいに。耳まで有りで」
「それはもう耳なしナントカならぬ、耳なし芳一さんではないよね。なに、何か悪さでもしたから雲隠れでもしたいのかな?」
んなわけないでしょ、と時雨は光をおかしいことを言う子だな、とでも言うように訝しげな顔をする。
「なんでそっちがそんな顔をするんだい。どう考えてもおかしなこと言っていたのは、きみのほうだよ」
それに、と光は言う。
「全身に描くなら、全裸で冷たい染料を肌に乗せて数時間何もできないんだけどいいのかい。君がよくても僕が嫌だけど」
なんなら、このまま諦めて欲しい。
やっぱやーめた、と言ってご近所付き合いを終わらせて欲しい。
そうであって欲しい。
光は強く思ったが、時雨はただをこねた。
「ヤダ~。なんかぱぱっとできないの?」
でたよ、と光は思っただろう。
此方の都合も聞かないし、専門的な知識もないのに、こうやって無茶振りしてくる人。だがまあ、客としてやってきたのならば、応対せねばならぬのがサービス業の辛いところである。
これから、この√でやっていくのならば、処世術というものが必要だし、この√と√EDENとでは処世術自体が異なる可能性だってある。
なので、光は普段より慎重になっていた。根気強いと言ってもいい。
「裁定でも数時間。乾燥には……まあ、今日くらいの湿度なら3~4時間くらいかな。きみじっとしているの苦手だよね?」
「ド偏見! え、ぼくの何処を見てそう判断したんですか? え、そういうのって今流行りのなんでしたっけ、なんかこう、あれなやつですよね。ハラがでてる的ななんかそういう」
「ハラスメント?」
「多分それ。そういうやつですよ。まあ、じっとしてるのはきらいですけど」
なら、なんのハラスメントにもならんだろ、と光は思ったが飲み込んだ。言えば面倒くさいことにこれ以上なりそうだったからだ。
「じゃ、腕は? コッチの腕は彫りもんあるから、右腕ね」
時雨が左腕……肩口を軽く抑えてそう言った。いや、どっちでもいい、と事情を知らぬ光は思ったが、また飲み込んだ。がまん。がまんだ。姉さんなら堪えることができる。
「片腕ね。これまた無難だけど肩までとなると欲張りだよ。まあ、染料は足りるだろうけれど……で、好きなモチーフは?」
「はあ、モチーフ」
「図案と言ってもいいかな、ほら、こういうの」
そう言って光は己が書いた図案を時雨に示す。
そこには精緻であり精巧なる図案がびっしりと描かれていた。それを時雨は目をまん丸くして覗き込む。
「すっげー! これコウくん描いてんの? え、すっげ……こんな世界来てまでお店構えるだけはあるね」
「はいはいどーも。で、どれにします?」
時雨は図案を見やり、即座に指差す。
「じゃ、蓮がいい」
即決だな、と光は思ったがまたごねられると覚悟していただけに拍子抜けだった。
後からやっぱりこっちがいい! と言い出しそうな気がしたが、不思議とそうはならないだろうな、とも思った。
だが、それはちょっと見通しが甘いと言わざるを得ない。
いざ施術が始まれば。
「くすぐったい」
だの。
「笑いそう」
やれ。
「なんとかして」
あまつさえは。
「飽きた」
これである。舐めてんのか? 光は思わず本日何度目かもわからぬ嘆息を吐き出していた。
「ねえ、牛って泥遊び好きな筈だよね? なんで我慢出来ないかな? じゃあ、この辺でやめておこうか? どう見ても頓珍漢な微妙で絶妙に笑える感じになるけど」
にこり。
そう言うと、時雨は、ぐう、と呻くように静かになる。
やり返してやったつもりであった。
一通りなんとか施術を終えれば見事な蓮の花の模様が時雨の右腕に描かれていた。
「お~」
すっごい、と時雨は感心していたようだった。
この様子なら、ごねることもないだろう。光の希望的観測というものがあたったな、と胸を撫で下ろす。が。
「で、お代がこれくらいなんだけど」
「え? 出世払いにして」
「……きみ、出世する気あったのかい?」
ツケですらないのか、と光は頭を抱える。
だが、こっちにも札はあるのだ。
何故なら、彼らはご近所さん。
であれば、だ。
「今度、きみのお店に徴収にいくからね」
それはきっと時雨にとっては、急所であったことだろう。
だが、そんなの知ったこっちゃないのだ、光は――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功