歩みを散らすということ
「止んでしまったか……」
昨日の夜から今朝方にかけて降りつづけていた雨が止み、明るい日差しが窓から差し込んでいる。億劫であるが、重い腰をあげ日課の散策にいかねばなるまい。
真鍮は雨が嫌いだ。
濡れるのが嫌なのではない。霊体である自身の体を、雨粒が知ったことかとばかりに通り過ぎるのが気に障るのである。
幽霊であるということはとうの昔に受け入れている真鍮であるが、世界から爪弾きにされているかのような気分にわざわざ自分からなりに行くこともないと思っている。故に、雨の日は部屋から出るつもりはないのである。
しかし晴れてしまったのならば仕方がない。
外の草花は久しぶりの太陽をこれでもかと堪能しており、葉の上に乗った水滴が朝の日差しを受けてキラキラと輝いていて美しい。道は多少ぬかるんでいるものの舗装された歩道を歩くならば裾が濡れることもないであろう。いやそもそも、幽霊である真鍮の衣服のまた、濡れることなどないのであるが…。
瑞々しい色合いの紫陽花が美しく咲いており、その上に、カタツムリが1匹のそのそと顔を出しているのが見えた。
──でんでんむしむしかたつむり。つのだせやりだせ目玉だせ──
子供の時分に歌った覚えのある童謡がふいに頭をよぎる。そういえば、子供の頃はカタツムリを突っついて目玉を引っ込ませるのが小学生たちの中で流行っていたことを思い出す。……気持ちが悪いので自分でやろうと思ったことはなかったが。
もし、今の自分がこれに触れたらこれは一体どんな反応をしてくれるのだろうか。見えない何かに触られたと驚いて頭を引っ込めるのだろうか、それとも………小さな生き物の持つ小さな神経の条件反射にさえ、見えない幽霊は相手にされないのだろうか。
それは、なんだか癪に障る。
ふと、真鍮は自分の歩いてきた道を振り返る。
幽霊であっても真鍮はふわふわと浮遊して移動したりはしない。しっかりと存在する2本の足で、生前と同じように歩くことを忘れないでいたいと思う。
しかし歩いてきた道には真鍮の足跡は残っていない。幽霊である故、当然である。
そんな時、真鍮の心中にひとつの悪戯心が芽生えた。
これは鬱屈とした今日の精神にしっくりくるアイデアであるとも思う。
つまり、霊気を集中させ透き通らなくさせた自身の足で──たったひとつだけの足跡を地面に残してやろうと思ったのだ。
真鍮は雨に濡れぐっしょりと湿った土の上をここと定め足を構える。これは、潔癖なところがある普段の真鍮ならば絶対にやらない、天変地異のような悪戯である。
道の中に突然たったひとつだけ足跡がある! この壮大な悪戯を見つけたものはいったいこれを何と思ってくれるだろうか。いっぽんだたらのような妖怪を想起するだろうか。それとも、空を旅する旅人が、ほんの少しの休憩のために舞い降りた痕跡だと推理するだろうか。
愉快な気持ちが胸の中にぐつぐつと浮かんできた。
この足跡はただの足跡ではない。芸術評論家を唸らす傑作であり、次代の考古学者を混乱させる悪魔のような所業なのだ!
真鍮はしっかりと力を込めて、自身の足を地面へと食い込ませる──。
今日の散歩はこれで終わり。
偉業を一つ土の上に残し、磐代の家に帰ることにしよう。
「さて……何も残せぬ、というわけでもないのかも知れぬな……」
降り注ぐ日差しが思っていたよりも強い。地面を湿らせている雨水も昼には乾いてしまうことだろう。
早く部屋に帰り、ゆっくりするとしよう。
まもなく夏が、やってこようとしている。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功