午前0時、異世界エレベーターで。
ある日の午後、大鍋堂にて。
「さて、そろそろ注文のあった魔法アイテムの準備を……」
午後の一服を終えた茶治・レモンは、残っていた仕事を片付けようと重い腰を上げた。
まさにその瞬間、バターン! と勢いよく開かれる店のドア!
「にゃあっ!?」
「お疲れ様です! 魔女代行くん!!」
堂々と入ってきたのは、日宮・芥多だった。奇声を上げて固まったまま、二人の視線が交わる。
「……えーっと、もしかしてあれですか? 業態を変えてそういう層にリーチするとか」
「ち、違いますっ! ちょっと癖が残ってただけですっ」
レモンは真っ赤な顔で否定した。
「癖? なんです、魔女代行くんの不甲斐ないエピソードですか? 気になりますね実に、おちょくるために教えてほしいです」
「邪念をもう少し隠しなさい!! 絶~~~っっっ……対! 言いませんから!」
猫に変身する魔法にチャレンジしたら成功したはいいものの元に戻ることが出来ず、おかげで死にかけた……なんて正直に話そうものなら、向こう一週間はからかわれることは想像に難くない。
「ははぁ、なんとなくわかりましたよ。もしかして珍しく魔法に成功したけどその代償に結構洒落にならないトラブルに巻き込まれたか、あるいは自ら起こした……そんなところですね?」
「そ、そそそそんなわけないじゃないですか!」
否定する声はどもり、上ずっていた。どうしてこういう時に限って、このろくでなしは勘が冴えているのか!?
……と、レモンが思ったかどうかはともかく。
「はぁ……僕をからかうためだけに来たのならお客さんではないですね」
レモンはむくれ、ジト目になると、芥多は両手をパタパタ振った。
「いやいやまさかそんなわけないじゃないですか。さあ、どうぞ俺を歓迎してください!」
「……はぁ……」
なんともふてぶてしいが、こんなんでも立派な客である。レモンは気を取り直した。
「はい、いらっしゃいあっ君。ではまず――」
「お? もしかして俺の日頃の素行がいいもんだから、記念品とか出ちゃいます?」
「ドアは! 静かに! 開けて!」
レモンは開けっ放しのドアを繰り返し指差し、叱りつけた。
「わかりました。今日のドリンクはとりあえずブラックでお願いします」
「き、聞いてないし……!」
この男、これでもレモンより(ほぼ)一回り年上の大人である。
「まぁ、いまさらですね。ブラックコーヒーならありますけど、インスタントですよ?」
「大丈夫、俺は心が広いおおらかな人間なので気にしません」
「本当に口が減らないんだから……」
とかなんとか愚痴りつつも、甲斐甲斐しく応対してしまうレモンにも問題はあるのではないだろうか。
ともあれ、レモンはコーヒーを淹れるためキッチンへ。待つ間、芥多はソファにごろんと寝転び、どこからともなく変な目の描かれたアイマスクを取り出して装着、さらにマイ枕を頭の下にセットした。
数分後、お湯を沸かしたレモンが戻ってきた。
「はい、コーヒー入りまし寝てるー!?」
その時には芥多は既にブランケットまで被り、完全に熟睡の体勢に入っているではないか。どっから出てきたんだ。
「もー! 起きてください、起きなさい!」
「うーん……なんですか、人が寝てる時に……」
芥多は揺さぶられ、不服そうにアイマスクを外した。
「少々疲れてるんですよ。なので今とても眠いので……後にしてくれます?」
「コーヒー冷めちゃいますよ!? いや、そうじゃなくて!」
ブランケットを強引に剥ぎ取り(芥多は「ああっ」と情けない声を漏らした)マイ枕も取り上げ、畳んだブランケットの上にきちんと置く。
「いくら眠いからってソファで寝ないでください」
「……?」
芥多は初めて人類の言語を耳にした原始人のような顔で首を傾げた。
「なんですかその不思議そうな顔は」
「……ああ。なるほど、言わんとしていることはわかりました」
ぽんと手を叩くとソファから降り、床にどこからともなく取り出したもう一枚のブランケットをマットレス代わりに横になる。
「……床で寝ろと誘導したわけじゃないですよ!?」
「ぐえー!」
テーブルクロス抜きのようにブランケットを引っこ抜かれた芥多は、固い床に叩きつけられた。自業自得である。
「何をするんですか! せめて畳にリフォームしてくれませんかねぇ!」
「確かに和風エリアも魅力的……って違う違う! いいから大人しく座ってて! もう!」
幸い、コーヒーは冷めずに済んだ(保温カップなのだ)。
それからさらに数分後。
「よし! ブラックのおかげでスッキリ目が覚めました!」
「……」
レモンはもはやツッコミすら諦め、ジト目で睨むのみ。
「いやあ、今日は本業のほうで面倒な仕事が舞い込んできてましてねぇ」
「この流れで自分の話題を貫けるの、いっそ感心しますよ」
「そんなわけで先ほど、ようやく一件片付けてきたんですよ」
芥多はドヤ顔で目を閉じ、少し前のめりになった。
「……?」
レモンは首を傾げた。
「あの、もしかしてまた居眠り……」
「違いますよ。ここは俺のことを偉い偉いと褒め称え、世界で最も偉大な男と崇め奉るところじゃないですか!」
「は??」
「なので魔女代行くんに俺の頭を撫でる栄誉を与えようと思ったんですが……やれやれ、話になりませんね」
何故かレモンの方が呆れられる始末。
「まあいいでしょう。とにかく今は二件目の仕事までの空き時間というわけで、休憩兼暇潰しとして足を運んだわけです」
「……どこからツッコめばいいのかわかりませんけど、|大鍋堂《ここ》は喫茶店でもネカフェでもないですからね……?」
まあ、仕事をしているのは事実。なので、レモンはそれ以上ツッコまないことにした。
そうやって甘やかすから、芥多が増長するのだ! ……と指摘してくれる第三者は、ここにはいない。
それからしばらくして、時刻は夕方ごろ。
「妖精の粉、鳥人族の羽、虹色の根っこ……あと、マンドレイク!」
レモンは用意した魔法アイテムを指差し確認し、帳簿にチェックを入れた。
「うん、これで全部揃いましたね。あとは明日来られた時にお渡しして……」
「……お、これは」
「?」
ちらりと芥多の様子を窺う。作業中ずっとダラダラスマホを弄っていたようだが、何か興味を掻き立てるトピックを見つけたらしい。
あるいは、二件目とやらの関係者から連絡でも来たのだろうか?
「あっ君、そろそろお時間では?」
「ああ、そうですね。魔女代行くんもお疲れ様ですよ」
なぜかにこやかな労いの言葉。レモンの第六感が、なにやら怪しい雰囲気を感じ取った。
しかし深入りすると逆におもちゃにされそうな気がしたので、レモンはひとまず置いておくことにした。
「社交辞令ですけど、どうぞ気をつけていってらっしゃ――」
「その前に」
立ち上がりいつのまにか準備を終えた芥多は、片手を突き出し送り出しの挨拶を遮った。
「魔女代行くん。今、君のスマホにメッセージを送りました」
言葉を証明するように、懐に忍ばせたスマホが震動する。レモンはその場で取り出そうと……したところで、さらにずいっと手を近づけられる。
「それに書かれてる指定の時間に、指定の場所へ来てください」
「は、はぁ……? 今伝えるのではダメなんです?」
「ダメですとも! それじゃ俺は仕事に行ってきますので、これで!」
「いってらっしゃ――」
パタン。扉は静かに閉じていた。
「なんなんですか一体……まあ、今なら見てもいいよね」
レモンは改めてスマホの通知をチェックした。内容は大雑把に書くと以下のような感じ。
『魔女代行くん! 君にクエストを与えます。まず、午前0時になったら店を出て、この住所にあるビルまで来てください。
おっと、君の思考は手に取るようにわかりますよ。こんな時間に出歩いたら補導されてしまう、と考えているでしょう?
俺の仕事がありますし、あとこの方が面白いし、法律の一つや二つ破っても問題ないので指定しました!
それではまた後ほど、お会いしましょう!』
「……えええっ!?」
レモンは慌てて扉を開けた。
「あっ君、どういうことですか!? 説明を……」
だが、芥多は影も形もない。こういう時だけ行動が早い。
「まったく、あっ君の無遠慮さには頭が下がるな……」
呆れたように呟きながら、スマホの画面を見つめ思案する――。
●
そして、午前0時。某所のビル前。
「おや、本当に来たんですね。ウケる」
迷いに迷った末、結局足を運んだレモンを出迎えたのは、薄笑いとともに放たれた一言だった。
「何笑ってるんですか警察呼びますよ? っていうかドロップキックしますよ?」
「魔女代行くん、暴力に訴えるのはダメですよ? あと、君のへなちょこドロップキックなんて当たりません。さらっと回避してみせます」
芥多は盛大なフラグを立てた。
無視するのも申し訳ないし、何よりよからぬことを企んでいるであろう芥多を一人にするのは恐ろしい……そんな奥ゆかしい気配りは、早々に裏切られたようだ。
「はぁ……それで、見つかったら即補導の時間帯に僕を呼び出して、一体何の用なんですか?」
レモンは建物を見上げた。見たところ10階建てぐらいの、特に変わったところのない普通のビルだ。
「はい、というわけで!」
「!?」
突然存在しないカメラに語りかける芥多にレモンはびっくりした。
「本日は異世界エレベーターチャレンジをしてみるデイといたしましょう! 早速突撃です!」
「……いやいやいや! というわけで、じゃなくて!」
もしかして本当にカメラが隠してあったりするのか? と訝しんで周りを注意深く調べてみるが、当然そんなものはない。イマジナリーカメラである。
「なんなんですか今のノリ……それ以前に異世界エレベーターってなんです!?」
「ご存知ないんですか? 遅れてますねえ」
何故かちょいちょいレモンを小馬鹿にする芥多。
「ほら、見てください。これを夕方見かけたんですよ」
バキバキに割れたスマホ画面には、都市伝説を紹介するサイトの記事が表示されている。
エレベーターに乗り込み、特定の手順でかなり複雑な操作を達成すると、別の異世界に到着する……という、その筋ではそれなりに有名なフォークロアである。
「……く」
レモンは開いた口が塞がらなかった。
「くっだらない……!!」
「え? 一体なんだと思ってたんですか? 秘密のデートとか?」
「ち、違いますっ! もっとこう、シリアスで重要な用事なのかとか……! ああもう! 心配して損した!!」
芥多はにんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「おやおや~? 心配してくれてたんですか?」
「……はっ!」
レモンは慌てて口元を抑えるが、時すでに遅し。
「いやあ、罪な男ですね俺は! 偉大すぎるあまりに魔女代行くんの心を騷がせてしまうだなんて!」
「ち、違……! そうやってからかうなら帰りますからね!?」
「まあまあまあまあ」
珍しく芥多が制止に回った。
「実は今回が唯一のチャンスなんですよ。このぐらい大きなビルじゃないと条件は満たせないですし、今晩だけなら自由に出入りしても平気なんです」
「……どういう意味ですか?」
何か引っかかるものを感じつつ、仕方なくレモンは頷いた。
「それにしても、どうしてこんな夜中を指定したんです? 記事を見たところ、別に時間指定はないですよね」
「だって夜のほうが雰囲気出るじゃないですか」
「……やめてくださいよ、怖い話じゃあるまいし」
「ん? 怖い話ですが?」
「え?」
「はい、じゃあエレベーターはあそこなのでとっとと乗り込みましょう」
「ちょっ……ま、待ってくださいあっ君! うわなんか急にぞわぞわしてきたんですけど!?」
芥多がスタスタ歩き出してしまったので、レモンはやむを得ずついていくことに。
ビル内の照明は最低限の節度を保っているため、明かりこそあるものの昼間に比べると薄暗い。
そんな中、エレベーターだけは唯一平時と同じように電気が入っている。ウィーン、と音を立ててドアが開くと、その時点でレモンはびくっとした。
「ま、待ってください……思ったより夜のエレベーターが不気味なんですけど」
「そりゃ当然ですよ、真夜中なんですから」
「あっ君はどうして気にしてないんです……?」
今だけは、芥多の図太さと自己肯定感が羨ましくて仕方ない。
「えーっと……まずは乗り込んだら、4階を押してと」
ギュグン……身体が下に向かって緩やかに押し付けられるような、あるいは引き寄せられるような独特の違和感が生じ、エレベーターは上へ昇り始める。
「……ご、ごくり」
レモンはゆっくりと切り替わる階層表示を見つめる。2階。観葉植物の置かれたフロアを通り過ぎ、3階……ネームプレートが全て外れた奇妙な事務所標識。いずれも無人……そして、4階。
ポーン。到着を知らせる電子音声がか細く鳴り、閉じていたドアがゆっくりと開いた。
「……な、何も起きませんね」
4階の壁には、やや色褪せたポスター。スーツの男性が拳を握り、何かビジネス的な啓蒙メッセージか宣言文句を吹き出しで述べているようだが、薄暗いせいで内容まではわからない。
「まだ始まったばかりですからね。じゃ、次は2階です」
芥多は「2」のボタンを押してから、「閉」を押した。ドアがゆっくりと閉まり……ギュグン……今度は上方向へ引っ張られるような微かな違和感。
ほどなくして3階に到着。やはりネームプレートが外れた奇妙な標識が目に入り、すぐに通り過ぎる。
2階。ドアが開くと、観葉植物が寂しげに二人を出迎えた。ジジジ……薄暗い照明か何かの音が聞こえて、レモンはそわそわと視線を彷徨わせる。
「こ、これで終わりですか?」
「何を言ってるんですか、まだまだ序の口ですよ。次は6階です」
芥多はもう一度スマホの画面を見せながら、「6」と「閉」のボタンを押した。
ギュグン……再び上昇の違和感が二人を襲う。3階。ネームプレートの外れた標識。4階。スーツ姿の男性の色褪せたポスター。通過していく。
ここで初めて、エレベーターは5階へ到着した。すぐ目の前にスーパーにあるようなスイングドアが鎮座している。どうやらこの階は食堂か何かが入っていたようだ。中はガラスが曇っていて伺えないが、いくつかのテーブルと椅子が並んでいるのは、ぼやけた色合いでわかる。
そして、6階。ポーン。ドアが開く。
「休憩室」の矢印つき標識の隣に、ぼんやりと光を放つ自動販売機が鎮座していた。エレベーターの中から見える景色はそれだけだ。レモンはあえて首を出して覗き込むつもりになれなかった。
「次は2階、そのあと10階ですよ」
芥多はもう一度「2」と「閉」のボタンを押した。
「そ、そのあとはどうするんです? そこで終わりなんですか?」
「まあまあ、楽しもうじゃないですか。人生は楽しむのが肝心ですよ」
「こんな状況で含蓄あるようなこと言われても全然響きませんっ!」
と言っている間に、エレベーターは4階にさしかかっていた。
「――……あれ?」
その時、レモンは奇妙な違和感に襲われた。
咄嗟に階層表示を見る。4の数字と下向きの矢印マーク。視線はドアのガラス越しに外を見る。4階を通過し、エレベーターシャフトが視界を遮った。
「……今、何かおかしくなかったですか?」
3階。そこでレモンは違和感の正体に気付いた。
どちらの階も、照明が消えているのだ。
いや、それどころではない。仮に何らかのセーフティや自動的な機能で照明がシャットダウンされたのだとしても、エレベーター内の照明が漏れ出し、すぐ目の前の壁ぐらいはうっすらと見えてもおかしくないはずだ。
なのに、どちらの階も完全な暗闇だった。
ネームプレートの外された奇妙な標識も、色褪せたスーツ姿の男性のポスターも、どちらも見えない完全な黒一色だったのである。
「あ、あっ君……」
芥多は無言。レモンは祈るように階層表示を見上げた――「2」。ポーン。頼りない電子音声が響き、ゆっくりとドアが開く。
そこにあったのは、やはり完全な暗闇だ。
「……!?」
エレベーターのすぐ手前に置いてあるはずの寂しげな観葉植物は、姿を消していた。
(「――|違う《・・》」)
レモンは直感した。|此処《・・》は、さっきまでの2階フロアではない。
消灯したのだとか、夜が更けて闇が色濃くなったとか、そういう話ではなかった。まったく別の、得体の知れない空間が目の前に広がっている!
「いいですねぇ!!」
「ふぎゃっ!?」
芥多が突然大声を上げるものだから、レモンは身体をピーンと伸ばし固まった。猫状態なら、全身の毛がぶわりと膨らんで二倍近く丸っこく見えたかもしれない。
「実に雰囲気が出てます! それに、ほんの先すら真っ暗で何も見えないなんて、まるで人生みたいで面白いと思いませんか魔女代行くん!」
「い、いいいいきなりなんですか!? 驚かせないでください!」
「じゃあ次は10階ですね」
芥多はけろっとした顔で「10」と「閉」のボタンを押した。
扉が閉じ、再び上昇が始まる。静寂が訪れた。
「……おや、どうしました? もしかして怖がってます?」
「は!?」
レモンは平静を装い、わざとらしい咳払いで誤魔化した。
「ぜ、全然怖がってませんけど? 普通ですけど???」
「そうですか。ここからまだ続きますからね、楽しみにしててください!」
「全然楽しくないんですが……! ち、ちょっと陽気な音楽とか流していいです?」
「何を言ってるんです? こんな時間に迷惑でしょうが。どう考えても非常識です」
「急に正論で刺すのやめてもらえません???」
そんなやりとりをしている間に完全に暗闇なフロアを3、4、5……と次々に通過しているのだが、レモンはさっぱり気付いていなかった。
……そして、10階。ポーン。到着を告げる電子音。
「ひっ」
びくっとしたレモンが外を見ると、ここだけは元の明るさに戻っていた。目の前には扉が一つ。屋上に通じるものだろうか。
「さあ、ここからが見ものですよ」
大した感慨もなく、「閉」ボタンが押される。レモンはもう一つ「5」のボタンが点灯していることに気づいた。
「……? これで終わりじゃないんです?」
「次に5階に止まると、女性が乗ってくるそうなんですよ」
「え゛」
芥多はスマホを手に読み上げる。
「でも絶対に話しかけたダメらしいです。もし話しかけると……」
「は、話しかけると?」
「……そろそろ5階ですね!」
「話しかけるとなんなんです!? ねえあっ君!?」
「ほら、6階を過ぎましたよ。やっぱり真っ暗ですね。ウケる」
「ウケませんよ!? というかこんな時間帯に乗ってくるなんて関係者か不審者か、それか迷子か幽れ――」
ポーン。もはや不気味に感じられる音が鳴った瞬間、レモンは喉から「ヒュッ」という掠れた吐息を漏らし、完全に固まってしまった。
女性が、現れたのである。
いや、より正確に言うなら、|既に乗り込んでいた《・・・・・・・・・》。いつのまにドアが開き、そして乗り込んでいたのか。疑問を口にすることすら憚られるなか、扉は閉じる。
「……!!」
レモンは全身の毛穴が開き、嫌な汗が噴き出すのを感じた。女性はレモンの対角線上、つまり操作盤を前に立つ芥多の後ろにいる彼から見て、逆側の隅に立ち前を向いている。そのため、顔は分からない。長い黒髪で、ファッションはごく普通――否。こんな時間の、人気がないビルの、しかも5階に居たことを考えると、絶対におかしい。昼間の町中ならばともかく、夜中のビルなのだから。
「本当に乗ってきましたよ、びっくりですね」
「!?」
芥多がわざわざウィスパーボイスで囁くものだから、レモンはまた全身をピーンと硬直させ絶句した。何故この男は平然としていられるのか?
「多分この人ですよ、この人。絶対話しかけたらダメですからね(小声)」
とかなんとか言いながら、「1」のボタンを押す。女性を乗せ、エレベーターは下へ。
「……あっ君(超小声)」
「絶対にダメですからね!(普通の声量)」
「あっ君(小声)」
「わかってますか、魔女代行くん! フリじゃないですよ!(大声)」
「あっ君っっっっ!!!!!(気持ちだけは限りなくクソデカ大声に近い小声)」
ポーン。1階。そこはさっきと同じ薄暗いフロアだ。
レモンは汗をダラダラ流しながら女性の出方を窺う。降りる気配は……ない。
「はい、行ってらっしゃーい」
代わりに芥多が降りた。
「え?」
レモンは一瞬、時間が停止したような錯覚に襲われた。
にこやかに手を振る芥多。点灯した「10」と「閉」のボタン。無情に閉じるボタン――。
「……」
ギュグン。エレベーターは上昇を開始した。
「――~~~!? ~~~~!?!?!?」
レモンは操作盤に飛びつき、どこかの名人もかくやのスピードで「2」のボタンを連打しまくった。隣の角に立つ女性の顔を見ないよう、操作盤だけを凝視する。1秒が1時間に思えるほどの静寂。
(「早く早く早く早く! は・や・く!!」)
ポーン。これまで死の宣告のように思えた電子音が、今だけは救いの福音に感じられた。レモンは同じ連打スピードで「開」を押しまくる。もどかしいほどの時間をかけ、ドアが……開いた! 外は暗闇ではない。寂しげな観葉植物!
「にゃあああああ!!」
レモンは叫びながら、新記録を狙えそうなスピードでエレベーターを飛び出し、野生の勘で階段を見つけ一段飛ばしで駆け下りた!
そして、一階。
「ひ――」
「おや、戻ってきちゃったんですか? じゃあ失敗」
「日宮芥多~~~~!!!!!!」
レモンの攻撃! 助走をつけたドロップキック!
「こんな時間に大声で叫ぶのはよろしくないですよ、普通に」
芥多はひらりと身をかわした!
「割けるな! ばか! ばかばかばかばか!!」
ぽこぽこ。レモンは駄々っ子みたいに芥多を叩いた。全然痛くない。
「ははは、蚊が止まってるみたいですね!」
「ばかばかばかばかばかばかばかばか!!!!」
恐怖のあまり、語彙力が消失していた。
二人はビルの裏口から帰ることになった。エントランスはエレベーターに面しているため、レモンから極めて強い反発が出たのである(降りてきていても来ていなくても怖いから)。
「しっかし誰だったんでしょうね、あの女性」
「そ、そんな軽いノリで僕を置き去りにしたんですか!?」
「いやあ、だって」
芥多は朗らかに続けた。
「今このビルで呼吸してるの、俺と魔女代行くんだけですよ?」
「――……へ?」
「だってこのビル、俺の二件目の仕事現場でしたから!」
「……………………」
しばらくレモンの背景に宇宙が現れた。
そして、彼の中で思考が繋がった。
「~~~ばか!!! もうっ、ばか!!」
「いやいや、待ってください。今度は俺一人でチャレンジしてみますよ。あの女性が何者かによっては、もう一度処理する必要が……」
「あなた正気ですか? ばかなんですか? 地球外生物なんですか???
あっ君VS幽霊も怖いんですよ! いいから帰る! 帰りますよ!!!」
「でも残ってた場合あとが面倒に」
「い! い!! か!!! ら!!!!」
レモンは有無を言わさず芥多を引っ張り、裏口へ急いだ。
「あと! 僕が夜に一人でトイレに行けなくなったら、あっ君に慰謝料請求しますからね!!!!」
「いやあ、裁判沙汰は困りますね! 出頭する時点で色々まずいので!」
「……ばか~~~~~~!!!!」
夜の空に、近所迷惑な叫び声がこだました。
それから特に何事もなく、二人はビルを後にした。
途中で芥多は意味深に引き返していたのだが、何をしていたのか……否、何があったのかについて確かめるのが躊躇われ、レモンは深く追求出来なかった。
今まで幽霊もおばけも普通程度には怖くなかったレモンだが、見事にこの大剣がトラウマになり、しばらく夜ふかし出来なくなったとか、ベッドから足がはみ出すとやけにそわそわしてしまうようになったとか――そのあたりは、別の話である。
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