そのBarには女神が堕ちている
●夜の先に見つけたもの
惜しげもなく光を投げかけていた太陽が、力尽きたように地に没し。
残っていた夕色も急速に闇に塗りつぶされてゆく。
けれど、空に現れる星の光をかき消すほどに、地上には星が散りばめられる。
きらきら輝く地上の星は、空とは違って賑やかだ。
そんな夜の街を泳ぐように、|如月・縁《きさらぎ・ゆかり》(不眠的酒精女神・h06356)は彷徨い歩いていた。
ここは縁がいた√ドラコンファンタジーとは違う世界。
肌で、それ以上に、漂うインビジブルの多さに、ひしひしとそれを感じる。
まるでここは水の中。周囲でひらめく魚のダンスを観賞しているようで。
綺麗……。
縁はささやくように呟いた。
彷徨ううちに、地上の星も少しずつ消えていった。けれど真闇に沈むことはない。
最初は夜に眠らない人たちがいることに驚いたものだが、それに慣れてしまうほどに、縁はこの世界……√EDENにいる。
消えた星のもとでは、誰かが健やかな眠りについているのだろうか。
けれど縁は彼らのようには眠れない。
夜の中で目を閉じれば、不安が押し寄せてくる。
恐怖のように明確な温度は持たないけれど、ざわざわとぬるく心を揺すり続け、縁を眠らせてはくれないのだ。
だから縁は今日も夜を行き、疲れると止まり木を探す。
……縁の羽はその身体を空に運びはしないけれど。
その店に引き寄せられたのは、ほんの偶然だった。
窓枠にあわせて設置された、スタンディング用のカウンター。その上に飾られた小さな花が目に入ったから……というだけ。
けれど迷いもなく扉を押したのは、やはり運命に導かれていたということだろうか。
押し開けた扉から中をのぞき込むと、使い込まれたマホガニーのカウンターの向こう側にいた男性が、いらっしゃいませと声をかけてきた。
落ち着いたその声にいざなわれてふらりと中に入った背で扉が閉まると、外の音は遠ざかり、縁は静かな空間に包み込まれた。
「ここ、は?」
自分から入ったものの、ここがどういう場所なのかも分からなくて縁が尋ねると、店主と思われる男性は店名を答えた。
そうよねと縁は可笑しくなる。まさか、何の店なのかもわからずに入って来ているだなんて、思いはしないだろう。
そっと周囲を見渡してみると、店内にあるのはガラステーブルの座り心地が良さそうなソファー席と、店主がいるカウンター席。
カウンターの奥の壁には、酒瓶がぎっしりと並んでいるから、きっとここはお酒を出す店なのだろう。
今いる客は、縁の他にはカウンターに肩肘をついている、物憂げな様子の女性がひとり居るだけだ。
その前で店主が軽やかな音を立ててシェイカーを振り。
カクテルグラスにきれいなオレンジ色を注ぎ込んだ。
宝石を溶かしたようなあれがお酒?
もっとよく見たくて、縁はカウンターへと近づいた。
「何をお飲みになりますか」
店主に聞かれて、縁は人の飲み物に見入ってしまっていたことに、はっとして。
視線を戻すとカウンター席に腰かけた。
「私もあのお酒を飲んでみたいです」
そっと視線で女性のグラスを示すと、かしこまりましたと店主は頭を下げ。
シェイカーにフランポワーズリキュール、ホワイトキュラソー、ロゼワイン、ライムジュース、氷を入れた。
シャカシャカとまたあの心浮き立つ音がして。
縁のグラスに完成したカクテルが注がれる。
「とっても綺麗。宝石みたいですね」
店内の照明は抑えられているのに、カクテルはまるで輝くように見え。
目が離せずにいる縁に、店主はカクテルの名を告げた。
「こちらは“アフロディテ”。愛と美の女神名を冠したカクテルです」
「女神のカクテル……」
と胸を衝かれ、縁のグラスにのばしかけた手が一瞬止まった。
これもなにかの巡り合わせ?
それとも……人のふりをしているのを見破られてしまった、とか?
ひとつ深呼吸してから、縁はグラスを口に運んだ。
すっきりとした飲み口なのは、フランボワーズのフルーティーな甘味とライムジュースの酸味のバランスが良いためか。
見た目も味わいも上品なカクテルは、女神の名にふさわしい。
「おいしい……」
まろやかなカクテルを味わううちに、身体がほんわりとあたたまってくる。
アルコールにあやされて、縁は知らず知らずのうちにすっかりくつろいでいた。
√ドラゴンファンタジーに逃げ堕ちて以来、夜になると戦禍の記憶が流れ込んで、縁はずっと寝付けずにいた。昔、心から愛した人もいたような気もするが、その記憶も失われ。
夜に眠るときの不安に悩まされ、街を彷徨い歩いているけれど。
もしかしたらお酒は眠らせてくれるかもしれない。
だから縁は、もう一杯、と請うた。
それを飲み干すと、また……もう一杯、と。
一杯分、私を温めて。
一杯分、私を眠らせて。
途中、飲んでいた女性が帰り、客は縁ひとりになってしまった。それでも。
甘えるように、逃げ込むように。
縁はもう一杯と望み続けた……。
●朝の光に消えたもの
ふっと身体が浮かび上がるような感覚とともに、縁は目覚めた。
いつの間にか、カウンターで眠ってしまっていたらしい。
「店主さん?」
呼びかけてみたけれど、店主の姿は見当たらない。しばらく待ってみても帰ってこないので、店内や店の周りも探してみたが、見つけられなかった。
「……いないのかな?」
縁がすっかり眠り込んでしまったため、そのままにしてどこかに用事を済ませに行ってしまったのだろうか。
「お酒代、いくら……?」
かなり飲んだような気がする……。
ある程度の金額を置いていこうか……いや、誰もいない店にお金を置いていくのはあまりにも不用心だ。
考えた結果、あとで代金を払いにくることを書いたメモを残して、縁はいったん店を出た。
それから何日も、縁は毎日Barに立ち寄っては、店主の姿を探した。
だが、一度も店主の姿を見かけることはなく、カウンターに残した縁の書いたメモも誰かが触れた様子さえなかった。
待っていたら会えるかも、と一縷の期待をかけて店の中で待ってみたり……ということをしているうちに、だんだん居心地が良くなってしまい。
「掃除もしないといけないし、風を通さないとお店も傷んでしまうわね」
そんな風にして店を整えるようになり。
「今、店主は留守にしていますけど、代わりにお酒を出すくらいならできますよ」
店を閉めている間に客が離れてしまっては困るだろうと、お酒を提供するようになり。
そしていつしか縁はこのBarの店番をするようになっていた。
誰にだって、寂しい夜はある。
そんなとき、ここに来ればほろ酔いの女神がいて。
いっしょに飲んで、いっしょに話して。
そうしているうちに、癒える寂しさもあるだろうから。
今日もまた、縁は訪れた客へと微笑む。
「ああ、ごめんなさい。私は店員じゃないんです。でも……」
――良かったら、一杯いかがですか?
それでも足りなければもう一杯。
女神が堕ちてるBarはいつだって、あなたの来店を待っていて、
あなたと乾杯するのを楽しみにしているのだから。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功