悪の息吹
電源を落とす事は出来なかった。
|根源たるは双子《アルケー・ディオスクロイ》。
世界を支えているものは――大樹を支えているものは――果たして、如何様な獣で在ったのか。絡みついた蛇に対して、威嚇している蠍に対して、嗚呼、何者が寛容さを表してくれると謂えよう。幾度となく、行く宛もなく、ブラブラと毒素の道を這うサマは何処か『かわいそう』と『かわいい』の反芻さえも模倣していた。いっそ鏡面でも覗き込むべきだと、いっそ姿見でも贈られるべきだと、英雄面をした有象無象は嗤うので在ろうが、それを、真に叩きつける事など『最早ない』のである。何もかもは幻想だ。何もかもは幻想であるべきで、幻想を覆そうと試みる事など自ら、地獄へと投身するかのような沙汰である。いや、よくよくと、考えていなくとも。それが一種の啼き声なのだとした場合、泡沫とやらを敢えて半殺しにしてやるのも悪くはないのではないか。おお、感動している。感情と同時に生命とやらが、活かされず、死なされずと、蠢いている。同じ器に異物と異物を閉じ込めて蓋をするかのような有り様だ。この、ガタガタとやかましい部品については――たとえ土星で在ろうとも、たとえ水星で在ろうとも、理解する事は出来そうにない。愛おしいものだと、厭うべきものだと、手と手の代わりとして、パンの大神の頭を舐り尽くすと宜しい。
頭を最初に露出したのか、足を最初に露出したのか、その瞬間については特に問題とやらは起きなかった。胎児は踊る必要もなく、胎児は回転する必要もなく、人のカタチだけは維持しつつ、おぎゃあとやってみせたのだ。最初に「おぎゃあ」と泣いてみせたのは男の子。成程、たいへん可愛らしく。まるで雷を彷彿とさせる一呼吸であった。続いて「おぎゃあ」と啼いてみせたのも男の子。成程、こっちも可愛らしく。まるで静電気を彷彿とさせる一呼吸であった。正直なところ、母親も父親も、ふたりをひどく心配していた。何故ならば、お医者さん曰く、いわゆる『鵺』であるとのこと。猿虎蛇ほどの混沌ではないのだが、ああ、血液キメラが『よろしくない』事くらいは説明をされていたのだ。そして、何よりもお母さん。この『ふたり』だけが自らの『子供』ではない事を文字通り、身に染みて覚えている。ああ、獣だ。ひとは獣ではあるのだが、生まれる前から獣とは想定外であったのだ。兄も弟も既に『狩り』を終えているのである。ああ、この、ほんの僅かだけれども、生えつつある歯を見よ。胎の中で『喰らい合い』でもしたのかと疑ってしまうほどの暴食の罪か。いや、事実、双子ではなく四つ子の想定だったのだ。共食いのタブーを知らず知らずのうちに犯して、侵し尽くす。兎にも角にも『かわいい』のだが、それ以上に無気味ではあった。
生命の神秘とやらが、生命の驚異とやらが、ドラマを生み出すと宣うのであれば、それ=局外者のオツムの中でしかない。仮に神とやらが平等であったとしても、仮に佛とやらが物差しであったとしても、大雑把が凄まじくて『ひと』に対しては意味などない。否定から入るようなものだ。拒絶から入るようなものだ。兄は頗る元気であった。溌剌も溌剌で、そこらの子供よりも一段と健全であった。そして何よりも兄は学びの子であり、周囲の人々からも注目されるほどであった。反して、弟は如何か。弟は生まれた時から負荷を科せられており、さて、その負荷とは学びに対するものであったのか、運動に対するものであったのか。嗚呼、世界とはひどく残酷なものであり、弟に与えられた『もの』は両者に対しての足の引っ張りであったのだ。お医者さん曰く――弟は病弱であるらしい。いや、もちろん、病弱であるのだから『その』原因についても明らかにしなければならない。赤いもの、白いもの、小さいものの散開、愈々、遁走とも描写できるだろう病の重石は――再生不良性貧血と呼ばれていた。もしも、嗚呼、もしも。兄弟がまっとうな身体を有していたのであれば『悲劇』など起きなかったであろう。兄弟が腹の探り合いをしていなければ『喜劇』など起きなかったであろう。悲劇と喜劇は表裏一体。視点で何もかもが変わるのだから、脳髄の傾き次第でも狂うものだ。そうして狂いはより最悪を演出し――病的さを加速させるのであった。
壁面が白く思えるのは誰の所為でもなかった。天蓋が瞬いて見えたのも誰かの仕業ではなかった。もちろん、地面が渦を描いているのも、誰かの悪戯ではなかったのである。非日常であるべき日常が、不意に、威力を発揮したのは大胆にも比較的マシだと考えられた『次の瞬間』なのであった。ふらふらと、よろよろと、脳味噌に凭れかかってきた眩暈については慣れていたとも解せよう。だが、嗚呼、最たる問題と謂うものは――悪魔よりも悪魔らしく振る舞ってくれる『もの』であった。足が浮いているのであった。足だけではない。臓腑も、意識も、浮かび上がっていくかのような悪辣さであったのだ。最果てには弟、その身体を転がして……悲鳴すらもなく、誰もが知れない彼方の先端とやらに触れたのか。大騒ぎである。偶然にも通りかかった他の患者により呼び出されたお医者さん。患者の家族と謂う事で最初に駆け付けた兄の姿。母の姿に父の姿。弟は――ひどい運命に轢き逃げされた者は――哀れ哉。生涯、目覚める事のない肉の人形とやらに落とされてしまった。兄の声は届かない。兄の想いだけが一段と強くなっていき、さて、道が照らされたとでも皮肉るべきか。俺は弟の為に動かなければならない。俺は弟の為にも学ばなければならない。俺は、俺自身の為にも弟を起こさなければならない。そうして、世界を支える為に、大樹を支える為に、植物を人とする為に――兄は真面目さに憑かれてしまった。
巡らせている、廻らせていく、何を輪廻とするのかは人によって違うのだが、此処に神秘の類は一つとしてない。存在しているのは隅から隅まで現実的な学びと実践であり、まるで誓いのようであった。人生は短く、医術は長い、云々と、何度も何度も兄は己に言い聞かせたのだが、嗚々、誓約の類よりも上位に『己の意思』『己の意志』を置いてみせたのか。しかし、如何だ。この世界の知識だけでは――最先端の医療だとしても――完全に、弟を起こす事など奇跡に等しいか。ならば、奇跡を起こすまで、奇跡を当たり前に落とすまで、死なせてやらないのが妥協点だ。いいや、妥協など、してたまるものか。俺は、たとえ両親に『狂っている』と思われようとも、これを続けなければならないのだ。寝ている場合でもなければ、話しかけている余裕もない。弟はきっと『目覚め』の瞬間を待っているのだ。待ち望んでいるのであれば、まさしく、俺は愉悦を貪り尽くさなければならない――? こぼれた。筆舌に尽くし難い情念が、形容し難い代物が、口に出さずともこぼれてしまった。俺は……俺は、いったい、心の底では……それこそ、肚の底では何に餓えているのだろうか。渇いているのだろうか。蛙の子は蛙だと、三つ子の魂百までだと、突きつけられたかのような心地の悪さ。兄は――兄としてではなく、ひとつの『生命』として己を把握しなくてはならなくなった。では、俺はどこまで、俺を放逐する事が可能なのか……。
植物の蠢動が――弟の沈黙が――齢十二の頃であった。現、捲れば捲るほどに、影が差してしまいそうなほどの年月。兄の齢は二十三となっていた。数多の学びの中で『弟』の現状維持は順調であった。ああ、順調。順調だと、問題ないと、思考の片隅に添えられている時点で『俺』は『俺』の糞のような始末に頭を抱えているのだが、それは『それ』だと謂うしかない。さあ、今日も今日とて弟さんに、小さな、小さな、花のない植物に『水』をやる時間だ。透析するのも、浄化するのも、気が遠退くほどには慣れてしまったのか。そうして、馴染ませているところで非日常からの誘い。何故だろうか、外が騒がしい。騒がしいものがジワジワと、ぐちゃぐちゃと、病室に迫ってくる。……まさか、暴動か何かであろうか。それとも……悪の組織の襲撃であろうか。……ハハハ……。最悪の中の最悪が、災厄の中の災厄が、むしろ、今までやってこなかったのが奇跡である。知っての通り、世界は暗雲とやらに抱かれている。成程、英雄は悉く潰されており――この場には家族、友人、etc――二文字の巣窟だと謂う事は秘密結社の掌の上! 俺は……弟を起こさなければならない。起こして、目覚めさせて、俺は俺の慾と共に昇華をされなければならない。ならない、ならない、ならない……。俺は何故に、そんなにも俗な俺を受け入れようとしないのか。吹き飛んだ。扉やら、器具やら、何やらが吹き飛んだ。吹き飛んで――俺の顔を覗き込んできたのは『怪人』の貌であった。フクロウだ。フクロウだ。雌フクロウの貌が回転していた。
十二神怪人――ディー・コンセンテス――最高神の名を冠している彼等は、彼女等は『英雄』を蹂躙して回っている最中であった。病院を守ろうとしていた英雄の姿は消え去って、最早、この空間にはフクロウの啼き声と『兄』と『弟』、その三つのみである。……俺は、弟の為に働いているのだ。働いていると謂うのに、如何して『こう』も起こせない。俺には手段が『ある』筈なのだ。俺の頭の中にはきっと絶対的な方法が蟠っている筈なのだ。ボコボコと、ブクブクと、自分でも解せないほどに『おもい』が溢れてきた。悪の組織の怪人を相手に『なに』をしているのか。此処で殺されるのがオチだと謂うのに何を見ているのか。ホゥ……ホゥ……ホゥ……思わぬ出会いもあったものよ。貴様、貴様自身が想像している以上に『素質』があると見た。素質だけで謂うならば、私よりも、私達の中でも上位に坐す事が可能と見た。如何だ……仕事も丁度、無くなった事だ。私達の下で働いてはみないか? フクロウ貌の怪人が――化け物の類が――何をしているのかと問われれば、勧誘である。まさか……悪戯が好きなのか。俺を誘うだなんて、随分な真似をしてくれる。悪の組織なのだろう。甘い蜜のような『誘い方』をしてくれるに違いない。期待した。期待をしてしまった。まるで、這い寄ってくるインキュバスが如くに、馥郁を嗅いでしまったのだ。ホゥ……ホゥ……ホゥ……。わかっているではないか。つまり、私は貴様の弟を目覚めさせる事も容易いのさ。|契約《●●》は呆気なく、インスタントに行われた。行われ、フクロウ貌の怪人は素早くこの場から消え去った! これで弟が起きてくれる。これで弟の意識が回復する。回復した暁には――俺が、どのような俺になっているのかを、報告しなければならない。時代の終わりが如く。黄昏の迎えが如く。世界のように瞬きをしたのであれば――それが新たな地獄の幕開けなのだと、数秒後に、二人は踊る運命となった。
知っている。この結果が、この中途半端が、自分の犯した罪の続きだと謂う事くらいは理解している。あの怪人が与えてくれたのは『奇跡の発現』くらいの沙汰でしかなかった。いや、奇跡を起こしたのだ。背中を押してくれたのだから、これでも十分な成果である。きょろきょろ、ぐるぐる、忙しなく動いている弟の『目』。目玉が捉えているのは虚空であろうか、兄であろうか。何方にしても兄は弟の心を暴かなければならない。意思伝達を可能とする為、用意したのは視線入力装置であった。これで……これで、俺は、弟と会話をする事ができる。会話をして、久方振りに『兄弟』をする事もできる。最初に何を訊くべきだろうか。挨拶くらいはしておいて、何を会話の種とすべきだろうか。兄の事か。兄と弟の関係性について、そのくらいしか『種』を蒔く事など出来ないのだ。
兄よ――兄よ――お前は、ボクの為に一生懸命、身を粉にして、働いていたらしい。けれど、ボクは、そんなことは頼んでいないし、死んでいた方がマシだと思っていたよ。何せ、ボクの兄は『できている』んだ。ボクの兄は、お前は、憎らしく思えるほどにケダモノだったのだ。いや、ケダモノの方が、まだ、扱い易いのかもしれない。お前はボクをどのように見ていたんだ。その『目』だ。その『目』をやめてくれ。お前は、お前自身の邪悪さに気付いていて、気付いていないフリを続けていたんだ。ボクは生まれた時から今の今まで、お前に対しては呪詛しか吐いていないんだ。それをわからず、わかっていて尚、お前はこれをしてくれたんだ。お前がボクを殺そうとしないなら、生死の狭間に追い遣ると謂うんなら……ボクはお前の事を、腐っているのだと軽蔑しよう。
双子の仲が良いだなんて、幻想だ。
健康な兄、病弱な弟。出来る兄、出来ない弟。
生きている兄、活きていない弟――。
わたくしをまだ嫌ってくれている。そのまま、ひとびとから疎外されろと鳴いてくれる。
弟の『生存』を、その音と痛みで『自覚』する。
これこそが、歓びである――。
健全だった魂が、維持していた肉体が、完膚なきまでに揺らいだ。かゆい。嗚呼、痒い。痒くて、それを掻き毟る行為は心地が良い。手を伸ばした先にあったのは生命維持の為の装置である。落としてしまえ。落として終えば、弟は解放される。解放される筈だったのだが、筆舌に尽くし難いほどの痛痒。俺は……何になっているのだ。何に、なっていくのだ。噫、ヘルメス。異様こそが誕生だ。
知識だけが残されており、自身の名も弟の名も、不明な儘だ。俺は……そうだ。わたくしは……ディー・コンセンテス・メルクリウス……。
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