√泣かない蒼鬼『涅槃を思う』
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はらり、はらりと落ちるように月明かりが天に揺らめいている。
揺らぐ泡の輪郭がそう見せるのか、それとも泣けぬ己の代わりに天が泣いてくれているのか。
揺らめく天の銀。
それは星々よりも近く、けれど天原のように掴むことのできぬものであった。
ああ、と吐息が漏れるとまた泡が昇っていく。
その代わり、己の体は深く、深く地の底に引きずり込まれるようにして落ちていく。
不思議な感覚だった。
地にあるはずなのに、地に沈む感覚。
泥濘のそれとは違う感触に不思議と恐れはない。
むしろ、どうしてだろうか。
心地よいとすら感じてしまう。そう、『此処』こそが己の在るべき場所なのではないだろうか。
そう錯覚してしまうほどの心地よさに身を任せ己の吐息が泡となって天に昇っていく。
ゆら、ゆらと揺れる天の銀。
月明かりのあそこまで、一等高いあそこまで、どうか届いてほしい。
そして、願わくば――。
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悪意というものに見境はない。
そこに倫理は介在できない。いや、あえて無視されるものであると語られるところであろう。
悲しいかな。
それは人の倫理であると語るところの者がいるのだとしても、今眼の前に起こる光景を目の当たりにすれば、人も妖怪も集合体としての在り方を持ち得るのならば、やはり同じ路を往くのだと理解できるところであったことだろう。
「結局、清廉潔白など一つでも汚濁が付けば、それに価値はなくなる。そういうものだ」
実際にはもっと、ひど言い方であったかもしれない。
思い返せば、櫃石・湖武丸(蒼羅刹・h00229)は、そうだった、と納得したかもしれない。
けれど、それは聞くに耐えない己の家族に対する誹謗であったし、心無い中傷であった。だから、己に優しくしてくれる家族のことをそう悪しざまに言う妖怪たちに対して湖武丸は一歩を踏み出していた。
理由は単純だ。
どうしたって許容できるものではなかったのだ。
どれだけ家族の教えが己の心の支えになっているのかもしらずに、あの妖怪たちは己の家族のことを誹ったのだ。
「どうしてそのようなひどいことを言うんだ。おれの家族に」
その言葉に妖怪たちは眉根を釣り上げた。
小生意気な子どもの言う事だと、本来ならば受け流されるところであったし、取り合われることもなかっただろう。
けれど、妖怪たちの悪意というものは、湖武丸がまさしく己たちが誹っていた櫃石家の騒動の渦中にある存在であると理解した瞬間、許されざる者へと向ける視線につり上がっていた。
逆さの三日月よりも細い、繊月のような一対の眼が湖武丸を突き刺す。
「ゆるせないぞ。そんな物言いは。おれの家族にあやまれ」
はっきりとした物言いにより一層、妖怪たちの神経が逆なでされるようだった。
彼の言葉はまっすぐだったし、真芯があった。
だから、余計に彼らを怒り狂わせただろう。
正しいことが強いわけではない。悲しいけれど、それが齢十を数える湖武丸にはわからなかった。
腕っぷしではどうにもならなかった。
だが、どうしたって泣けない湖武丸の態度に妖怪たちは苛立ち、見せしめに彼の角をへし折ってしまう。
その瞬間さえも湖武丸は泣くことはなかった。
折れた角を弄び、妖怪たちは言う。
「こいつを喰らえば羅刹鬼の力を得られるかもしれない」
それは冗談だったのかもしれない。
だが、喰われるという言葉に湖武丸は震えてしまった。恐怖したのだ。
笑い声が背中から追いかけてくるようだった。
「どうしよう」
喧嘩に負けた事は確かに恥かもしれない。
だが、それ以上に胸中にあったのは母の顔だった。折れた角を見れば、きっと母は動揺するだろう。泣くだろう。それは見たくない。
家に帰れない。
このままでは、到底帰れたものではない。
とぼとぼと湖武丸は当てもなく歩み続けるしかなかった。
日が暮れ、とっぷりとした夜の帳が降りる頃合いになっても、家に変える決心が付かなかった。
「……どうしよう。家に帰らねばならない。けれど……」
歩み続けた先に広がっていたのは、銀の月照らす湖だった。
湖面一つが空に浮かぶ月を受けて、地上にある月のように輝いていたのだ。
あまりにも美しい光景に湖武丸は、それまでの不安や恐怖を一瞬忘れて、疲れ果てた足を引きずるようにして近づいていく。
幸いに小舟が一艘、岸につけられているのを見つけ、湖武丸は銀の光反射する湖面へと滑り出す。
その光景は心の中の不安や心配事を洗い落すようだった。
だが、所詮、それは結局のところ錯覚でしかない。一時しのぎでしかなかったのだろうし、心というのは思い出したように傷口を開いて血潮を流すものだ。
湖武丸にとっても例外ではない。
銀月の光は、湖面をまるで鏡。
覗き込む湖武丸の瞳に映ったのは、己の顔だった。
いつもと変わらない顔。
けれど、その額に生えた角が折れている。
ぞわりと心に走るのは恐怖だった。
「……消えろ。こんなものは。消えてしまえ。こんなことは」
手にした櫂で湖面を叩く。
飛沫が飛び、湖武丸は一層強く湖面を叩いては、映る己をかき消す。
あんまりにも強く叩きつけるものだから、彼の体は小舟の上でぐらりと揺れて、一際大きくバランスを崩して湖面へと落ちてしまう。
冷たい湖の水が己の血潮を冷ますようだった。
「でも、これで己の姿を見なくて済む」
それは安堵。
けれど、同時に思い出してしまっていた。
自らが泳げないという事実を。忘れていれば、自然と体は浮かび上がっただろう。
一度パニックになった思考は落ち着いてはくれない。
手を伸ばし、足をばたつかせる。
力を込めれば込めるほどに湖面は己を引きずり込むようだった。
冷たい水が臓腑に入り込み、肺を冷やし、その心の臓まで凍りつかせていく。
その感覚を何処か他人事のように、思っていた――。
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揺れる湖面が再び鏡面を取り戻したとき、ゆっくりと視えぬ怪物――インビジブルが涙のように鱗を溢しながら空へと昇っていく。
はらり、はらり、と落ちる鱗は、銀月を受けて煌めく。
その光景を誰も見ることはなかった。
誰も。
誰も、知ることのない天の銀――。
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「湖武丸!!」
それは涙と怒声がないまぜになったような声だった。
母のそんな声を聞いたのは初めてだった。
家族みんな同じだった。
湖武丸は、二本の角を所在なげに弄りながら、ぺこりと頭を下げた。まるで何事もなかったかのように、何一つ変わりない姿で、ひょっこりと現れた。
彼がいなくなって数日。
家は大騒動であったのだという。
「とてももうしわけなく思って」
そう弁明する言葉も遮られて泣かれて怒られて無事を確かめられては、また泣かれた。
困ったな、と内心思っていた。
けれど、一つ安心もしていた。
家に帰れた。
そう、折られた角は元通りになっていた。
それを知られなくてよかった、と思ったのだ。
そして同時に、己が味わった湖での出来事の心地を思い出していた。
「また」
または、まだ駄目だな、と思い直す。
家族をまた泣かせてしまう。
悲しませることは本意ではないのだ。
なら、今は。
けれど、と湖武丸は諦めきれない。
いつかまたあの心地よくも安らかな時に包まれることがあるのかもしれない。そうであったのならば、と思う。
煩わしい者全てを置き去りにできる、たった一つの方策を知れた。今は、それだけで――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功