学び舎の夜の種族
夜の学校。
理科室の中を光がゆっくりと動いていた。左右を行ったり来たりしたかと思えば、上下に波打ち、時にはくるりと輪を描き……。
校舎の外から遠目に眺めれば、人魂が舞っているように見えるかもしれない。
「うーん」
残念そうに唸ったのは、光の発生源たる懐中電灯を携えた少年。
その身を包むのは暗色のパーカー。肩の下まで伸びた髪は白く、眼鏡の奥の瞳は青く、肌には血の気がない。暗がりにうっそりと立つ姿はどこか幽霊めいて見える。
「人体模型だの蛇のホルマリン漬けだのいった定番のアイテムがないのは寂しいな」
「にゃあ」
幽霊のごとき少年の言葉に答えるかのように、その足下で黒猫が鳴いた。
「……いや、これはこれで悪くないか? 備品が一掃された理科室……整然としているけれど、机の上には埃が厚く積もって……うん。いい感じの侘びしさがあるぞ」
懐中電灯をスマートフォンに持ち替えて、『いい感じの侘びしさ』を動画と写真に収めていく。
廃墟を愛して止まないこの少年――ルスラン・ドラグノフは幽霊などではない。
しかし、普通の人間でもない。
サイコメトラーの吸血鬼である。
撮影に夢中になっている彼の姿を退屈そうに眺めている黒猫のイヴァンもまた普通の猫ではない。
√能力によって召喚された使い魔である。
普通ならざる一人と一匹がいるこの場所は、『マルバツ学園』という俗称を持つ某私立中学校。二十数年前に廃校となったのだが、その直後に行政のエアポケットに嵌まり込み、関係者にも非関係者にも忘れ去られ(あるいは見て見ぬ振りをされ)、解体されることも再利用されることもなく、市中の一角でひっそりと佇み続けてきた。
廃墟マニアの間ではそれなりに有名なスポットだが、侵入者による破壊の被害は知名度に比例するものではない。ルスランにとって、それは高ポイントだった。人為的な要因による荒廃を好む廃墟マニアもいるが、彼は違う。廃墟の中で焚き火をしたり、窓ガラスを割ったり、グラフィティ気取りの稚拙かつ醜悪な落書きをするなど、以ての外だ。
廃墟を傷つけることが許される存在は二つだけ。
一つは、時の流れ。
もう一つは、解体を依頼された業者。
実は後者が動く日は近い。この春、いくつかの偶然によって行政のエアポケットが消失し、マルバツ学園の取り壊しが正式に決定したのである。
「もうすぐ消えて無なくなってしまうと思うと、感慨も一入だな」
ルスランはスマートフォンをパーカーのポケットに入れ、懐中電灯を再び携えて理科室の外に出た。
廊下はカーブを描いている。校舎が円形だからだ。隣にある体育館の屋根は|宝形造《ほうぎょうづくり》であり、上空からは大きな○と×が並んでいるように見える。それがマルバツ学園と呼ばれる所以。
『2-B』の札がかかった教室にルスランは足を踏み入れた。
円形の校舎なので、教室は扇型だ。黒板と教壇が設けられているのは廊下側の狭い壁。在りし日にはそこを起点にして生徒用の机と椅子が放射状に配置されていたのだろうが、今はなにもない。いかなる理由によるものなのかは判らないが、全教室の机と椅子は体育館に運ばれているのだ。ルスランは校舎より先に体育館をチェックしていたので、そのことを既に知っていた。椅子を乗せられた机が所狭しと並ぶ館内の光景はどこか奇妙であり、圧巻であり、所謂『撮れ高』も充分だった。
それに比べて、この普通教室は殺風景に過ぎる。いや、廃墟が殺風景なのは当然のことではあるのだが。
「撮影欲が刺激されないな。せめて、記念の土産になる物があるといいんだけど……」
「なーお!」
教壇の上でぼやいていると、イヴァンの鳴き声が教壇の壁際から聞こえてきた。
「どうした?」
視線を下げるルスラン。
黒猫は教壇と壁の隙間を覗き込み、前足の先端を差し込んでいた。そこに挟まっているなにかを掻き出そうとしているらしい。
「にゃ!」
イヴァンが前足を激しく動かすと、白くて小さな棒状の物がスイッチブレードのように隙間から飛び出した。端の部分に前足が当たり、九十度ほど回転したらしい。
「土産を見つけてくれたのか? お手柄じゃないか」
ルスランは腰を屈め、その棒状の物を隙間から引き抜いた。
白く見えたのは埃にまみれていたからだ。表面を丹念に拭うと、それは本来の色と形を取り戻した。
青黒い万年筆である。
年季の入った代物だが、高級品というわけではないようだ。
「さて、これはどんな日々を送ってきたのかな……」
ルスランは目を閉じて意識を集中した。
サイコメトラーの能力を用いて、万年筆の記憶を引き出すために。
◆
その万年筆を店先で見初めたのは若い女だった。
しかし、彼女自身がそれを使うことはなかった。弟へのプレゼント――大学の入学祝いとして購入したのだ。
決して高価ではないその贈り物を弟は大いに喜んだ。大学でも自宅でも使う機会は少なかったが、肌身離さず持ち歩いた。幸運のお守りであるかのように。
大学を卒業した彼は教師になった。職場で使う筆記用具はチョークか鉛筆か赤ペンであり、万年筆の出番はやはり少なかった。それでも、いつも胸ポケットに差していた。
数十年が過ぎた。彼はいくつかの学校を渡った末にマルバツ学園に赴任した。そして、閉校が決まった前年(奇しくもそれは彼の定年の前年でもあった)、授業中にいきなり倒れた。卒中を起こしたのだ。
通報を受けて駆けつけた救急隊員たちが彼をストレッチャーに運び上げる際、万年筆はポケットから抜け落ち、床を転がり、壁との隙間に挟まった。
その日から今夜まで、誰にも顧みられることはなかった。
忘れられた学校の忘れられた万年筆。
◆
「ふむ」
ルスランは記憶を読み終え、目を開けた。
万年筆の所有者だった老教師がその後どうなったのかは判らない。√能力『|武装化記憶《サイコメトリック・ジオキシス》』を使えば、所有者の記憶を読むことも可能かもしれないが、その記憶はあくまでも所有していた時期のものであり、万年筆から離れてしまった後までカバーしていないだろう。なんにせよ、一命を取り留めていたとしても、かなりの老齢に達しているはずだ。二十年以上も過ぎているだから。
「この場所に残しておいても、校舎の取り壊しに巻き込まれてゴミとして廃棄されるだけだよな。所有者のことをちょっと調べてみて、存命であれば、匿名で返却する……ってことでいいかな?」
ルスランはパーカーのポケットに万年筆を入れた。
その動作に反応したかのように、反対側のポケットからくぐもった音が聞こえた。
イヴァンがびくりと体を震わせたが、ルスランは慌てず騒がず――
「あ? もうこんな時間か」
――ポケットの中で震えていたスマートフォンを取り出し、バイブアラームを停止した。
画面に表示されている時刻は午前三時。空が白み始めるのはまだ先だが、帰宅にかかる時間を考えると、このあたりが潮時だろう。
「行こう、イヴァン」
教室の外に出るルスラン。
その後に続いたイヴァンであったが、数歩も進まぬうちに体をまたびくりと震わせ、立ち止まった。
「……にゃ?」
不思議そうな顔をして、きょろきょろと周囲を見回している。
授業の終了を告げるチャイムでも聞いたのかもしれない。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功