シナリオ

眠る日のアリア

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 うつくしい歌が呼んでいる。
 黒洞々の暗がりの向こう、潮騒のなかに紛れた男女ともないその声に、手招きをされている。
 靴底が濡れた砂浜を踏みしめるギシギシと言う音だけが、現実感のない頭に己の所在を知らせてくれていた。夜更けの空には月が満ち、かえって天地の対である沖合の暗さを際立たせた。靄がかった思考に恐怖はない。長い間彷徨った末に、ついに目的地へ辿り着いたような、達成感と逸る気持ちだけがあった。
 ついに爪先が波打ち際に踏み入る。荒れたところひとつない楚々とした顔の波が、指で招くように裾を引く。
 突如、砂浜の底が抜けて頭のてっぺんまで深く水に沈んだかのような、鮮烈な冷たさが体を貫いた。目を瞠る。方法を忘れたかのように呼吸が止まる。眩暈と同時にたたらを踏んで歩み入った海面が飛沫を散らして、全身をさらに冷やしていく。
 胸を押さえながら、やわい砂に足を取られて転んでは立ち上がり、それでも進んだ。誘う歌を見失わないよう、どうか待ってくれと請うて細く歌う。歌声はからかうように音階を上げ、こちらに主旋律を譲って来る。
 どうぞ気に入って貰えますように。陶酔のなかで歌っている間だけ、息が出来た。



「身体に異常は見られません。成長と共に変わって来ることもあるでしょう」
 にべもない一言と思う者もいるだろう。患児は次々に来るのだから、結論が早く出せる場面では早い方が良い。それだけの、医師特有の喋り癖だ。ただ、小学校への進級を来月に控える西織・初(戦場に響く歌声・h00515)にとって、男性の宣言は相当に恐ろしい響きを伴って聞こえた。
 けれど、それを表現する術がない。『初くん、つまんないなら出てってよ』。公園の遊び場でも幼稚園でもさんざん言われた。遊びの輪の中にうまく馴染めない自分がどこかおかしいのだと、気付くまでは随分と時間が掛かった。
 みんなで撮った遠足の写真の中、初だけが笑っていない。
 初が自身の表情の欠落を悟るなりひどく沈み始めたのを見て、病院へ行こうと提案したのは母親の西織・|澪《みお》だった。単に初を安心させるためだったのか、生まれた頃からずっと気がかりだった息子の異変をこの機に明らかにしてしまいたかったのか――真実は初には分からない。診察室を出てなお俯く初へ、澪は晴れやかに笑った。
「異常がないならただの個性ね。良かったわ」
「また、あそばないって言われるかも」
「じゃあ、それでも遊びたいの! って言う練習をしておきましょう。見た目で分かってくれない分、たくさん言葉に出さなきゃ」
「……うん」
 手を引く澪の言葉に、不安が払拭されたわけではまったくない。天真爛漫にいつでも明るく、街を歩く都度知り合いに声を掛けられ、賑やかに盛り上がる母親と同じことが出来るとはとても思えない。
 それでも頷いたのは、『お父さん』がいないのはたいへんだから初が澪を助けてあげなきゃいけないと、聞き齧りに知っていたからだ。
 落ち込んで、心配をさせるわけにはいかない。うん、ともう一度深く頷いて顔を上げた初は、澪の手をぎゅっと握る。ほんの少し早足になって澪の半歩先へ進み、年少クラスの子にそうするように先導するつもりの子どもへと、母親は柔らかな眼差しを向けた。



 荒い息を含んで喉から漏れる音はほとんど途絶えかけ、到底メロディとしての連なりを成していない。それでも、海鳴りの歌は寄り添うようにテンポを揃えてハーモニーを繕ってくれる。
 圧倒的な神聖が、自分のことを見つめ、手を差し伸べ、抱き締めてくれる。思考と呼べるものを手放して、ただ大いなるものにすべてを委ねる暴力的な幸福感。
 声にならない声を張る。この身すべてを捧げようと歌に籠める。
 遠く近く、ぱちぱちと雨粒が爆ぜるような音がした。幼い子どもが童謡に手を叩いて喜んでいるようにも、母親がひとりきりのコンサートを拍手で大いに盛り上げながら見つめてくれているようにも思えた。



 家事の手伝いをしたいと初が言い出したのは小学二年生に上がった頃。担任の先生に協力して貰って整えたゴミ捨てと掃除の週間予定を突き付けたところ、澪も断るより先に笑うしかなかったようで、無事に分担を請け負えた。
 五年生になって家庭科が始まったら料理も当番制に――と言うのは初の目論見だが、今のところ澪は子どもに包丁を扱わせる気がないらしい。本日、金曜夜のメインディッシュはミートボールのトマト煮。初に渡されたのはひき肉と玉ねぎの入ったボウルだ。うっかりぶつかってしまわないよう、作業はダイニングテーブルで。これもお決まり。
「あ。そろそろ七時?」
 カウンターキッチンでマカロニサラダ用のキュウリを刻む手を止めた澪が不意に声を上げると同時に、見るともなしに点いていたテレビが歌番組のオープニングを流し出す。音量上げて! 声を上げる澪へ、いまは無理だ、と成型途中の肉ダネと汚れた両手を示した。
 結局、慌てて手の水分を払った澪がテーブル横のリモコンまで走って来て操作する。ぐんと音量を上げた司会の声が今週のヒットチャートを挙げ始めたのを見て嬉しそうにする理由が、澪の勤めるレコード会社の新人が出した曲がランクインしているからだと、初も分かってる。作曲者として澪の名前も出るだろうか。
「明日って家にいるの」
「ん? うーん、買い物は行こうかなって思ってたけど。どうしたの?」
「宿題で、家の人のお仕事レポート作れって。母さんの作った曲をまとめるから、話が聞きたい」
「あら」
 目当ての歌手が紹介されるのが随分後半になるだろうことを確認してキッチンへ戻った澪へと、初が切り出す。当たりを作りたいからこれもお願いね、と後になって渡されたチーズのブロックを肉ダネの真ん中へ押し込みながら、見た目には淡々としてばかりの息子の感情表現まで預かるように、澪がきらきらと目を輝かせ始める。
「それならドライブにしよう! 今夜のうちにプレイリストを作っておくわ。一曲ずつ流しながら、制作秘話を語ってあげる」
「……助手席だとメモが出来ない」
「家についてからアンコールしてあげる。心に響いた一曲をしっかり覚えておくことね」
 ただでさえ機嫌の悪い日のない澪が、さらに上機嫌ともなると少し手元が心配になる。ふたり暮らしのマンションに作り付けた防音室もあると言うのに、『誰にも迷惑を掛けない車の中で目一杯声を張り上げて歌いたい』のが『ドライブ』だ。肉ダネを並べたバットを持っていくついで、包丁気を付けて、と囁きかけておくと、大丈夫! と陽気に返した澪は、さっそく初が渡した使用済のボウルをシンクへと落っことした。



 子どもが行方を晦ましたのはその直後だった。
 近くの海辺を散歩していて、目を離した瞬間に、息子がどこかへ行ってしまった。泡を食った母親の通報は、砂浜に立ち竦む子どもがそうそうに見つかったことで大事にはならなかった。不可解だったのは、家に戻った子どもの証言の意味するところだけだ。
 ――歌の聞こえる方へ歩いたら、知らない、海にいた。



 声が途絶える。導きの手がふっと放される。
 我に返ったときには腰まで海に浸っていた。視界に頼る必要もない旅路のなか、焦点を合わせることすら忘れて進んだ景色の真ん中は、取り残されてみれば有機的な黒い水面の蠢くおそろしいほどに深い色をした夜だった。
 呆然と立ち竦む足元はどうやら海藻の群れに踏み入っていたらしく、後退りしようとすると体を重たく引き留めた。ぞっと肌が粟立つ。あれほどまでに優しく自分を受け容れてくれていた海が、褪めた表情でこちらを睨んでいる気がする。
 どこまで来てしまったのかも、もう分からない。早く帰らなくちゃならない。目印なんかなくても引き返すしかない。来た道を、元の通りに。



「初。お昼、海辺へ行った?」
 初が包丁や火を扱うことを、澪はもう止めなかった。晴れて家庭科の授業が始まったからなんてのは建前だ。そうするしか、ふたりの暮らしが成り立たなくなったからだ。
 キッチンへやって来た澪は、空調の効いた家の中だと言うのに、震える寒さを誤魔化すように羽織ったカーディガンを胸の前で掻き寄せていた。問い掛けには間を置かず否定で応えながら、初は次の言葉を探しあぐねる。母の具合が日に日に悪くなってゆく原因が風邪や怪我ではないこと、聡い子どもは理解していた。どんな返答が最も澪に負担を掛けないか、悩む表情を見せずに済むことだけ、自分の欠落に感謝した。
 あれだけ嬉しそうに話してくれた仕事に行かない日々が続いている。テレビは歌番組を流さなくなった。キッチンでふたり並ぶ日は随分減った。初の知らない楽器の扱い方を教えてくれることも、ちぐはぐな鼻歌にタイトルをつけて、親子だけの流行曲にすることもなくなった。
「今日は五時間目まであったから、すぐ帰って来た。俺に似た子でもいたの」
「……ううん、それならいいの。お皿出すね。ごめん、今日も、買い物済ませたあとなんだかぼーっとしちゃってて」
「母さんが買い物。俺が料理当番。これで合作だ」
 ありがとう、と澪が笑う。日に日に儚いほどの脆さを増していく母の表情を、どうしても救えない子どもの無力に歯噛みする初の手元で、形の揃わない野菜が入ったカレーが仕上がっていく。

 ぼうっとした、とか。眠気が取れない、とか。
 はじめの兆しはその程度のものだった。疲れてるんだろうと、澪も周囲もそう思った。初が姿を消した一夜の迷子を切っ掛けに、これまでの疲労が体に圧し掛かって来たのだろうと。
 次第に、澪はさまざまなことに集中出来なくなっていった。いつも出来ていたことが出来なくなっていった。信号の色が変わったことに気付かない。馴染みの店へ辿り着けない。初との連弾の途中、急に続きが弾けなくなる。いよいよ職場でひとの話している内容が言葉として捉えられなくなったのだと、休職を決めたのはその頃だ。
 初が洗い物を済ませれば、ソファに深く座った母はいつの間にか微睡んでいた。これほどまでに起きていられないとすぐ眠ってしまうのに、目の下のクマは日に日に濃さを増してゆく。
 座面を揺らさないようにそうっと隣に座った。小さな声で歌い出すのは、いつかのドライブの日、澪が初めて世に出したんだと誇らしげにしていた一昔のバラードだ。恋人を思う切なさを綴った歌詞はどうでもよかった。繰り返すこの眠りの歌が母の助けになるかどうかなんて分からない。ただ、ハンドルを握った澪の幸福な横顔を想って歌う。
 ――初はどんどん上手になるわね。楽しそうに歌ってるのが聞いてる私にも分かるもの。
 ――ねえ、初、あなたがもう少し大きくなったら、曲を贈らせてね。初の才能を始めて見つけたプロデューサーは私なんだって。
 ――約束。



 あの子が、歌ってる。
 また今夜も、体は夜の海に浸っていた。曖昧な意識のなかで暗いばかりの世界を眺める。眠っているとも、起きているとも分からない。近頃は暮らしのなかでもずっとこうだ。黒い海の世界から目覚めるたび、おはようって初を抱き締めて現実感を取り戻すやり方が、うまく出来なくなったのはいつからだっけ。
 遠い海から声がする。今日はなんだか不思議なほどに、ほんとうのことが分かっていた。あれは初の声だ。海辺であの子が行方を晦ました夜からずっと、歌を聞くたびに不思議だった。澪が教えたのとは違う発声と|歌い方《メロディ》を、どこで身につけたのだろうかと。いま、海鳴りと共に聞こえる声こそが初のそれだ。澪の知る初の歌。迷子のあの日に、忘れて来たんだ。
「会いに行くね」
 ひとりにしてごめんなさい。
 海の果てまで、迎えに行くわ。



 初が澪にやっと会えたのは通夜の席だった。海岸に打ち上げられた遺体を警察が引き取り、一通りの捜査を終えてようやく、連絡を受けた親戚が葬儀社とのやり取りを万事取り計らってくれた――とは、あとになって聞いた話だ。ひとり残された子どもにどこまで真実を伝えるか、大人たちの悩みもあったろう。
 白木の棺桶の小窓が開かれる。顔回りばかりは精一杯生前の姿を取り繕われていたが、初の若い目には海底の石やらに打ち付けたのだろう細かな傷が頬を走っていることがよく分かった。
 ずっと、母親と自分はぜんぜん似ていないと思っていた。
 それが、澪が笑顔を失ったいまになって、一目で分かるほどによく似た顔立ちをしていることを思い知る。
 ごく僅かな親族だけを集めた会だった。棺桶の傍に佇んで動こうとしない初を見て、大人たちの密かごとはどれもこれも沈痛な響きに満ちている。シングルマザーとして愛情深く息子を育てる澪のことを厭わしく思う者はそう多くなかった。だから、初の耳に届いたその会話だって、なんの悪意があったわけでもない。
「自殺だって」
「年明けに会った時はぜんぜんそんな風に見えなかったのに」
「ああ、でも、ちょっと変なこと言ってなかった? 今思えばあれって、不安定だったからなのかも」
「変なこと?」
 ――歌が聞こえるって。
 ――眠るたび、海から、子どもに呼ばれる夢を見るって。
 ほんの少しの哀しみすら表せない初の目から一筋の涙が零れる。掌で罰するように口元を押さえる仕草は、周囲からすれば泣き顔を隠そうとする強がりにでも見えただろうか。

 セイレーン。
 舟歌でヒトを海底へ誘う、怪物の名だ。
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