カキダミシ ―夜光―
――カキダミシとは。
古く琉球において、|唐手《空手》の使い手たちが辻――遊廓を含む歓楽街――にて人知れず行っていた。 腕試しのための|掛け試し《野試合》のことである。
壱藤・四扇はその日も問題無く仕事を終えた。
頚椎骨折。
逆立ちするでもなく天地が逆転しているという稀有な視界を、しかし、楽しむ暇もなく路地へ崩れ落ちた男の様子をしばしの間眺める。
全身の痙攣。皮膚の下で血管が破損し、溢れた行き場のない鮮血が、彼の頭部を熟したあんずのように赤く染め上げ、破裂せんばかりの風船と変える。
そう、彼の仕事は殺しであった。
「さて」
腕時計を見る。
路上で踊る人形の電池がどうやらようやく切れた、と四扇が確認した直後。
彼の姿を車のライトが照らし出す。
続いてブレーキ音を派手に響かせ、一台の清掃車が路地の出口を塞ぐように急停車。
間髪入れず、耳を塞ぎたくなるような大声が、暗澹静寂たる路地裏に響き渡る。
「ちょいちょいちょい!!あんた随分、舐めたマネしてくれましたねえ…」
運転席から飛び出した人物が、ガン、とブーツを鳴らして清掃車の天井に躍り上がるやいなや、夜空に跳躍。
長い長い、いっそそういう種族なのかと思うほどの手足を、しかし鮮やかな鋭さでもって操って繰り出したのは見事な飛び蹴り。
余りと云えば余りの強襲、いっそ何かのコメディアクション映画でも始まったのかと思いながら、四扇は前方飛び回転受身、立ち上がる。
そうして頭上を飛び越え着地した人物と、位置を逆にして対峙する。
「初対面の人間に、いきなり飛び蹴りをかまして来る貴方はどちら様ですか?」
そうだ映画だ、と忘れていたタスクを一つ思い出しつつ、ポケットから取り出したハンカチで、スーツの汚れを払いながら四扇が問えば、怒り心頭、元より赤い瞳をさらに血走らせた女――鷹野・夕貴は中指をおったてる。
「あんたが今、ヤってくれたそいつはねぇ、自分がずっと前から目ぇつけてた賞金首なんっすよぉ……正直、激しくムカついたんで、あんた、殺っちゃいます。ヨロシク!!」
一体なにが宜しくなのか。
まるで宜しくない内容を叫びながら、夕貴が滑るような運足で間を詰める。
因みに意外と情に厚い気遣い人間の彼女が、依頼人から聞かされたこの賞金首の所業に憤り、義憤に駆られた結果、なんとしても自分の手で、と、決意してこの仕事に臨んでいたことは誰も知る由もない。
遠間から飛び込んでの順突き、そして逆突きの連打。
――空手ですか。
まるで|長距離射撃《スナイプ》。
「……いえ、スナイプというには雑ですかね」
すう、と左半身。
胸前に立てた腕を以て、パーリング。
体半分、左に動きながら右拳の正拳を叩き落とし。
続く左逆突きはバックステップして避ける。
鋭い。なかなかの手練れ。
「……彼は|私《わたくし》の依頼対象だったのですが……聞く耳を持ってなさそうですね。仕方がありません」
ほんの少し長く吐息を吐きながら、四扇は追撃へと集中。
暗い空の中央に君臨する白き王は、しかし今日はご機嫌斜め。
岩戸に篭った姉神宜しく、重々しい雲の向こうからちらりと顔を覗かせるのみ。
そんな闇の中、生白くも野太い大蛇が、体をうねらせ噛みついてくる。
四扇は見に徹し、ただ、それを捌く。
一発、二発、三発。四発。
長くしなやかな四肢が唸る。
右ロー、左|鉤突き《フック》、右ボディ二連打。
対して四扇、|ヤーンジョラケー《ワニ歩き》。
片膝を体横へ上げ、そちらへ上体を折ればバランスオフ。
己を崩す。体は倒れゆく。
人間の反応限界速度0.2秒を越える重力操作。
そうして速く重いローに負けぬ速度と重さを以て受け、反動で上体を振ればフックをダッキング、懐から逃れる。
警戒して、かつ自由に動ける人間を害するというのは、実は素人を相手にしてもなかなか難しいものだ。
まして四扇のような手練れが相手となればその難易度は云うまでもない。
続くボディへの連打を捌いて流して、上腕へ肘をかける。
滑るような運足で戻るそれについて行き、手首を掴んで曲げさせない。
小さく鋭く、吐息を使いながら膝を抜き、脇固め。
一息に体重を掛ければ肘関節は脱臼――しない。
「おうらぁ!!」
捕られたなら曲げるのではない、逆だ。
夕貴の脳裏で誰かの言葉が閃光のように蘇る。
猛禽の爪の如くに指を開き、腕を伸ばし固めて思い切り腱を張る。
古流の空手に伝わる関節技殺しの身体操作、しかし無論、ただ閃きに従っただけの夕貴にそんな知識は無い。
腕は捕られたまま、夕貴はすかさず四扇の髪を左手に捉え。
真捨身の空中前転。
固められた肘関節などお構いなしに、自分ごと四扇の体を固い路上へと投げ捨てる。
しかし四扇、素早く捕えた腕を解けば、習ったような回転受身「いててて」と立ち上がった夕貴へ涼しい顔で向き直る。
「あの清掃車……怪異の匂いが致しますね。最近のフリークスバスターは、人間相手にも仕事をするのですか?」
「るっさいオッサンっすねぇー…。こっちの懐事情判ってから云って下さいよ」
胸を張る高い構え、そしてやや外側へ開いた足。
ムエタイか……。
膝でリズムを取りながら、夕貴は観察。
無造作に、右ロー。
……これが届きますか。
その到達距離、論外にして人外。
しかし四扇、再びのヤーンジョラケー。
外向きに膝をあげ、教科書のような捌き。
そこへ夕貴、すかさず左|鈎突き《フック》。
もっとも命中率の高いと云われる対角線のコンビネーション。
疾い、そして切れる。
これで――…どうすか!
息もつかせず繰り出すのは右。
アッパー気味のスマッシュ。
四扇、左フックをスウェーして、スマッシュの右拳を左掌でパーリング。
右の|ティー・ソーク・トロン《水平振り猿臂》を繰り出す。
いや、繰り出せない。
パーリングしたスマッシュの勢いが止まらない。
見た目こそ、フルコン系空手の格闘技に近いそれ。
しかしその打撃は先程までの当ててすぐ引く、衝撃を重視した格闘技の打ち方ではなかった。
拳を引かず、撃ち抜き、相手を動かすための鉤突きは、リーチ、体重に劣る四扇の体を大きく動かす。
いやしかし動かされたからなんだと云うのか、という意見もあろう。
そも、武道、武術では拳――攻撃部位をまず引かない。
当てて即引き、防御姿勢に戻って相手の攻撃に備えるというのが、現代格闘技におけるセオリーだが、格闘技ではない武術ではそこからして違う。
なぜか?
それは、格闘技ではない武術が想定している戦場は、平らで、滑らず、なんの障害物もない試合場ではないからだ。
四扇の体が、ほんの少し浮かび上がる。
時間にしてほんのコンマ数秒。
しかし、その時間は彼の体を清掃車のボディへと叩きつけるには十分だった。
自身の重さを武器にするのが武術。
そしてこの世でもっとも重く、頼りになる武器。
それは地面や固い壁などの障害物――…それを古人たちは知っていたのだ。
不意に訪れる背面の衝撃は、必殺の一撃を決める隙となる――!
「貰ったっすよ!!」
夕貴が叫んだ。
右前蹴りが腹に突き刺さる。
膝のバネを使う、そのまま振り上げる。
踵落とし、その高さ、必殺。
落雷の如く襲い来るそれを、四扇は未だ宙に在って見る。
ただ、身体が動くに従った。
背に在る車体を、蹴る。
腕を伸ばし、夕貴の頭を捕える。
死神の鎌の如き踵落としが到達するコンマ数秒前。
彼もまた、地形をすら利用する。
|カウ・ロイ《飛び膝蹴り》。
夕貴の左こめかみを打ち抜く衝撃。
古く、日本の古流で云うところの急所、霞――。
頭蓋骨の中でも薄い側頭部を撃ち抜かれ、その衝撃は眼球を揺らし、脳へと突き刺さる。
まさに霞が掛かったように白く染まりゆく視界の中。
「ク・ソが――…!」
しかし夕貴、動く。
繰り出すは左掌底かち上げ、狙いは金的。
もはや考える余地はない。
ただ反射的に繰り出されたそれを。
首相撲。
それは云うなれば、相手の首にぶら下がること。
全体重を使っての崩し。
歪む体軸。
四扇、繰り出した膝を肩に掛けて。
肩車の要領で背面へ回れば、繰り出された左腕を捕えて変形の三角締めへ。
……数分後。
締めをほどいて四扇が立ち上がる。
対象が完全に落ちていることをを確認。
四扇が歩き出――。
「もう終わりっすかぁ?随分とソーローじゃあないっすか」
云った時には、彼女の両手は四扇の両足首を捉えていた。
「つーかまーえーたー♪」
思い切り足を引き摺り込む。男が倒れる。
「スーツが汚れるじゃありませんか。というかあなた、完全に落ちてましたよね?」
「落ちる前に元気になるお薬使っといたんですよ。まあ、効くかどうかは賭けでしたけど……ね!」
女が立ち上がる。男の体を釣り上げる。
巨人の如き体格と筋肉量があればこそ。
「く・た・ば・れぇ――!!」
一気。
女は男の体を図多袋のように振り回し、背面へと振り被り。
そして男の体は地面に熱烈なキスを。
とは、ならなかった。
よた。
よた、よた。
ぺたり。
へたり込んだ彼女の眼前。
四扇がナイフを手に立ち上がる。
「今日のところは引き分けにしておきましょう。三鷹の見たい映画のTV放送がありますのでね、失礼」
決着はいつも刹那だ。
振り被った夕貴の背面に回ったその瞬間に、四扇は彼女の両足首の腱を断ち切っていた。
四扇が消えて、暫し。
虚空へ罵声を浴びせるのに飽きた夕貴が、動く。
懐から煙草を取り出し一服すれば、ため息と共に紫煙を吐き出す。
「誰だよ三鷹って。……ったく。薬使った時点で、引き分けもクソも無いんすよ」
罵りながら。
しかしなんとなくすっきりして見上げた空には、ぼんやりと星の光が浮かんでいる。
なぜか懐かしい気がして。
暫くの間、夕貴はその光をじっと、眺めていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功