届かぬが、ゆえに
人形が彼と初めて出会ったのは、彼が12歳の時のことだった。
|静寂《しじま》家。
ゴーストトーカーでありながら殺しを生業とするという、矛盾した――あるいは冷たいほどに合理的な――名家。
その長い歴史の中でも、まだ干支を一回り下ばかりの少年に人形を授けるのは異例のこと。
しかも『乙女椿』ではない。花びらの色は黒ではなく白。神童と謳われたのもむべなるかな……静寂家は、彼に多大な期待を寄せていた。
過大、とも言える。
「傀儡人形はあくまで人形、身代わりのための形代だ。俺も何体もブッ壊してきたよ」
人形は見つめる。無垢で無機質な瞳には、唇をわななかせ、まだあどけない紅顔を悲しみに翳らせる少年の心の痛みが、ありありと映った。
それだけではない。彼を――恭兵を導く男の、くろぐろとした絶望すらも。
「俺も君も、家にとっては替えが利く歯車に過ぎない」
男の呟きは切なる願いのようだ。言い聞かせているのは少年なのか、あるいは自分自身なのか?
どちらでもあるのかもしれない。
あらゆる色が重なったような暗い昏い色は、紛れもなく己と同じ人形が枷となって生んだもの。
ならば、己こそは決してそうならないようにと、人形はかりそめの心に堅く誓った。
冬路の言葉を借りるなら、その誓いも所詮は「そう見えるだけ」なのだろうか。
期待と比例して過酷になる日々の鍛錬……いや、むしろ彼を苦しめたのは、冬路の執拗な「教育」のせいか。
稀ではあったが、幼い少年が受け止めるにはあまりにも重く苦しい。時に彼は嘆き、崩折れた。
「――恭兵様。お辛いでしょうけれども、お顔をあげてくださいませ」
そんな時、人形は誰にも知られないようこっそりと彼を慰めた。
「冬路様は恭兵様の未来を慮って、あえて憎まれ役を買って出ていらっしゃるのです」
嘘だ。
冬路は明らかに私怨を籠めている。
妬み? そんな一言で言い表せる感情ではないように思えた。
彼がどれほど『少女椿』を愛し、絶望し、擦り切れてきたのか。人形にはよく分かる――何故なら同じ身代わり人形なのだから。
人間で言うところの家族、姉妹、ともすればもう一人の自分ともいえよう。
直接契約を結んだ当事者でなくとも、伝わるものがある。だが、それを明かすのは許されていない。
人形に許されているのは、ただ一つ。
「どうか、お強くなられてください。恭兵様は、皆様のご期待に応える力があると――わたしは、信じております」
充血した目を擦りながら微笑むこの少年の代わりに、死ぬことだけ。
●
4年の月日が経った。
あの日見下ろしていた少年の頭は、すっかり人形の目線を乗り越えた。
今ではもう、頭を撫でようにもつま先立ちにならないといけない。もっとも昔からずっと、畏れ多くてしつこくねだられなければする気にもならなかったが。
「恭兵様……」
人形はひとりきりの暗い部屋の中、唯一の窓を見つめ|恭兵《あるじ》を案じる。
誰もが期待した通りに……それ以上の才覚を見せた恭兵は、当然のように|任務《なりわい》に加わるようになった。
死霊、あるいは生者。まずもって静寂家を狙う敵は、多い。仕事として祓い、あるいは殺す標的はさらに多岐に渡る。
超常の戦いは、ただの人形では想像さえ出来ぬ修羅の領域。ゆえにこそ人形は作られ、存在している。
貴き静寂の血を絶やすことのないように。
かけがえのない才能を喪うことのないように。
人形は、|死《やくめ》を恐ろしいと思ったことは一度もない。
そもそも恐怖という情動を識らない。死ぬために生まれたヒトガタが、存在理由を果たすことを恐れるなど本末転倒の極み。
ただ、予感はあった。遠くない内に、その時が来るのだろう、と。
それほどまでに、静寂の戦いは凄烈なのだ。
並ぶものなきとまで謳われた恭兵でさえ、致死の傷を負うのは時間の問題――驕りや見誤りではなく、客観的事実としてそう考えていた。
けれども、現実は予測を凌駕した。
血みどろの戦場に赴いても、恭兵は死ぬことなく帰ってきた。人形が彼を出迎えたことがその証左。
「……どうか、ご無事で……」
死ぬことが責務の人形が、死を肩代わりすべき相手の息災を祈る。
ありえないことが、ありえない関係を、萌芽を呼ぶ。彼を思い目を閉じるたびに瞼の裏に浮かぶのは、傷ついた身体で見せる安堵の微笑。
生きて戻れたことを喜んでいるのだと、人形は思っていた。
17、18、19――年数を経るたび、漠然とした憶測は確信に取って代わる。
はっきりと理解した時には、既に人形の心にも淡い想いが生まれていた。
皮肉なものだ。それが人形を苦しめることになろうとは。
(「恭兵様は、わたしを愛しておられる」)
傲慢ではない淡々とした事実。同じ想いは己のがらんどうの胸にも宿る。
相思相愛は喜ばしいことだ。
だからこそ、人形にあるはずのない痛みを与えた。
(「恭兵様は、わたしが|壊れ《死な》ないために生きようとしていらっしゃる」)
人形に悟れることが、人の――それも血縁にわからいでか。
『天才は人形に狂った』
口さのない噂話は悪評となり、人形にさえ理解できた時には全てが遅かった。
度重なる縁談の拒絶。
人形を人と同然に扱い、仲睦まじく語らう姿。
繰り返されるあり得ぬ現実と、見惚れてしまうほど変わらぬ微笑。
人形は変わらない。作られたかりそめの命は、老いることも病むこともない。
彼は違う。背丈は伸び、とうの立った顔立ちは色気を醸し、踏み越えてきた修羅場の数が風格を与える。
それでも二つだけ変わらないものがある。
人形に向けるひたむきな愛。
そして生き延びるたび、最愛の相手が無事であることを喜び安堵する――あの、微笑み。
初めて目通りしたときと同じ、あどけなく屈託のない笑みは、今や人形の空虚な胸を悔しいほどの仄暖かさで満たしている。
「……せめてこの孤独が、わたしに対する罰であればよかったのに」
幽閉された牢獄のような部屋の中で、人形はぽつりと零した。
そうであれば、少なくとも恭兵が悪しざまに罵られ、疎まれることはない。
彼の名誉は回復し、たかが人形に過ぎない自分よりもずっと相応しい光を享受出来たはずだ。
だが、違った。
√能力者という|不死《しなず》の存在に成り、己の不壊を成し遂げたことで、恭兵は静寂の怒りを買った。
そのための戦い。
そのための研鑽。
「……どうして」
人形は顔を覆った。嗚咽しようとも、涙が流れない。
「何故、わたしなんかのためにそこまで――わたしを『愛して』くださったのですか……!」
嘆きに似た問いかけは、決して届かない。それは辛く、苦しく……。
ほんの少しだけ、有り難かった。
よぎるのは、あの瞬間の恭兵の表情。
子を、なせないのだと。
己は相応しくないのだと。
願いを砕くため身勝手に伝えた瞬間の、驚きと戸惑いと悲嘆に暮れた瞳。
「…………悔しい」
人形は嘆いた。
「わたしは、愛するお方の子を身籠ることさえ、出来ない――あの方に、何もお返し出来ない……!」
|糸繰・白椿《おんな》の嘆きは、ただ独りの小さな部屋に反響し、誰にも届かず消えていく。
それだけは心の底から有り難かった。
恭兵が知れば、またあの時のように瞼を伏せ――そしてきっとそれ以上に、想われている事実を心から喜んで、あどけない微笑を見せただろうから。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功