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アイリスアウトで終わるまで

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 死に向かうときの気怠さを、苦痛とも思わなくなって随分経つ。ぬるい夜雨に撫でられて広がり続ける血だまりを眺めながら、斯波・紫遠(くゆる・h03007)はただ続くだけの呼吸を飼い殺す。路地の傍らの建物に背を預け、腹の傷口をぼんやりと眺め下ろした。大鎌を振るう死神然とした怪異たち――星詠みからの退治依頼を受けた人間は紫遠以外にも大勢いたはずだ。やっと二十の半ばを数えた若造ひとり消えたところでさして影響はないだろう。
 懐から引っ張り出して咥えた煙草は当然湿気っている。掌で傘を作りながらライターの火を翳してみたが、燻された蒸気が雨の匂いと共に口腔へ広がるに留まった。
『点くはずがありません』
「挑戦ぐらいさせてよ。最期の一服ってやつ、絵になるかもよ」
 胸元の端末から響くアシスタントAI『アリス』の合成音声に冗句で返しながら、点く気配のない煙草の先を軽く噛むことだけで意識を保っている。狗神に半身を委ねれば獣の肌がたちまちに傷を覆いもしてくれるのだろう。だからこそ、紫遠が紫遠のままでいるために、目を閉じて楽になろうとすることも出来なかった。制御を奪われた体がどんな振る舞いをするか、考えたくもない。
 空を見上げた。ぱたぱたと叩く雨粒の感覚を頬で受けた。このままぱっとあぶくになって消えてしまえたらぜんぶが楽になるのにな、と、思う。死した√能力者の魂は、インビジブルとなって世界を漂うのだと言う。いずれ紫遠として再び形作られるさだめにある不可視の存在が、元のかたちを忘れて泳いで行ってくれるなら。
 譬えるなら、飛ぶゆめを期待する子どもの心地。動ける程度の回復を待つためだけの時間潰しにしては気分の良い想像だ。やっと感覚を取り戻して来た指先でタブレットを取り出してカメラに紫遠が映るように掲げれば、『アリス』が画面を明滅させる。
『休息は完了しましたか? それでは移動を開始しましょう』
「うん。ねえ、アリスさん、僕の怪我のことをうまく誤魔化す方法を一緒に考えてくれないかな」
『誤魔化す、とは』
 チカ、とまた明滅するのは怪訝の意思表示だろう。笑う膝を押さえながらどうにか立ち上がる。『アリス』は事務所の社長から譲り受けたAIデータだ。彼女を失うわけにはいかない。
「この格好で、一般の人に、警察に届けてください――っていきなり掴みかかっても怖がらせるだけでしょう。|煙雨《レイン砲台》を応用して目晦ましをしたりとか」
『仰る意味が分かりません。具体的な指示をお願いします』
「仲間が偶然通りかかってくれるのが理想だけど、次の敵も控えてるだろうしね。戦線を邪魔したくはないな。落とし物の振りの方がいいのかも? 画面表示を紛失対応のロックに装うってどうかな、出来る?」
 壁に肩を擦るように歩き出す。口のなかに広がった粘度の高い唾と血が混ざりあって喋り難い。会話のていだけ成した振りで、実際のところ『アリス』の言葉はひどく遠くで鳴っていた。
 携帯端末の搭載AIとして、『アリス』は破格の性能を誇っていた。付き合いはたかだかここ一年程度だが、戦闘でも事務でも紫遠の意思を先に汲んで動いてくれる辣腕秘書だ。紫遠の遺体を漁りに来た敵に破壊されるのも惜しいし、よくない人間に拾われてバラされる……なんてのは最も避けたい事態だ。
 思考がどこまで音になっていたかは分からない。とにかく、『アリス』を誰かに託すまでだけは動けないと困る。噴き出る血を強引に押さえる掌の内側で、ぐぶ、と嫌な音がした。
『いい加減になさっては?』
 だから、幻聴かもしれないと思った。
 機械音声でしかない『アリス』の声が、怒りを孕んで聞こえるなんて。
『そちらの経路に従ってください。星詠みに連絡を入れました。回復の手のある者を寄越すよう要請しています』
「は?」
 片手にぶらさげた端末の画面が切り替わる。周辺地図が表示され、GPSがルートを示す。鈍重な脳が言葉の意味を理解してやっと、呆然と言葉を繋いだ。
「なに、勝手なことしてるの。アリスさん、今すぐ撤回して」
『コードが異なりますので却下します。『アリス』は私の正式名称ではありませんので』
「何それ」
『他人を死ぬ理由にしないでくださいますか、と言っています。ひとの名前もまともに覚えないくせに』
 もう勘違いではない。『アリス』の合成音声は、ヒトらしきイントネーションに正しく加工する工程をすっ飛ばして次々と音を続けた。これまでに聞いたことのない冷たさで紫遠の指示を否定する女の声に、ふつふつと怒りが湧く。正式名称? 『アリス』だろ。AIのバージョン情報まで答えろってことか?
「撤回しろ! |所有者《オーナー》が言ってんだろ!」
『何故そのように意固地になる必要が? 助かるならば得をしたと、幸運を享受なさる余裕すらありませんか』
「オレが死んだって――」
『死にたいならば私を今すぐ捨てればいい』
 あまりにも淡々と、『アリス』は言う。
『私はあなたを生かすために動く。そのように作られました』
 ぎゅっと唇を噛んだ。大声を出したせいで血が巡ったのか、目の奥がくらくらした。ばかみたいだ。「そう」作られた存在に、癇癪を起こしてなにが変わる。紫遠のための|AI《だれか》として設計された彼女を、説き伏せることなんて出来るはずがないのに。
 血に濡れた手で髪を掻き乱して気を落ち着ける。瞼が妙に熱いのも、視界が滲むのも、鼻の奥が軋むように痛むのも、怒りのせいだ。
「……音声ガイドを。目が霞んで来た」
『大声を出されるからです。自身の体調を顧みると言うことをそろそろ覚えられてはいかがですか。もう子どもではないでしょう』
「うっかり落として踏んだら悪いね」
『ご心配なさらず。当然、バックアップデータは存在します。端末ひとつ、砕けて折れても問題ありません』
 助けに来る仲間の元まで。歩く。どれほど遠いかは分からないが、『アリス』が言うなら紫遠の体力が持つ程度の距離なのだろうと信じるほかない。
 急に、体が重さを増して感じた。生き延びるためのオーダーは初めてだった。五体満足で生き延びて、彼女に名前を聞くまで。死んでやるものか。
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​ 成功

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