偽りのウェヌス
不可視の怪物に対して――見えない怪物どもに対して――粉を吹きかけたところで、現実、輪郭が把握できるのか、否か、その程度の結果であろう。鯨で在ろうとも蛇で在ろうとも、そのようなもの、目にした角度で変わったくらいにしか思えない。まるで月の表面だ。兎が跳ねているのかも、蛙が跳ねているのかも、まったく解せやしない。道を違えてしまったのか、あえて寄り道をしてみせたのか。その判断すらも二人にとっては難しいだろう。尤も、二人とも、いよいよ地獄巡りなどと謂う沙汰には動揺すらもしないのだが。たとえば、頭部を洗浄したとする。たとえば、脳髄を洗浄したとする。その際、こぼれ落ちた蜜の甘さについては――果てしなくも、筆舌に尽くし難いものと描けるだろう。仮に此処を曰く付きな店の奥だとする。仮に此処を工房の最奥とする。……あなた、わたくしを前にして、些か不注意なのではないかね。文字通りの根源から浴びせかけられた言の葉。これが根源の優しさなのだとしたら、これが【メルクリウス】の掌の上なのであれば、嗚呼、四之宮・榴は頭を抱える以外にない。……その、僕が……不注意なのだとしたら、メルクリウス様の所為ですね……? 模範的な患者ではないか。とんでもない患いではないか。お互いに、感染している事くらいは自覚していると謂うのに、この、病的な関係性は一向に進みそうにない。ワハハ! 患者がわたくしに対して、主治医に対して、疑いを抱くなどありえない。それこそ、わたくしが天地をひっくり返すようなものだ。では……そろそろ、予定していた『触診』に移るのだが……その前に。榴嬢……「手を椅子の肘置きに乗せておくように」……。促されるかのように、誘われるかのように、生贄の亜種は『椅子』とやらに腰をかけた。……メルクリウス様、これで……大丈夫、ですか? 欠片として問題はない。欠落は何方もしていなければ成らない、が、問題などない。では、あなた。わたくしの指示に従って動くのだよ……まあ、その状態ではもう『動けない』かもしれないが。事実、動かせない。患者は主治医の|命令《ことば》に逆らってはならないのだ。チカチカ、チカチカ、アンプルが光を反射している。
アンプルを用意する必要など殆どなかった。針の鋭さすらも最早、不要なのかもしれない。たとえば、土星に棲んでいるとされる蟾蜍、彼等の食料は川なので在るが、その川と同程度なほどに贄の中身は毒々しかったのだ。……おもしろ。何が面白いのかと問われれば【メルクリウス】、榴の果汁が……水銀が、前以上に増えていたが故だ。……メルクリウス様? いったい、何が、面白いのですか……? お互いに慣れてしまった。慣れに慣れたが為に、この掻っ捌きすらも苦にあらず。さて、贄の肚からこぼれた腸は|万物流転《インビジブル》によって生命活動を維持させられる。アッハッハ! あなた、わたくしが想像していたよりも『できて』いる。いや、此処までの順応は……わたくしも吃驚だ。戦闘員どもが羨望の眼差しを向けるほどではないのか。幼げな怪異が「むぅ」と転がるほどではないのか。悪の組織の元幹部でも中々お目に掛かれない一種の奇跡……いや、イレギュラー。それで、あなた。皮も、肉も、骨も、腑も、触れてきたのだ。次の段階に入っても大丈夫だとは思わないか……? これも【メルクリウス】の証明で在ろうか。これも【メルクリウス】の定義で在ろうか。待合室ではお静かに――。
――しなくてもよい。何故なら、待合室で在ろうと、診療室で在ろうと、此処はディー・コンセンテス・メルクリウス・アルケー・ディオスクロイの領域なのだから。主治医が患者に対して『うるさく』しても構わないと、そう、黙しながら許可した場合、あらゆる『音』が大歓迎とされた。嗚呼、次の段階とはつまり……好き勝手しでかすと謂う意味であった。……め、メルクリウス様……? その……何を、なさる、つもりなのですか……? 何者かの囁き声が脳裡で、ぐるんぐるんと大回転。わからない。何も、わからない筈だと謂うのに、四之宮・榴は目を回した。……え……あ……? いったい、どこに……指、を……! むに。まるで怪異を愛でるかのようだ。まるで天使を弄り倒すかのようだ。主治医は最早情念の障りであり、患者は最早情念の触りである。何処かの太夫が溜息を吐いてしまいそうなほどの――段階とやらのすっ飛ばしであった。生殺与奪は誰が為に。活殺自在は誰の為に。自分の為でもあり彼女の為でもあり……兎にも角にも、物理だろうと精神だろうと!
そもそも、懲りていないのだ。懲りていない現状に疑問を抱くべきだったのだ。座るだけなら構わないと、診るだけならば構わないと、身投げをしてしまった所為なのではないか。おそらく、患者は『それ』を理解していて坐したのだ。理解していなくとも、それは、危機感だけで避けられた筈である。なんだか、凝っている? 凝っていると考えたのだから、その先に辿り着くべきではなかったのだ。おお……誘い受けが上手なお嬢さんだ。きっと、この状態がバレてしまったら――何処かの本頭にまで『アッハッハ』と笑われる! がくん、と、身体が落ちそうになったのは精一杯の抵抗か、或いは、脱力。自分が照れているのか、恥じているのかも不明なほどに、脳味噌が痺れていると謂うのに――この堕落、この脱落。おっと……榴嬢………わたくし、其処から動くなと謂った筈だが……。チカチカと忙しない世界にほんのりとした慈しみ。そっと椅子の方に戻してくれた|主治医《せんせい》は容赦を知らない怪人である。では……良い具合に『診えた』のだ。とうとうやってしまったついでに、もっと、やってしまおうか。ああ、困った。まったく、困り果てた。あなたの反応がかわいらしくて、愉しくて、わたくし、困った! 鯨の解剖には飽きてしまったのか。鯨ではないと理解してしまったのか。絆され、ほぐされ、謳われてしまったのか。
直接的な痺れに――快楽に――脳味噌が混乱していた。いや、混乱しているのは思考だけであって、身体の方は『不明』な儘に欲している。……や……やぁ……っ……見ない、で……っ……! 見ないでほしい、聞かないでほしい、そして何よりも、知りたくない。過去だ。伽藍洞の過去が波のように押し寄せ、ひとつの答えに到達してしまう。これを味わった記憶などない。記憶などないと謂うのに、形容し難いほどの熱に浮かされている。浮かされ、狂わされ、何度目かすらも解せない|悪夢《しるけ》にやられたのなら――いっそ、死んでしまいたいと涙とその他が訴えかける。……おもしろ。あなた、どこまで入っているのか、わかるのだ。なぁに、わたくし、今回は可能な限り傷つけたりはしないつもりで……。宣言通りだった。宣告通りだった。まるでスポンジを優しく扱うかの如くに――薬液を吸収させるかの如くに。真っ赤だ。もう、立派に熟している。くてぇと傾いた頭部はさて何を映しているのか。十分だろう。あとはブロックのように遊ばせるとよろしい。
身体が揺れている。揺れている所為か、頭が痛い。何かしらが脳髄に染み込んで、目覚めを促しているかのようだ。何かしらが精神に溶け込んで、嘲笑っているかのようだ。……榴嬢、また、死にかけているのか? 不可視を撃ち込んだ。死に体の蟾蜍よりも――活きはよろしい。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功