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SerenAuthos

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 時間になっても声は聞こえず、電気も点かなかった。
 昏い部屋にあるベッドの上で重い体を起こす。少女の金色の長髪が白いシーツの上に零れるように広がった。その下にある金の双眸は、血色の悪い細すぎる指先を見詰めて、暫し茫然と口を噤んだ。
 ――セレン・アンジェロス(病んだ向日葵・h00260)は、己の身に起きたことを正しく理解していた。
 アンジェロス家は極めて一般的な家庭であった。他の夫妻たちと同じように恋愛結婚で結ばれた両親は、高給取りとはいえぬまでも薄給でもない、それなりに多忙な仕事を熟して生活をしていた。
 二人の間に生まれた待望の一人娘は、しかし初めて外の空気に触れた瞬間に産声を上げなかった。
 医師の懸命な処置によって死の淵から息を吹き返したときから、セレンは決して癒えず名もつかぬ病に身を浸して生きていくことを余儀なくされた。成人の日を迎えることは難しいだろうと渋い顔の担当医から宣告を受けたのは、一歳にも満たぬ頃だったと聞いている。
 以来、セレンの覚えている限り、彼らは娘のために全てを擲ってくれた。
 愛されていた。愛されていないときはなかった。少なくとも彼女に物心がついたときには、幼い一人娘が知らぬ間に息を止めぬよう、夜に眠っている彼女の許を何度も訪れてくれていた。熱が出ればすぐにも病院に抱えて行き、風邪一つが命取りになる彼女のためにあらゆる治療を施してくれた。病院に通うことさえ出来なくなった折には医者に頼み込んで往診をしてもらっていたこともある。
 誕生日には泣くほどに喜んでくれた。食べられぬセレンのためにケーキを用意して、一口でも咀嚼出来ればいたく嬉しそうな顔をした。プレゼントよりも、甘いケーキの味よりも、娘は両親の幸福そうな顔を見ているのが一番に好きだった。
 ――そんな生活が長続きしないことを、漠然と理解はしていた。
 体の弱さの代わりのように、セレンは歳にしては聡明な娘だった。徐々に少なくなっていく家財、質素になっていく贈り物、振り払えぬ陰を帯びていく両親の顔――少しずつ壊れていく家の中を動けぬベッドの上から見詰めながら、しかし年端もいかぬ虚弱な娘に出来ることは何もない。
 巨額の負担を要する最新の治療もセレンの体質を前には意味を成さない。最初のうちこそ模索していた改善の道は、成人までも生きられぬと告げられたときのまま一向に上向く兆しを見せない娘の体を前に徐々に手詰まりとなっていく。
 一般家庭の収入には重すぎる負担を背負い続けることは出来ない。ましてセレンは常に死の淵にいるといって過言でないのだ。母が仕事を辞め、つききりで彼女の看病を始めてから、父は仕事を増やして帰ることが少なくなった。娘が眠っている間もベッドの横で何やら作業をしていた母は、恐らくは内職で家計を助けようとしていたのだろう。さりとて次から次へと病をもらい、その度に深刻な治療を要するセレンを病院に預けるだけでも莫大な費用が掛かる。
 擦り減り続ける資金と精神は二人を蝕む。それでも生死の境をさまよい、絶えず病弱な身に有り余る命の苦しみを受け続ける娘こそが最も辛いのだと言い聞かせ、悪くなるばかりの未来を心に秘めて笑顔を保ち続けた。
 そして。
 愛情と努力の天秤が限界に達して折れたとき、両親はセレンごと全てを捨てたのだ。
 ベッドの上で、少女は父母を呼んだりはしなかった。昨晩に彼女の髪を撫でた手の感触を思い返して唇を引き結ぶ。歪んでいく視界の中で、細い指が折れんばかりにシーツを握り込んで、二度と聞こえない声を思った。
 愛されていた。
 それも失われた。
 二人は最後まで娘を愛そうとした。だから髪を撫でて、|おやすみ《・・・・》の挨拶と共に笑ったのだ。それがとうに全てを決めていた彼らが残した優しさであり、これから起こることへのせめてもの贖罪だった。
 圧し掛かり続けた負担は両親を追い詰め、遂には娘への愛情すら奪い去った。
 ――私のせいで。
 生まれてからずっと心のどこかで恨み続けていた体に、セレンは初めて強烈な憎しみじみた思いを抱いた。ベッドから降りることすら儘ならない身で二人を追いかけられるはずもない。長い病床生活が二本の足を上手く動かすことさえ許さない。力の弱い指で何が掴めようか。今にも動きを止めそうな弱々しい心配は、今も涙に詰まる呼吸だけで意識を奪いそうなほどの眩暈を誘発する。
 セレンが全てを壊した。自分が娘でなければ、二人は今もこの家で穏やかな生活を営んでいたのだろう。家財を売り払う必要はなかった。寝不足と資金不足に精神を擦り減らさずに済んだはずだったのだ。もしかすれば二人目の子供もいたかもしれない。
 そうでなくても、この体が少しでも快方に向かえば、この重苦しい閉塞感に満ちた世界の中にも確かな希望を見出していられただろう。セレンがセレンであったばかりに、二人は実の娘への愛情を自らの心ごと擦り減らして、とうとう全てを捨てて消えなくてはいけなくなったのだ。
 心が千々になりそうなほどに胸が痛んだ。このまま心臓が止まってしまえば良い。呼吸が止まってしまえば良い。いっそ幾度もさまよった生死の淵のどこかで足を踏み外せば良かったのに、それすら出来なかった半端に病弱な身が少女の自棄に応じることはなかった。体を折って咳き込めど擦り切れた喉から僅かに血の味が零れるだけだ。
 そのとき――。
 初めて、彼女は己の身にある|欠落《・・》を真っ向から認識した。
 手を伸ばしても届かぬ健康な体への昏い激情は、彼女の中にあるものを強く励起した。身も枯れよとばかりに泣き果てるセレンの髪にふと触れるものがある。思わず顔を上げて涙を拭った先には、小さな花が浮いていた。
 重篤な虚弱体質の代わり、娘は類稀なる才覚を持って生まれた。当人ですら知らぬそれを人は|霊能《・・》と呼ぶ。死者と対話し、或いは見得ぬ魂を見る、異能に近しい力――怪異に満ち溢れた世界の裡にあってなお強力なそれが、セレン自身の欠落への認識を以て萌芽する。
 深い絶望に根を張った力は急速に花を咲かせ、膿んだ彼女の体に根付いて枯れ果てた。みずみずしさを失い、俯く晩夏の向日葵の形をした護霊は、主を慰めるかの如く萎れた葉を伸ばしているように見えた。
 懸命に自分の横に在ろうとするそのさまを、少女は暫し茫然と見上げた。
 恐るべき事態だろうか――と、朦朧とした頭で思った。酸素を十全に取り込むことすら儘ならない弱い肺は、零れた涙で乱れた呼吸を未だ受け入れられていない。切れた息を整えて、意識を奪う寸前まで暴れ回っていた心臓を落ち着ける。
 それから。
 明瞭になった視界と思考に再び慌てるような一輪の向日葵を見とめて、セレンは瞬いた。
 怖くはない。それどころか、心の裡に何とはなしに伝わって来る思いは不思議なほどに暖かく思えた。
 それは両親に見捨てられた悲哀に差した光明だった。誰もいない部屋の中で成すすべなく朽ちていくだけの病弱な少女に与えられた生存の道だった。しかしそのとき、セレンはただ一心に希望を抱いて、自らと同じように枯れた金色の花弁に手を伸ばした。
「私と、一緒にいてくれるんですか?」
 ――独りではない。
 喪われた大いなる愛の|洞《うろ》に根付いた護霊は、ごく素直に少女の手の内に収まった。物言わぬ枯れた向日葵を両手で受け止めて泣き腫らした双眸が瞬く。
 聡明ながら未だ幼い娘の感性は、自らの空虚を埋めてくれるそれを友と認めた。小さく細い指先に触れる花弁を撫でるに似た強さで梳く。ままごとのようにも映る仕草に意味があることは、セレンだけが知っている。
 嬉しげな感覚が心の底を擽る。これが目の前の枯れた向日葵の心だということを、彼女は誰に言われるまでもなく理解した。同じように己の心も伝わっているのだろう。痛切な悲哀は未だ心に蟠るが、それでも目の前に自らと通じる友人があれば、眼差しには先よりも幾分穏やかな色が宿る。
「私はセレンです。セレン・アンジェロス。あなたは?」
 さやかに揺れる向日葵が音なく告げる。
 ノーソス・ヘリアンサス。
「ヘリアンサス――」
 新たに得た大切な友人を指先に包む。途端に身に漲った活力が、苦しかった呼吸を和らげた。心臓が今までで一番に強く拍動し、足りなかった血液が全身に循環するのを感じ取る。気付けばセレンの体は常に肉薄していた死の淵を離れ、此岸を生きる活力を取り戻していた。
 |普通の少女《・・・・・》と比べれば未だひどく脆い肉体には、しかし彼女が感じたことのないほどの生命力が宿った。思わず手にした向日葵をまじまじと見詰めて問い掛ける。
「ヘリアンサスのお陰なんですか?」
 そうだ――とも、違う――とも返っては来なかった。代わりに晩夏の日差しのような体温が身に巡る。それで、セレンは己の感覚が間違っていないことを確信した。
 それまでも立つことが出来ないわけではなかったが、ほんの少しの距離でも息を切らす体で生活をすることは難しい。自然と移動時は車椅子を使うことが多かった娘の足は、しかしベッドを降りてみれば至極当たり前のように自重を支えた。絶えず纏わりついていた倦怠感も頭重も身を横たえねばならぬほどには強くない。
 これなら歩けると思った。両親を追うことは出来ないし、するつもりもない。これ以上セレンに縛り付けてはいけない。彼らにとって、自分はもう不要なものなのだ――幼く柔らかな心は、抱いた痛烈な自責を自己否定に替えて自らを罰する。
 それでも外に出ることは出来る。こんな身でどこに行けば良いのかも分からない。世間の何たるかも知らぬ少女は、しかしこのままではまた誰かに迷惑を掛けてしまうことだけはよく理解していた。
 だが。
 彼女を慰めるように暖かな気持ちを向けてくれる新しい友人が、彼女にここではないどこかへ行くことを願っている。
「ありがとうございます」
 万感の意を籠めた声と共に、ヘリアンサスと名乗った向日葵を優しく両手で包む。祈るように胸に当てたそれ越しに、自らの確かな拍動を感じた。

 ◆

 ベッドの上から降りた少女を初めに発見したのは警察官だった。
 セレンが立ち上がったのと殆ど同時に電話が鳴った。ヘリアンサスを手から離し、父母がそうしていたのを真似るような大人びた口調で電話口に立った彼女の声に、電話の向こうの女性がひどく驚いた声を上げたのを覚えている。
 女性は日頃から通っている小児科の看護師だと名乗った。今まで一度も連絡なく時間に遅れたことのなかったアンジェロス家の、虚弱な娘に何かあったのではないか――最悪の状況を想定してすぐに連絡をくれたという彼女は、当の娘が比較的元気そうに電話に出たことに胸を撫でおろして、穏やかな声で父母の所在を聞いた。
 思わず俯いて口を鎖したセレンの髪へ、垂れ下がった向日葵の花弁が撫でるように触れる。
 見上げれば物言わぬ友人が寄り添っている。まるで彼女を見詰めるように、護霊は静かに浮かんでいた。そのさまに勇気をもらって声を紡ぐ。
「――いません」
 電話口の女性はひどく狼狽したような声で聞き返した。
「いなくなってしまいました」
 そこからのことはよく分かっていない。そこにいるようにと告げられて慌てて電話を切られた。ヘリアンサスに意見を求めれば、向日葵からはここにいるべきだ――というような大意が伝わって来る。今まで自分の身を案じてくれていた病院の人々と友人が言うのならば、セレンがそれに従わぬ理由はない。
 大人しく電話の近くで暫く待った。喉が渇いて冷蔵庫を開ける頃、近付いて来たサイレンの音が家の前で止まる。ほどなくしてチャイムが鳴ったのに応じた。
「こんにちは。中に入っても良いですか?」
 目の前に立っていた警察官たちは、努めて穏やかな声で年端も行かぬ少女と目を合わせ、|緩慢《ゆっくり》とした口調で問うた。
 セレンに断る余地はない。ヘリアンサスを大事に手に包み、彼女は女性警官と共に暫し玄関先に待機することとなった。少女を落ち着かせるように肩にそっと触れた女性は、一度驚いたような顔をしてから、首を横に振って声を紡いだ。
「お母さんとお父さん、いなくなっちゃったの?」
「はい」
「びっくりしたよね。探した?」
「いいえ――いつも朝の挨拶をしてくれるのに、来ませんでしたから」
 だからもういないのだ。
 二人が家にいる間、挨拶を欠かしたことはなかった。目を醒まさずにいる時間も長く、何より体にかかる負荷がいかなる病を呼ぶかも分からない。あらゆる免疫が弱い体ゆえにベッドの上から動けないセレンにとって、時間の感覚を取り戻させてくれる儀式のようなものだった。
「大丈夫だよ、きっとすぐに見付かるからね」
 俯く少女に同情的な表情を見せて、女性は慰めの言葉を口にした。
 そうでない方が良い――とは言えない。口を鎖して曖昧に頷くのが精一杯だった。きっと二人はもうセレンのところには戻って来ない。見付かったとしても、再び彼女を置いて行くか、どこかに与ってもらうように取り計らうだろう。
 時折体調を心配してくれる女性の横でとうとう座り込んだ頃に、ようやく家内を隅々まで探索し終えたらしい二人組の警官が戻って来た。若い男性が困り果てたように息を吐く。
「いませんね。保護ですか」
「そうだなあ――」
 年嵩の男性はちらりとセレンを見遣り、それから手に収まっている枯れた向日葵を見る。僅かに目を眇めた彼は、僅かに考えるようなそぶりを見せて、何事もなかったかのように少女に手を差し伸べた。
「大丈夫? お嬢ちゃん、歩けそう?」
「はい」
 連れられて乗り込んだ車内でも、セレンはずっと気遣いと励ましの言葉を受け取っていた。
 どうやら彼らは両親に蒸発された年端も行かぬ娘に随分と同情しているらしい。ヘリアンサスから向けられるものと同じような、しかし他人行儀な思いと慎重に選ばれる言葉を受け取りながら、セレンはどこか気の抜けたような心地で揺られていた。
 どこをどう走ったのかも、どこに連れて来られたのかも分からぬまま、少女は大きな建物の中に案内された。二人の若い男女の警官は、セレンと年嵩の警官を置いて走り去る。
 ついて来るように促されるまま、少女の覚束ない足取りは警官を追った。疲労感は幾らかあるが、以前に比べればよほどましだ。それも全てヘリアンサスが齎してくれるものだと確信しているから、彼女の指先は時折優しく向日葵を撫でた。
 辿り着いた場所からは、病院と同じようなにおいがした。
 セレンにとっては慣れ親しんだ空気だ。消毒液の香りに満ちた白い壁は彼女にとって忌むべきものではない。元より常に病に身を冒され、その苦しみのただなかで呻くことしか出来ずにいた彼女にとって、病棟は自らの苦痛を取り去ってくれる唯一の希望に他ならなかったのだ。
 だが長椅子に腰かけるのは初めてだった。大抵は急患として搬送されてベッドに横たわるか、車椅子に乗っているかだったからだ。硬い布張りの感覚の上に身の置き所を探して、結果的に僅かに落ち着かないような動きをするセレンを一瞥して、それまでさして口を開かなかった男が声を零した。
「お嬢ちゃん、それ、ただの飾りじゃないだろう」
 それ。
 指されたのがヘリアンサスであることに気付くのに遅れた。思わず手の中にある護霊を見れば、今はただの向日葵の飾りにしか見えぬ護霊からは警戒と疑問の意が流れて来る。思わず隠すように胸に当てれば、苦笑した男が首を横に振った。
「ああ、大丈夫。取ったりはしない。というか普通の奴には見えてもないから安心しな。俺にはそういうのが多少分かる――まあ、何だ、そういう力があるんだよ」
 セレンの目にはしかと映る向日葵が見えていないのか。瞬く娘の金色の双眸に男は頷いて見せる。
 超常に蝕まれつつある世では時折見られる才覚だ。たまさか保護した少女に特異な存在が憑いているように見えたから、事前に連絡を入れてここに連れて来たということである。
 |こういうの《・・・・・》も、たまにあるんだよ――と彼は小さく笑った。
 この後のことは彼の裁量ではないらしい。このまま帰る前に理由を伝えた方が良いだろうと考えて声を掛けたという彼は、腰を浮かせながら尚も気遣わしげに続ける。
「ちょっと調べたいことがあってな。ここにいれば専門の奴が来てくれる。言うことを聞いてればすぐに解放してくれるさ」
「ヘリアンサスを――ですか?」
 手の中の護霊は害をなすものではないと、セレンは信じ切っている。心の奥底に根のようなものが張って、そこから繋がっているように思えるのだ。|悪いところ《・・・・・》ばかりの自分の体とは違って、調べなければならないようなことは何もないと感ぜられる。
 しかし少女の問い掛けに男は曖昧な首肯を返した。
「その――ヘリアンサス? そいつもそうだが、お嬢ちゃんのことも調べると思うぞ。まあ健康診断みたいなもんだ」
 それで納得した。
 自分が調べられるのは当然のことだ。生まれてからずっとそうして生き永らえて来た。今回もまた同じように検査をされるというなら、セレンに拒む理由はない。
「注射とか平気か?」
 ――そんな問い掛けを受けたことがなくて面食らう。
 しかしすぐに首を横に振った。飽きるほどに打ち込まれて来た痛みだ。彼女にとっては半生の友とさえいえる。
「大丈夫です。慣れていますから」
 迷いない声に男が踵を返す。ほどなくして、現れた白衣の人々に連れられて、セレンは席を立つ。
 やはり息は切れなかった。

 ◆

 病んだ気配は敵対者を呑み込み、病熱の如き呪毒で怪異を冒した。
 まるで花が芽吹くように身を覆うそれを前に立っていられたものはない。生きていようと死んでいようと、或いは元より命を持たずとも――ヘリアンサスの齎す死病の腕を逃れられるものはなかった。
「お疲れ様でした、ヘリアンサス」
 己の髪飾りに労わるように触れたセレンの心に、同じような労いの想いが声なく返った。薄い表情の舌で張り詰めていた体に安堵が巡る。友人と共にあるからこそ、彼女は見るも悍ましく正気を削る怪異を前にしても果敢に立ち向かっていられるのだ。
 ――二人の|健康診断《・・・・》は、男の言った通りすぐに終わった。
 その後は同じ施設内の一室をあてがわれ、幾らかの面接じみたことを繰り返した。難しい顔をした人々に囲まれた彼女は、こういうときには然るべき場所に送られるのではないか――とぼんやりと思うまま、唯々諾々と大人たちの言うことに従っていた。
 この機関こそが|然るべき場所《・・・・・・》であったことを知ったのは、セレンが新しい部屋に慣れて来た頃のことである。
 神妙な面持ちで呼び出された彼女は、そこで己の身にあるものの全容を知らされた。
 セレンの中に眠っていた莫大な霊能の才覚が、彼女の身の裡から具象化したこと。そうして生まれたノーソス・ヘリアンサスが彼女と命を分かち合ったことで、死の淵に瀕していた体が幾らかの改善を見せ、少なくとも日常生活においては通常の人間と遜色ない動きが可能となったこと。それら一連の流れとセレン及びヘリアンサスの意志、一人と一つの宿した異能が彼らの決めた一定の基準を満たしたこと。そして。
 誰かの役に立てる居場所が用意されていること――。
 萎れた向日葵の形をした護霊は、根を張り芽吹いた主の体を映すような力を扱うことが出来た。接触した相手のみならず付近にいる存在までも病魔に似た呪いで蝕む。まるで幾度もセレンを生死の狭間に追いやって来た熱病のような、耐え難い苦痛を与えるのだ。
 幸いにして身体も小康状態を保っている。様子を見ている間にも数値の悪化や急変の懸念はみられず、何よりヘリアンサス自身が検査中に幾度かセレンを庇うに似た反応を見せたことも相まって、機関は彼女に一つの案を提示した。
 彼女に機関の構成員としての地位と立場を与える。望めば両親を探す手筈も整える。働きには正当な報酬を与え、衣食住の保障は勿論、必要な治療や特殊な検査を含めた一切の治療行為とそれにかかる費用を肩代わりする。
 代わりに――。
 セレンは要請に応じて戦場に立つ。どうやら√能力というらしいものに目覚めた彼女は、|警視庁異能捜査官《カミガリ》と呼ばれる存在と同等か、或いはそれ以上の力を発揮出来るらしい。さりとて年端も行かぬ少女の処遇については協議が重ねられ、結局は護霊の力を以てしても完全に取り除くことの叶わぬ虚弱な体質を理由に、より柔軟かつ緊急的な対応が可能な汎神解剖機関の所属とする――という結論が下されたようである。
 条件を呑むならば念書に同意するよう言われたセレンに、頷く以外の道はなかった。
 両親に見捨てられた彼女には、手の中にある枯れた向日葵の形をした友人と、訳も分からぬまま連れて来られたこの場所以外のよすがはない。病弱な身――殊に病に弱い娘にとって、他人は無数の死病を媒介する存在に他ならない。他者と接することも出来ず病床に臥せった彼女には、医師と看護師と両親の他に声を交わす相手すらいなかったのだ。
 断ったとて、頷いたとて、同じだ。
 見知らぬ場所を示す見知らぬ誰かに連れられ、知らない部屋で知らない誰かと生活をする。唯一違うことがあるとすれば、ここで首を横に振ったら、彼女には誰かの役に立つ機会すら与えられないということだけだ。
 ――ヘリアンサスに体をください、というのが、機関員に向けてセレンが提示した唯一の追加条件だった。
 至極簡単に呑まれた条件を違うことなく、ヘリアンサスには誰もが見える形での依代が与えられた。今はセレンの髪飾りとなっているそれに触れれば、心の底で繋がった友人の意識がより|明瞭《はっきり》と伝わって来る。
 大抵、仕事を終えた後の護霊はセレンと同じようなことを感じている。安堵、歓び、労い、心配――。
「私は大丈夫です。ヘリアンサスのおかげで、怪我はしていませんよ」
 よく身を案じてくれる友人に返す。実際の戦場でセレンが特別に何かをしていることはあまりない。枯れた向日葵は友を害するものを許さず、それ自身の意志で病弱な少女を守っている。それでも懸命に心身を蝕むものがないか問うてくれる感覚に目を伏せて、再び心に同じ返答を浮かべた。
 戦場の緊張感を好んでいるわけではない。人間に敵対する者たちを前にしているとき、聡明であっても幼く柔らかな心には張り詰めた恐怖心が満ちている。幾度も肉薄して来た病魔の齎す死とも違う、冴えたナイフを首許に突き付けられているような感覚には、未だに慣れない。
 それでも。
 ここにいれば――人を襲う怪異たちを止めていれば、セレンは誰かの役に立てる。
 一生分の迷惑を使い果たした。確かにあったはずの暖かな愛情すらも奪い去るほど負担を押し付けて生き延びた。だからもう、誰にも迷惑を掛けてはいけない。
 否。
 それだけでは足りない。セレンの存在が父母に齎した苦しみの一端にさえ及ばぬとしても、彼女は役に立たなくてはいけない。直接的に彼らの助けになることが二度と出来ないのだとしても、誰か――顔も名も判然としない|誰か《・・》のためであっても、この身を役立てなくてはいけない。
 そうしなくては。
 また――大切な人に捨てられてしまう。
 斃した怪異の身を回収するのはセレンの役割ではない。速やかな連絡を受けて集まって来た同僚の厳かな足取りを横目に、少女は一度目を伏せてから、再び髪飾りに囁いた。
「帰りましょうか」
 次の仕事が与えられるまで、彼女には幾らかの時間がある。可処分時間が増えて以来、趣味らしきものは少しずつ見付かってはいるものの、決して癒えたとはいえない体は簡単に疲労を訴えた。
 まずは眠ろう。体に纏わりつく倦怠感が消えたら何をするか考えれば良い。迎えの車に|緩慢《ゆっくり》とした足取りで近付きながら、セレンの金色の双眸があえかな祈りに揺れる。
 ――あの日、電気がつかなかった瞬間の悪夢を見ませんように。
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